ヨーガ講師・作家・赤根彰子 エッセイ
赤根彰子のインドのマハラシュートラ州立カイヴァラヤダーマ・ヨーガ大学留学記
「そうして扉は開いていく」
 
 
  
インドの弓楽器エスラジ奏者&electro-acoustic musisian・向後 隆のstudio Yatrah

1 そうして扉は開いていく
 
 いつもそうなのです。決断は扉が開いた瞬間には、もうすでに一歩を踏み出しているのです。それは何か見えない力に引き寄せられるように「こちらへいらっしゃい」とまるで声が聞こえるかのように、道がつながっていくのでした。私が決めているように見える事柄も、すべては仕組まれていた、あるいはもう決まっていたのではないかと、後になると思えてくるのです。
 
 今回もそうでした。突然決まったかに見えた私のインド留学も、そこへの道程(みちのり)はもうずっーと前から始まっていたのかも知れません。ある日、ヨーガの生徒さんが、あるお寺の本堂で、ヨーガのクラスが始まる前の時間に一冊の本を私に見せてくれました。それはインドのヨーガ大学のテキストとして使われているという本で、ヨーガ大学というものが存在することを、そのとき知ったのです。
 それまでインドには3回ほどヨーガの修行に行っていた私ですが、ヨーガ大学があるというのは知りませんでした。そして私は「そうだ。今度行くべきところはそこかもしれない」と直感し、そこで即、留学することを決断したのでした。あっと言う間の出来事でした。しかし決めたと言っても自分で勝手に決めただけで、果たしてどうすれば留学できるのかそのときはすべては謎だったのです。
 
 そこで日本では今2人しかいないそこに留学した1人に連絡をとり、留学にはどんな資格が必要なのか電話で尋ねました。
「4年生大学を一定の成績以上で卒業していること。英語で授業を理解出来て、筆記試験は英語で行われる。授業はヒンディ語と英語でおこなわれ、ヒンディ語とサンスクリット語が出来ることが望ましい。」
と言うことは、私は大学院を出ていたのでそこは問題なし。ヒンディ語とサンスクリット語は大学院のとき勉強したけれど、それはもう15年も昔のこと。「んんーーー」とうなったものの、即ヒンディ語の勉強を再び始めることに決めたのでした。まずは、ヒンディ語の講座を見つけることーけれど日本のヒンディ語を学ぶ人の人口は極めて少なく、それでも5つ程、ヒンディ語クラスを見つけました。しかしどれも私の受け持つヨーガのクラスと重なっていて通えそうにありません。あきらめかけた私でしたが、友人がある人を紹介してくれ、その人に電話すると、その人が私にヒンディ語を教えたい人が一人いるから、家庭教師で良ければ紹介出来ると言ったのでした。
 
 すると、その本人から電話が入り、当時私は逗子の森の中に住んでいたのですが、鎌倉に住んでいるその人は、すぐに私の前に姿を現したのでした。その日は大雨でしたが、「ではこれから伺います」と電話を切り、やがて現れたその人はジーパンに下駄を履いた昔の大学生のような人でした。
 
 なぜかすぐにヒンディ語の勉強が始められた私は「これはもうインドへの留学の扉が開いている」と嬉しくなりました。いつだってそうなのです。「扉はそのときが来れば自然に開く」と。けれどインドから取り寄せたヨーガ大学の入学要項には「年齢制限30歳以下」と太い文字で書いてあったのです。4捨5入40の私は・・・
「あれ?目の前で扉が突然しまってしまい、おかしいなぁ・・」と唖然。そのときは「私の運命やいかに・・・つづく」といったところだったのです。

2 それでも扉はインドに開く!
 
 年齢制限で扉が閉ざされた私は、そのときはインド留学をあきらめたかに思えました。けれどヒンディ語の勉強はなぜかやめませんでした。ヒンディ語の家庭教師は、やる気満々で相変わらず下駄の音を響かせながら、坂のずっーと上の家まで来てくれていました。 彼は発音には厳しく、ヒンディ語の場合、破裂音(発音したときに息が強く出る)がたくさんあって、それを発音するときに、ティッシュペーパーを顔の前にたらして、発音したときにティッシュペーパーが、息でひるがえるのをチェックするのでした。森の中の家で非常に真剣に2人、ティッシュペーパーを顔の前にたらして、発音を繰り返す様子は、客観的に見るとかなり変な感じではありましたが、そのときは2人共やけにまじめだったのです。
 
 ところが順調に見えたその「お勉強」も突然終わりを告げたのでした。ある日その家庭教師はお酒を飲んだ後に、ヒンディ語を教えに来たのでした。私はすぐに異変に気づきました。彼の頬がかなり赤くなっていたし、顔付きもいつもと違う様子、何よりつらかったのは、破裂音の発音のときに、お酒臭い空気が私の顔面にかかることでした。一切お酒を飲まない私はそれにはびっくり。その後すぐに「留学出来そうにないので」と言う理由でその人が来るのを断ったのでした。
 
 家庭教師もいなくなった私は「やはり留学への扉は閉まってしまったのかもしれない。留学するなということなのかも」と肩を落としたのでした。
 それなのに私はすぐに他のヒンディ語のクラスを見つけてしまったのです。土曜日は朝は横浜のヨーガのクラスを指導し、夕方は品川でもう一つクラスがあります。なんと横浜の朝日カルチャーセンターのヒンディ語のクラスはその丁度午後のあいている時間に開講されていたのでした。私はまたしても「ああ、この偶然の一致は何か意味するのではないだろうか。とりあえず勉強は続けていましょう」と思ってしまうのでした。夏から始めた勉強ももう冬になろうとしていました。年齢制限は絶対的なものに思えたので、留学はもう無理だろうと頭ではわかっていたのです。
 
 そしてその冬、私は突然インドに旅だったのでした。南インドにでも行って見ようと思い立ち「インドの最南端にあるコモリン岬に行って、アラビア海とインド洋の合流する聖なる地で、その水平線に沈む夕陽をお祈りしながら見るのもいいなぁ、そして南インドの水郷地帯の奥地にあるヨーガのアシュラム(道場)でクリスマスを迎えるのもいいかもしれない」と考えたのです。そのときはもう完全に留学のことはあきらめていたかのように思えました。
 
 その頃インドでは、テング熱という伝染病が急に発生して、インドへの旅行を見合わせる人も多いようでしたが、乗り込んだエアーインディアは満席状態でした。私はボンベイ行きの飛行機の中で、ガイドブックを見ながら「さぁて、とりあえずはどこへ行きましょう」とページをめくっていたのでした。そんなのんびりしたことが暮れの忙しい旅行シーズンに通用しないことを忘れていた私は、そのときはそれからインドで苛酷な目に合おうとは思っても見なかったのでした。

 

3 どこにも行けない?!
 
 冬の寒い日本を離れ、暖かいインドに行くのは嬉しい気がしていました。冬の青空にくっきり富士山が見えました。デリーそしてボンベイに向かう飛行機の中で、機内食(インド・ベジタリアンミール)を食べながら、数日前に会った奇妙な友人の言葉を思い出していました。その人は私の前世が見えると言い、戦国時代に武将であった話やタイの宮殿で踊っていたときのことなどをいろいろはなしてくれました。「あなたは魂がきれいだからあなたの人生は大丈夫でしょう」と言いました。ヨーガは魂を磨く法でもありますから、その言葉を聴いて、ヨーガのおかげかもしれないと嬉しくなりました。
 
 ひとりにやにやしながら、インド食を食べ、もう気分はすっかりインドになって来たところで、ボンベイに着いてどこに泊まるか決めていないことに少し不安になってきました。すると隣の人が話しかけて来てくれて、その人はボンベイで一泊して、次の日にプーナにある有名な和尚(バグワンシュリ・ラジニーシ)のアシュラム(道場)に行くのだと言いました。泊まるところが決まってない私を心配して、その人が予約してあるホテルに行って見てはどうかと誘ってくれました。私はすっかり安心しました。
 
 飛行機は日本を発って12時間後に無事にボンベイに到着し、飛行場の近くのホテルに一泊しました。次の日飛行場から南インドに行くべく、飛行機の手配をしようとしたら、南インド行きの飛行機はキャンセル待ちが100人以上いると言われ頭がクラクラしてしまいました。「さすがにインドは人が多い」なんて感心している場合ではありません。色々聞いて全部ダメで「ゴア行きならキヤンセル待ちが少ないから大丈夫」というその言葉を信じた私がバカでした。インド人はいいかげんなことを言うということを忘れていたのです。空港で「待つ・待つ・待つ」レストランでドーサなど食べながら、3時間半・・・・で結局席はありませんでした。
 
 がっくりして飛行機はあきらめ、バスで飛行場から鉄道の駅に行くことにしました。バスを降りてすぐだと言われた駅は歩いて25分もかかりました。インド人はいつもそうなのです。適当に言うのです。で、駅に着いてまたびっくり、駅は人・人・人・人であふれていました。切符予約の窓口は長蛇の列「とても列車に乗れそうもない」というのは一目で分かりました。「なんて人が多いのだろう」とまたしても感心している場合ではありません。

 

4 とりあえずは夕日でも見よう!
 
 鉄道もダメだとなると、次に思いつくのはバスなのです。バスで南インドまで行くのは遠すぎるので(2日以上かかる)、とりあえずアジャンタ・エローラの石窟に行くことに急遽行き先を変更、州政府観光案内所に電話して、アジャンタとエローラの観光の拠点となるアウランガバード行きのバスツアーの席があるか尋ねました。そこのオフィスの人は「あるある問題ない(ノープロブレム)」と軽く言いました。「あー、よかった。ではこれから申し込みに行きます」と電話を切ってタクシーに乗りました。
 
 ところがタクシーの運転手さんがその場所を知らないのと、英語とヒンディ語が通じず、マラティ語しか話せないのでさあ、大変。やっとのことでオフィスについて「アウランガバード行きのバスを」と電話予約したことを告げると、お兄さんはどこかに電話して
 「ああ、ごめん、ごめん。。今、確認したらもう満席になっていた」と言う始末。「ひぇー、これがインドだぁ。ああ、どうしよう」わたしはどっと疲れるのでした。オフィスの人々は「ああでもない、こうでもない」とワーワー話だし「鉄道なら行けるはずだから駅に行け」と言うのです。「あのねぇー」私はその駅から来たのです。
 
 トボトボとオフィスを出て「とりあえず、夕日でも見よう!」とアラビア海に沈む夕日が美しく見えるというオベロイホテルに行きました。海岸に赤い夕日が沈もうとしていて、あたりはオレンジ色に染まりとてもきれいでした。ロビーでゆっくり夕日が沈むのを見ようとしたのですが、私はそんなこと言っていられないのです。今日泊まるところも行くところも決まっていないのです。夕日が落ちたら、悲しくこわい夜になってしまいます。で、ホテルのフロントでアウランガバードに行くのはどうしたらいいのかと聞くと、クロフォードマーケットに行くといい、たくさんの旅行代理店があるからアウランガバード行きのバスも手配出来るとおしえてくれました。
 
 タクシーに乗り、行き先を告げ、運転手さんと話していると、そのおじさんがバスの切符を手に入れてあげるからと言いました。おじさんは「ノープロブレム、心配ないよ」と言いましたが、私はその日一日何度その言葉を聞き、何度問題ありだったか、数えるのも恐ろしく、ただバスの席があることだけをお祈りしていました。
 おじさんは本当にバスの切符を買って来てくれました。そしてバスが来るまでチャイ(ミルクティー)を飲みながら、一緒に待っていて、バスが来ると席まで連れて行ってくれたのです。おじさんは握手して「ボンベイに戻ったら市内観光の案内するから、オベロイホテルあたりにいつもいるから来るように」と言ってバスから降りて行きました。
 
 5分後にバスはアウランガバードに向けて走りだしました。「何という一日だ。インド的な一日だった。まったくインド的で、インドの洗礼を今日一日ですべて受けてしまった気がする」と、バスのシートに身体を沈めました。「ふーーー」 窓を開け、涼しい夕べの風を受けながら、ボンベイの街は暗くなっていきました。オレンジ色の不気味な明かりに照らし出されてボンベイの街がボーーと闇の中に浮かび上がってきます。

5 インドでお風呂は天国なのだ!
 
 10時間のバスの旅はとても苛酷でありました。最後部座席だったので、バスは途中すごく揺れて、足が疲れるので伸ばしたり、その足の具合の良い置き場所を狭いシートで見いだすのにも疲れ、閉める窓がバスが揺れるたびに開いてしまい、冬の寒い夜気が入り込んできてけっこう冷たい思いをしてしまいました。
 
 「満月はどうやら明日のようですね」
とボンベイの街中を過ぎ、郊外を走る窓の外に黄色い月が出ているのを見ました。そんな静かな私の気持ちをかきむしるように、バスの中ではヒンディ語のビデオがものすごい音量で流れています。そんな中で乗客のナイロビ人とインド人が話しかけ色々質問するけれど、私の声はビデオの音量にかき消されて届かないのです。それでもそのうちみんな眠りにつき、バスは静かになりました。
 
 朝6:00、まだ暗い中、バスはアウランガバードに着きました。バスの中も冷えていて、降り立った田舎町も寒いのでした。
 「いったいここはどこなのでしょう」
インドでも寒いなんて。オートリキシャに乗ってアショカホテルに朝食を食べに行きました。リキシャマンは10ルピーで行くと言い、それを7ルピーに値切りましたが、アショカホテルはすぐ近くで、2ルピーはボラれてしまいました。
 ホテルでトイレに行き、顔を洗いましたが、髪はボサボサ、バサバサで顔は疲れ、お腹はペコペコでした。朝食はプーリー。
 「ああーインド的な朝だぁー、おいしいー」
  ウェイターが何かと話しかけて来るのです。ヒンディ語を使うと「オオ−.ヒンディ語が話せるの  か?」
 「インド料理は好きか」
質問は永遠に続いて行くかに思えるのです。高級レストランはチャイ(インドミルクティー)はなく、セパレイトティー(紅茶)なので残念なのですが、バスでは断食状態でしたので、生き返るという感じです。
 
 とても疲れていて寒いので、熱いシャワーを浴びるためにアショカホテルに泊まることにしました。
フロントで値段を聞いてつい日本語で
 「ゲー、高い」
と言ったら、なぜか
 「値引きしてあげるからぜひ泊まりなさい」
と言います。部屋を見せてもらい、お湯が出るのを確認しました。
 「確かにお湯ですーー」
と、インドでは熱いお湯だけで感動できるのです。しかもバスタブ付きなのです。
 
 泊まることに決め、お風呂に入り、もうすごくリラックス。そのあと疲れをとるためにヨーガをして、最後のシャバアーサナで眠ってしまいました。「インドでお風呂は天国なのだ!」

 

6 どこへ行くのだろう?
 
 午後のまどろみの後で、オートリキシャで、エア・インディアのオフィスまで行きましたが、南インド行きの飛行機はやはりとれませんでした。アジャンタホテルで昼食を食べた後、タクシーで鉄道の駅へ。ボンベイまでは夜行がとれましたが、南へ行くカニヤクマリ特急はボンベイでないと予約はとれないと言われ、「あー、何の予定もたてられないし、行くところも決まらない」ふーーーとため息。
 
 なので、アウランガバード観光へと出掛けるのでした。タージマハルをモデルにしたビービーカマクバラーに行きます。でもタージマハルは100倍美しく、その日はもう何もすることがなく、「ああ、インドでは一日一つしか出来ないのです。今日は鉄道予約だけ」と、ふーーとまたため息。ああ、赤い夕日が沈んで行きます。暗くなって来たら、黄色い巨大な満月が出て来ました。すばらしく美しいのです。で、開き直ってタージホテルへ。今日はクリスマス・イブでした。クリスマスブュッフェを美しいホテルで食べて「ああ、今日はすてきな一日でした」と、インド的に楽観的になりつつあるのでした。 
 次の日、アジャンタに行きます。バスに乗り込み、田舎道をバスは行き、ブーゲンビリヤの花が咲き誇っています。ほとんど建物も無く遠くに丘が連なっています。いい気分の所で、バスが故障。「またぁー」と言う感じ。インド人は気にすることもなく、なぜか歌を歌っているのです。手拍子までうちながらみんなで歌を歌っているのです。
 
 アジャンタに着いたときは、12時を回っていました。日差しがとても暑く、汗をぬぐいながら石窟寺院を見て廻ります。菩薩の壁画、ブッダの像、石窟の中でインド人のおじさんがパーリー語のお経を唱え、それが壁にこだまして響いて響いて行くのです。私は第26屈で思わず小さいころから好きでいつも絵に描いていた、ブッダの涅槃像を目にし、流れる涙を止めることは出来ませんでした。古代、ここは深く静かな仏教徒の修行の場所であったに違いありません。なぜ人は紀元前から瞑想していたのでしょう。瞑想が私の人生の鍵を握ると深く思うのです。
 
 翌日はエローラ観光へ。途中ダウラタバードに寄り、それは1187年のヤータヴァ朝の首都、その城は敵が侵入出来ないように掘りで巡らされ、内部に行くには皮を掘りの上に渡し、すぐにそれをとってしまうことで、外部との隔絶を作るというすごい方法をとっていたのです。城の中は完全に真っ暗で明かりなしには歩けない状態でそれも外的から城の内部を守るためだったのです。エローラは200年かけて岩山を掘ったといわれるカイラーサ寺院がそびえ立ち、圧倒されて声も出ないのです。そこには仏教寺院とヒンドゥー寺院とジャイナ教寺院跡が残っていて、インドの宗教の移り変わりや長い歴史を感じました。石の小さな部屋、僧はその硬い石のベットに寝ていたようです。真っ暗なその部屋で何を思っていたのでしょう。

 

7 なんかカーストってつらいのです
 
 結局アウランガバードから夜行でボンベイまで行くことだけが決まっていた私の運命はあるヒラメキによって、方向をぐっと変えていくのでした。どこにも行けそうにない私は
「あっ、そうだ。あきらめた留学先に行って見るのはどうだろう。そこはヨーガ病院もあって見学はできるかもしれないし、うまくすればヨーガセラピーなど学べるかもしれない」
と思ったのです。と言うよりそれより他に道はなかったのでした。
 
 夜行に乗るとコンパートメントにはインド人のおじさんが二人居て、召し使いが甲斐甲斐しく食事の世話をやいていました。そのおじさんたちは英語が通じず、おそらくマラティ語を話しているようでした。私にも食事を一緒にしろと召し使いに私の食事も用意するように言い付けています。その召し使いのおじさんはとても人相がよく優しそうな笑顔で、立ち居ふるまいも上品で、しかもとても気が利くのです。トランクからローティー(インド風パン)やサブジ(野菜のカレー煮)アチャール(インドのマンゴやレモンの辛い漬物)など出し私に勧めます。私はインドで乗り物に乗るときは、断食と決めているのでインド人の勧めたがりには、親切心からなのでかなり困ってしまうのでした。少し口にしただけで火が吹くほど辛いので、「バスバス(もう十分です)」とヒンディ語で言うと、おじさんたちは嬉しそうに笑うのです。
 
 感じの良い召し使いのおじさんは、私たちが食べ終わってから、列車の床に座って隅の方で食事を済ませました。そのあと私たちが寝台で寝る支度をして横になると、インド人のおじさん達はすぐに高いびきをたて始めました。そして召し使いの優しいおじさんは、寝台ではなく床に敷物を敷いてそこに横たわりました。夜になると冷えて来るし、床では列車の車輪の軋みや振動で体がきついだろうと私はとてもつらくなりました。インドではカーストの違いはまだ歴然と残っていて、慣れない私は心を痛める場面に良く遭遇します。人は平等ではないのだろうか。すくなくとも平等の機会は与えられるべきであると思うのです。生まれながらの差別はつらすぎます。
 
 列車がガタガタ揺れるたびに「眠りづらいだろうなぁ」と私は思っていると、その召し使いのおじさんは、さっき主人からウイスキーを少しもらっていたからか、すぐにすごく大きなイビキをかいて寝てしまいました。私の心配は無用だったようで、そのイビキの音がうるさくて私の方が眠れませんでした。トホホ。
 
 夜行は寒くそれでもそのうち私もぐっすり眠っていました。目が覚めたときはもうすぐボンベイ。朝8時には列車はボンベイの駅に着き、それから朝食をとり、鉄道でヨーガ大学のあるロナワラへの切符を買いました。なぜかその窓口は誰も並んでいなくて、切符はとてもすんなり買えてしまいました。それは拍子抜けするほどでした。やはり私の運命はその学校へつながっているのかもとも思えたのです。でもそのときは留学のことはもうすっかりあきらめてはいたのでした。ただそこにしか今、扉が開いていないという事実だけが目の前にあったのです。乗り込んだ列車は座れるほど珍しくすいていました。

 

8 なぜか来てしまいました
 
 と言う訳で、私はロナワラ行きの列車に座り、やがて窓の外に広がって行くデカン高原の雄大な景色を眺めていました。だんだん列車は高度をあげて高原へと登って行きます。ゆっくりとしたリズムで3〜4時間はゴトゴト走ったでしょうか。途中、目の前には深い巨大な谷が広がり、それはかつて目にしたこともない広大な風景でした。避暑地として知られているロナワラはボンベイ(ムンバイ)のお金持ちが暑い夏を逃れて過ごすリゾート地で、「どこに行くのか?」と質問して来るインド人に「ロナワラ」と答えると、皆が「オオ!ロナワラは美しいいい所だ」とうらやましそうに言うのでした。高原を登って行くので、12月のインドは鼻がぐすぐすして来るぐらい寒いのでした。もちろん私は熱い南インドに行く予定でしたから、成田の飛行場に暖かいダウンジャケットは預けてきてしまったのでした。
 
 そうして運命は私をロナワラに降り立たせることになります。オートリキシャでヨーガ大学のあるカイヴァリヤダーマまで行きます。小さな田舎街という感じがします。大きなビルもなく、小さな店が軒を連ねて、果物や野菜、日常品などを売っている様子が見えます。リキシャマンは外国人と見て25ルピー(約80円)とったけれど、そこは15ルピーの距離だったと後から知りました。「またしてもやられたぁーー」という状態でした。
 
 まずはヨーガ病院に行き、見学できるか尋ねました。「明日7時にクリヤヨーガがあるから来なさい」と言われ、近くのホテルに部屋をとりました。ホテルで夕食をとり、疲れていたので7時には眠ってしまいました。翌日、6時に起きて、ヨーガ病院へ。洗面所のところでクリヤが始まっていました。水で鼻を洗い、次に細いチューブ(ひも)を鼻から入れ、口から出してゆっくりそのチューブで鼻腔をしごいています。「あらーー」とびっくり。そして水をたくさん飲んで、それをゲーゲー吐き出しています。人によっては、口の中に手を入れてゲーゲーやっています。「あらー、気持ち悪そうで、気持ち良さそう」という複雑な状態なのです。鼻を浄化する方法と胃と食道を浄化する方法が行われていました。
 
 7時30分からアーサナ(ポーズ)が始まりました。男女別れて実践しています。数人のインド人と外国人が5人ぐらいいます。一人日本人かと思い声をかけるとその人は韓国人でした。ヨーガの後で今、病院に部屋の空きがあるから滞在しないかと勧められました。3食付くしインドのサトヴィック(刺激の少ない)なヨーガ食が食べられるからと言われ、1日6ドルで8日分払いました。インドにしては破格に高い値段で、それは外国人値段でした。朝はインドのトーストとショウガ入りミルクとぶどうでした。昼は、ダール(豆のカレースープ)とニンジン・トマト・ジャガイモのカレー煮、大根サラダ、ライス、チャパティ(インド風パン)ヨーグルト、ココナッツチャツネでした。夜は、ダールとキャベツのカレー炒め、ライス、チャパティ、大根とにんじんのサラダ、ヨーグルトでした。病院のヨーガ食なので、スパイスがひかえてあり、辛くない食事でした。

 

9 留学できるのかもしれない
 
 昼食が終わると、自由時間なので敷地内を散歩しました。広い敷地内に大学、研究所、図書館、病院などがポツンポツンと点在しています。しかもひっそりしています。夕方、夕日を見ながら散歩していると、インド人が「そこを真っすぐ行くとクティ(小さな小屋)があって、スワミジ(ヨーガのマスター)がいるから行ってご覧なさい」と言いました。その人は頭にターバンを巻いていました。シーク教徒の人です。私は牛小屋の脇を通り、小さな階段を上がって行きました。みんながヒンディ語で話していました。6時からプージャ(お祈り)が始まり、皆、サンスクリットのスローカ(お経)を唱えています。護摩炊きのような火の儀式です。意味もわからないまま、そこに1時間ほど座って居ました。そのあと甘い果物のプラサード(お供物)を頂いて、暗闇の中を病院に戻りました。星が夜空に美しく輝いていました。
 
 夕食が始まると新顔の私に、そこに滞在している人達が自己紹介を始め、スペイン人のカップル、フランス人の女性、韓国人女性1人と夫婦1組、そしてインド人の家族や男性など14人ぐらいいたでしょうか。皆この病院に滞在しているのですが、韓国人の夫婦だけは、ヨーガ大学の留学生だと言うのです。
 
 『あれーーー、どう見てもこの二人は私よりも年上に見える。一体どういうことだろうか。確か年齢  制限30歳以下、独身というのが条件に入っていたけれど』
 
 私はそこですっかり忘れていた留学のことを思い出したのでした。そのときはもう完全に留学のことはあきらめていたのですから。でもそこで突然、その人達だけに「いくつですか?」と聞くのも失礼なので、その場では黙っていたのでした。ただ「学校はどうですか?」とだけ聞いてみました。するとその韓国人の旦那さんの方が「いいコースだと思うけど、すごくきつい。インドの生徒達は若いし、言葉の問題もないからね。僕たちは40を越えているから体力的に非常にハードだ。なぜなら食事が違う。韓国では焼き肉をいつも食べていたから、ここに来て10キロ痩せてしまった」と言いました。『40を越えている』私は『?』マークの顔になっていたのだと思います。奥さんの方も「すごくきつい、勉強も大変だし、生活の習慣が違い過ぎるから」と言いました。二人は私が留学に興味を持っていると感じたのか「もし、留学したいなら、十分準備をして来るべきだ。とくに英語、そしてサンスクリット語、そしてヒンディ語。授業はよくヒンディ語だけになり、僕たちは困り果ててしまう。先生にはいつもそれで抗議していてとても疲れるんだ。でも留学生は僕らだけだから、立場が弱いんだ」と旦那さんの方が強い口調で言いました。韓国人の感情的な面を見た気がしましたが、私はついに核心に触れ「年齢制限はないのですか?」と質問しました。すると「留学生は大丈夫。ただ最低4年生大学を出ていることと、語学ができることは問われる。あと試験が出来るかだね」「私は中間試験は落とされたのよ。だから期末試験のプレシャーでいっぱい」と奥さんはとても不安げでした。私は「あらら」とずっこけてしまいました。「留学生は年齢は問われない。ならばなぜ、入学要項にそう書かないのだろう。まあ、それがインドなのだ。ということは私は留学できそう・・」
 

 

10 さぁて、どうしよう!
 
 決断すれば留学は可能なのかもしれないと言うところに来て、私は「さぁて、どうするの?」と自問するのでした。『それは決まりでしょう。ここに導かれて来た理由はそれしか考えられないではないですか。長い一生のほんの一時期、留学してヨーガの勉強ができることはとても恵まれたことなのだから』と自答する私なのです。ヨーガ病院の一室で私はベットに横たわり天井を眺めながら、私の運命はインドでしばらく暮らすことになりそうだと、方向を変えて行くのでした。 
 
 翌日、クティ(精神的指導者・スワミの住居)にプージャ(お祈りの儀式)に行くとスワミが日本語で「こんにちわ」と私に声をかけました。私がここに来た理由を英語で聞きました。私が留学したい希望があることを告げると「明日、日本人でここを卒業し、今はプーナで大学院に行っているヒロシが来るから、その人とよく相談し決めなさい」とアドバイスしてくださいました。
 
 私は留学するとなれば色々考えなければならないこともあるのだけれど、するかしないかはもう運命で決まっていることだから、自然に事は運んで行くのだろうと、なんだかのんびり構えていました。ヨーガでは必要な物は必要なときに来るという考え方があって、純粋な気持ちで欲を出さずに事を運んで行けば、本当に必要な人・道先案内人、必要な物はその必要なときに向こうからやってくると考えるのです。
『とりあえず、明日その人に会ってみましょう』とだけ決めて、お祈りの儀式に参加しました。
 
 祈りは、人の心を純粋にする効果があります。意味の分からない言葉・マントラを繰り返し唱えます。古代インド語・サンスクリット語の不思議な響きは、火の儀式の炎の火の粉を踊らせるように宙に舞います。
 
 私は祈りの声の中で、ここに導かれて来たことに、その偶然に、あるいはその必然に気分が何か少し高揚しているのを感じました。
『なぜ、私はここに居るのだろう。そしてサンスクリット語をインド人達と一緒に唱えているのだろう。そしてなぜ唱えられるのだろうか?』 
不思議な感じです。10年前にもインドのヨーガのアシュラムで唱えていたマントラが記憶に残っています。それが唇に自然に蘇ります。サンスクリット語のお祈りを聞いているとなぜか嬉しいのです。見知らぬ国の古代の言葉に心がひかれるのはなぜなのでしょう。お祈りの儀式が終わり、カイバラヤダーマ(悟りの里)の中を散歩してヨーガ病院に戻ります。
 
 私の人生での役割がヨーガを深めて行くことであれば、私はここで勉強することが必要かもしれない。ヨーガ発祥の地・インドにいると古代からインドで培われた精神性・霊性を感じるのです。もちろんんそれはもうインドでも目にすることは難しくなっていますが。なぜならインドも近代化が進んでいるからです。けれどその人々の祈りの中に、手を合わせる行為の中に何か目に見えない力を感じるのです。人は大切なものを失いつつあります。目先のこと自分のことだけにとらわれて、何か普遍的なもの、全体的なことを忘れつつあるのです。祈りの中に魂のレベルに還るそんなひとときを感じられるインドの瞬間なのでした。

11 日本人、来る
 
 翌日、またクティ(精神的指導者・スワミの住まい)に行くとヒロシさんがスワミの隣に座って居ました。なんとも姿勢のいい人で、腰も背中も首も真っすぐ、頭も真っすぐで「ヤーヤー・・・・ハッハッハッハッ」と手をあげて私に挨拶してくれましたが、頭から尾てい骨まで真っすぐなまま、腰のところで前に折れてお辞儀しました。「わぁー、まっすぐな人だぁ」と言うのが私の第一印象でした。
「ヤーヤー、留学したいとお聞きしましたが、それは結構結構。ハッハッハッハッ」
ヒロシさんは7年前にヨーガ大学に留学し、その後もインドに住み、現在はプーナ大学院でインド哲学の博士課程在学中とのこと。
「ヤーヤー、インド滞在も長くなりました。今年で7年目です。インドに来てすぐに帰れる人とインドでの長い療養が必要な人と色々ですから。私は長く療養の必要な組だったんですねぇ。ハッハッハッハッ」
「はぁ」
 私はそれがどういう意味なのかよくはわかりませんでしたが、実際インドにはまってしまう人は、インドから離れられないということはよく聞きます。けれどヒロシさんが言っているのは、何かインドで癒される必要がある人たちは、そのリハビリが長くかかり、日本にすぐには社会復帰出来ないと言うようなニュアンスでした。
「ヤーヤー、私は今は日本に所属する場所がありませんからハッハッハッハッ」
『ふぅーん』
 
 私にはその事情はよくはわかりませんでしたが、わかったことはヒロシさんが話すときは最初が「ヤーヤー」で最後が「ハッハッハッハッ」であるということでした。そしてその「ハッハッハッハッ」のときも頭から尾てい骨まで真っすぐなままなことです。
 やはり長くインドでヨーガをしている人はからだが真っすぐなのだと感心するものの、その隣にいるスワミ(精神的指導者)が腰が曲がって居ることに気が付いた私は、精神的指導者はそんなことも超越しているのかと「ふぅーん」と複雑に感心し、それでも姿勢はいい方がいいよねと姿勢を正すのでありました。
「ヤーヤー、ところで留学するにあたってはいくつかのアドバイスがあります。まぁ、日本で修士を出ておられるのなら、ヨーガ大学を卒業後、プーナ大学の博士課程にぜひ留学なさい。大学院の留学なら奨学金ももらえますから。ハッハッハッハッ」 
「そんな先のことは何も考えていませんので・・・」
と私が言うと
「ヤーヤー日本ではヨーガが健康体操のように誤解されていますから、きちんとした指導者が必要なのです。ヨーガの先生を養成できる指導者が必要です。それには基本的なことをこの学校でおさえておくといいでしょう。そのあとはぜひともプーナ大学でヴェーダを学ばれることをお勧めします。しかし日本ではヴェーダに関しては需要はないでしょうなぁ。ハッハッハッハッ」「はぁ」
と私。それからヒロシさんのインド哲学の講義が永遠と続いて行くのでした。それはなかなか興味深いものでした。
 

 

12 昼寝でもしよう!
 
 日本人の卒業生であるヒロシさんとの長〜い話を終えて部屋に戻った私はランチをすませて、インド的に昼寝でもしよう!とベッドに横になりました。
「留学するのも悪くはなさそうだ」
という感じでしたが、インドに長く居る人もいるものだと感心しつつ、またしても私はなぜここにいるのか、どうしてインドなのかと首をひねる思いもありました。そしていつもインドに導かれていくのです。一時アメリカに留学することを考えたこともありました。けれどそのときはなぜか周りの人達は皆
「なんでアメリカ?」という反応で、しかもどこからのサポートもなく、事もスムーズには運ばず、という状態で、わたしの父などは
「君〜、アメリカに留学する人なんていっぱいいるんだよ。君が留学するとしたら僕はインドだと思うけどね。そうだよインドだインドだ」
などど申す次第で、そのときはインド留学のイの字もないときで、そのときは『変なおやじ』と思ったものの、彼は予知能力があるなかなかのすごものなのかも知れないと見直し、
「なぜインドなのだ?」
と自分に問いかけてみます。その答えは簡単でした。
「それはヨーガの地だからなのです」
明確な答えが出たところで
「昼寝でもしよう!」
と食べた後ですぐに寝るのは良くないのではともう一人の私がささやくのを無視して『インドにあってはインドに従え』と目を静かに閉じるのでありました。
 目が覚めて私はヨーガの本を買うために、構内にある本屋さんに行くことにしました。ヒロシさんはヨーガ大学で使われるテキストが本屋さんにあるから、予習しておいたほうがいいですよ、とアドバイスしてくれていたのでした。
 
 部屋を出て歩いて行くと、向こうから日本人らしき人達が歩いて来ます。その中の一人の女性に見覚えがあるのですが、名前が出て来ません。その人は日本で有名なヨーガの先生で、一度ある会合でお話ししたことがある方でした。その先生も私のことは覚えていて
「あらあら、まあまあ」
とこんな所で再会するとはお互いびっくり。その方はヨーガの研究機関の調査で、福井大学の教授とカメラマンとインド人のガイドの4人でインド全土をまわり、ヨーガの実態を調べているということでした。けれどその福井大学の先生がインドは初めてで、インドやヨーガに対しても偏見があるため、彼女は同行していることにぐったり疲れているようでした。
「これからこの研究所の中を案内していただくので、あかねさんもご一緒にいかがですか」
と誘ってくださいました。それで4人と一緒に中を見学し、このヨーガ研究所の様子を知ることが出来ました。科学的にヨーガの効果を研究しデータとして残しています。ヨーガのアシュラム(道場)と違ったヨーガの捉え方がここにありました。医学的、心理学的、生理的にヨーガを分析していました。「ヨーガは科学である」という一面を見た思いがしました。
 

13 それではインドに留学しよう!
 
 一週間の滞在の内に、色々なことが起こり決まって行きました。留学には2人の推薦が必要で、それはその学校に関わりのある人で、そして私の事も知っていることが条件でした。そこで2人捜さなければなりません。滞在中にヨーガ病院に滞在している韓国人の女性と親しくなっていて、その人は韓国でも有名なヨーガの先生で、今もここで本を執筆中、このカイバリヤダーマとも古い付き合いなので、私がお願いすると私を推薦してくれると言いました。もう一人はヒロシさんです。「ヤーヤー、それは問題ないですよ。ハッハッハッハッ」とすぐに推薦欄に署名してくれました。
スワミは
「留学することに決めたのか」
と私に聞きました。私が
「はい」
と答えると
「今回はここにいつまで滞在するのか?」
と聞くので
「明日、ボンベイに戻る予定です」
と言うと、スワミは急にあわてて
「それなら、今日、校長に会っておく必要がある。留学したいことを告げて、校長面接を済ませてしまい、留学許可をもらってから日本に帰りなさい。それがいい、それがいい。アンジェリカ、今、校長に電話するから」と、そこにいるドイツ人の女性、アンジェリカに電話を校長先生の家に繋ぐように言いました。アンジェリカはドイツで弁護士をしていましたが、あまりの忙しさに嫌気がさし、ある日旅に出ることに決めて、他の国に船で旅する予定が、急にキャンセルになり、変更した船の先がインド経由でいくことになり、2、3日インドに停泊する船で、このカイバリヤダーマにあるインド人に連れてこられ、ヨーガのヨの字も知らなかったのに、なぜかすべてを捨てることをここで決心し、旅も止め、ここに滞在し、弁護士もやめ、ヨーガの修行をすることになったのです。
「あのとき、船がインドに立ち寄らなかったら‥‥」
運命は彼女の人生をインドへと導いたのでした。
「それからは180度違う生活。ドイツでは弁護士はエリートで、事務所を持ち、スーツにハイヒール。お酒に煙草、おいしいレストランでのぜいたくな食事。電話ではいつも怒って居て、休みもない忙しさ。ボーイフレンドも弁護士だったけれど、結婚の段階で、彼のお父さんが弁護士の奥さんは困る。弁護士はやめてもらいなさい、と保守的なことを言ったのよ。で、破綻。いつもストレスをかかえていたわね。今は、スワミについて火の儀式のやり方を学んでいるの」
 彼女もインドにはまった人でしょう。今年でインド5年目になると言っていました。スワミは電話で校長先生に
「今、日本人の留学希望者が面接に行くから」
と告げました。スワミは校長はベンガルの出身で日本人が好きだから問題ないとニッコリしました。
校長先生の自宅に面接に行き、私がベンガル語で
「ノモシュカール(こんにちわ)」と挨拶すると校長先生はひどく喜んで「おーおー留学OK,OK」と叫びました。
 

14 8月にいらっしゃい
 
 ヨーガ大学の校長先生は、私がベンガル語を話したことで、すごく気を良くしたようでした。「大学と大学院を出ている証明書と成績証明書、健康診断書、エイズ検査、推薦状などすべての書類を送れば、問題なく留学出来る。こちらから入学許可書を発行するから、それをインド大使館に持って行って、学生ヴィザをとって、8月にいらっしゃい。仏教学の修士号を持っているなら問題ない、問題ない。ようこそ、ようこそ」と上機嫌でした。
インド人は出身地をとても重んじる傾向があって、たとえばベンガル出身の人はベンガル出身の人をとても重要視します。その出身に誇りを持っていて、いわゆる同郷の人を大切にします。だから私がヒンディー語ではなくベンガル語で挨拶したので、ひどく喜んだと言う訳です。日本人でベンガル語を知っているなんて信じられなかったのかもしれません。
「どうしてベンガル語を知っているのか」
と嬉しそうに私に尋ねました。
「3年前にインドのカルカッタ(ベンガル地方)にホームステイしてヨーガと音楽を学んで居たことがあります。そのとき、下宿のおばさんはベンガル語を話していたので、単語だけいくつか知っているのです」
と言うと、
「私の家はカルカッタのそばにある。カルカッタに来たときは私の家に寄りなさい。私は実は今日カルカッタから戻ったところなのです。これはカルカッタのお菓子だ。さあどうぞ、どうぞ」
と言いました。私は留学を許可され、書類を送ることを約束しました。それを聞いてスワミもとても喜んでくれました。韓国人の留学生は
「とてもハードな学校だから、準備をよくして体調を調えて来るべきだ。タフじゃないとやっていけないから。あと語学をしっかり準備して来ること。解剖学の講義は複雑だから、日本語の解剖学の本を持って来た方がいい。でもあなたはもうここの様子がわかったし、インドに何回も来て滞在も経験して居るのだから、問題は何もないように見える。冬は寒くなるから、毛布を持って来た方がいいかもしれない」
とアドバイスしてくれました。
 
 その日ヨーガ病院のキッチンでは、インド人の子供の誕生会が行われました。その子のおばあさんがヨーガ病院に療養に来て居て、おかあさんも付き添って居るため、誕生会を病院でやることになったのです。インドでは、誕生日を迎える当事者が人々に食事やお菓子を振る舞う習慣があって、その子はまだ12歳なので、その家族が食事やお菓子を用意し、パーティーとなりました。私達外国人も招かれました。色々な国の人が集まって40人ぐらい、みんなおしゃれしていて華やかでした。ゲームが始まり、音楽に合わせてボールを回していき、音楽が止んだときそのボールを手にしていた人は負けで、その輪から外れて行きます。40人が興奮してそのゲームに興じ、私はそういうゲームが苦手なので、割合冷めた感じでボールを隣の人にさっさと渡していたら、結局最後まで私が残ってそのゲームで勝者になってしまいました。賞品はそのボールで、なんとそのボールの中にストロベリージャムが入っているというのです。オドロキ!
 

15 オムロンの血圧計が欲しいのだ
 
 ヨーガ大学の本屋で、ヨーガの本を買い求め、一番難しいとされるヨーガと解剖学・生理学の関係を扱った本を買おうとすると、その本はここには置いていないと言うのです。困っていると、本屋さんのおじさんが、その本を書いた本人がこの研究所にいるから、その人に直接会えば、本を売ってくれるかもしれないと言うので、さっそくヨーガ研究所に行ってみました。
 
 ヨーガ研究所でそこの入り口に丁度立っている人に
「ゴーレ博士に会いたいのですが、どうしたらよいでしょうか?」
と聞くと、その人はニヤッと笑い
「どうもしなくていい。私がドクター・ゴーレだ」
と言いました。
「はぁ」
と私は驚いて
「ナマステ(ヒンディー語でこんにちわ)」
と言って手を合わせました。
「オケー、私のオフィスにいらっしゃい」
とゴーレ博士は彼の部屋に私を招きました。
「で? 私にどうして欲しいのかね?」
と尋ねました。
「解剖学と生理学の本が欲しいのですが」
と私が言うと、察しはもうついていたようで、その本をすぐに出して売ってくれました。そしてしばらく私のことやゴーレ博士のことなど話しているうちに、突然ドクター・ゴーレは
「オムロンの血圧計が欲しいのだが、留学する8月に買って来てくれないだろうか。ヨーガの研究には血圧計は欠かせない。どんなアーサナ(ポーズ)のとき、どのような変化がおき、リラクゼーションでの血圧の変化、瞑想後の変化など記録している。でも何と言っても工業製品の品質は日本製が一番すぐれている。ぜひともオムロンの血圧計が必要なのだ」
と力強く言いました。私は
「はぁ」
と少し驚きました。なぜなら私は前回の引っ越しのとき、使わないものとして血圧計をどう処分するかで悩み、でもまだ使っていない新しいものだったので、捨てることも出来ず、あげる人も見つからず、まだ持っていたのでした。それはオムロンの人からもらったもので、以前、オムロンのヒューマン・ルネッサンス研究所の人が、体と心の健康についての取材で、私のヨーガを体験し取材したそのお礼に、指で計れる最新式の血圧計をくれたのでした。しかし私は血圧を計る習慣がなく、宝の持ち腐れだったと言う訳です。私は
「私はオムロンの新しい血圧計を持っています。それを私は使わないので、あなたに差し上げます。私はオムロンの人を知っていてその人にもらったのです」
と言いました。すると今度はゴーレ博士が驚きました。そしてニヤッと笑いました。
「で、いつくれるのだ」
とたたみこむように問いただします。
「日本からすぐに送ります」
と私が答えると安心したように満足した様子で、そして言いました。
すばらしい。今日ぜひとも私の家にお茶を飲みに来て欲しい。あなたに見せたいものがある」
 

16 なんだかひとつすっきりした
 
 私は必要のないものを手元に置いて置くことが嫌いです。必要なものだけに囲まれて生活したいのです。と言うよりも本当は何物にも囲まれずに、ガラーンとしたすっきりした状態の中で、生活していたいのです。だから、たとえ戸棚の中にそれが入っていて、見えなくとも、もしそれが不必要なものだとすると、気になるのです。戸棚の中もすっきり整頓されている状態が好きなのです。そして物は少なければ少ないほど嬉しいのです。必要なものが少なくなってくることが喜びです。しかし、生活必需品というのは、日本で生活する限り、たくさんあります。けれど、前回半年インドでヨーガの修行をしたときも、リュック一つで事が足りたのを考えれば、本当に必要なものなど、そんなにないのかも知れません。
 私にとって不必要だったオムロンの血圧計が、戸棚の中にあって、私はそれが必要とされるところに移動出来ることで、
「あぁ、なんだかひとつすっきりした」
と思うのでした。
 
 その日、ドクター・ゴーレの家にお茶を飲みに行きました。博士であり、アーユルヴェーダ(インド伝承医学)の医者でもある彼の家は、すべての電化製品がそろっているようでした。インドも近代化が進み、西洋化されたライフスタイルに、生活は大きく変化しつつあります。博士のお嬢さんは、インド服ではなく、洋服を来ていました。まだまだインドではインドの民族衣装、既婚女性はサリー、未婚女性はパンジャビ・ドレスをほとんどの人が着ていますが、都会の近くや上流の人達は、ジーパンにTシャツがナウイとされ、洋服を好んで着る人も多くなっています。
 博士もオフィスで会ったときは、ワイシャツにズボンでした。家ではクルタシャツとパジャマズボンというインド服でくつろいでいる様子でした。
「さあ、これを見て欲しい」
と指さしたのは、ヨーガの象徴であるオームと言う、サンスクリットの文字の瞑想用に使う美しいデザイン画でした。彼は音楽も好きでインドの古典音楽を流し、インドのお茶を入れてくれました。そして
「これを試して欲しい」
と大きなビンから茶色い粘り気のあるものをスプーンで取り出し、私に食べるように勧めました。それは口に入れるとすごい密度で粘り気があり、飲み込むのも力が必要な感じで、薬草のエキスの固まりのようでした。それが胃に入ると
「オオオーーー」
と言う感じでエネルギーが吹き出し、私には刺激が強すぎる感じがします。私は刺激には弱いのです。
「アレェーーー。オオオーーー」
などと、騒いでいるとドクター・ゴーレは『どうだ、すごいだろう』と言うふうにニヤッとするのでした。
「これは何ですか」
と私がヒンディー語で尋ねると、ドクター・ゴーレは
「これはアーユルヴェーダの薬で私が作った強壮剤だ。パワーがすごいだろう。これで私は病気などしない。どうだ。どうだ。どうだ」
と得意げです。刺激に弱い私は「どうもまいりました」という状態でした。
 

17 とりあえず、馬にでも乗ろう!
 
  留学することは、ほぼ決まりでロナワラを去ることにしました。留学することが決まったと言っても、考えなければならないことはいくつかありました。ひとつは仕事のことです。その当時私はいくつかの場所でヨーガを教えていて、私が留守の間、ヨーガのクラスをどうするかが問題になります。前回のインドヨーガ修行の時は代行の先生で大丈夫でしたが、今回は期間も長く、もし代行の先生では困ると言われれば、それらを完全に止めてインドに来なければならないかも知れません。代行の先生でもいいですと言うことになっても、代行の先生がうまく見つかるかもわかりません。また留学の間、大切な愛する人々と別れて過ごさなければなりません。考えなければならないことは、たくさんありましたが、
『留学することが正しい決断で、それが運命なら、事はスムーズに運んで行くだろう。それはそのとき考えよう。とりあえずは馬にでも乗ろう!』
とだけ決めてボンベイに向かいました。突然なぜ馬なのかというと 、私は人生でまだ一度も馬に乗ったことがなかったからでした。インドのガイドブックを見ていて、ボンベイで行くところを決めていたとき、ボンベイの近くにジェフビーチという観光地があって、そこでは砂浜で馬に乗れると出ていたのです。私は
『そうだ。馬だ!』
と直感的に
『そうだ。私は馬に乗りたかったのだ。馬なのだ!』
とヒラメイたのでした。
それには、実は訳があったのですが、そのときは気づかなかったのです。
ボンベイから車で30分程走り、ジェフビーチに着きました。浜辺のレストランでチャイを飲み、食事をして海を見ていると幸せな気分になって来ます。
『夕日を背にして馬に乗るのがよいかなぁー』
などと思いを巡らしながら、しばし海を眺めています。インドの海で馬に乗るというなんとも不思議な「なぜなの」という感じもあるのですが、浜辺に降りて行くと、私の馬への関心がすぐに伝わってしまったようで、馬引きの人達が自分の馬に乗れとしつこく群がって来ます。その中の一頭を選びます。馬を間近でよく見たことがなかった私は、ワクワク、ドキドキ、その馬の美しさに感動するのでした。その馬の謙虚な風情に驚かされました。と言うのも馬のまつげは下向きに生えていて、その長いまつげが瞳を覆い隠すように、控えめな感じが漂っているのです。
「なんて控えめで謙虚でおとなしく静かなの」
というのが私が抱いた馬の印象でした。いよいよ馬にまたがり、砂浜をかけて行きます。夕日はオレンジ色に海を染めて行きます。馬に乗って、私は馬に前にも乗ったことがあるように違和感を全く感じませんでした。そこで思い出したのです。インドに発つ前に、知り合いの人が「私の前世は戦国の武将だった」と言ったことを。それで私は納得しました。その言葉が私の中に知らない間にインプットされていて、それで突然馬に乗りたくなったのだと。馬の乗り心地は最高で、私は馬に乗ってヨーガを教えに行けたらいいのにと、そんな非現実的なことを考えているインドの浜辺なのでした。

 

18 マハトマ・ガンディーのシンプル
 
 ボンベイに戻った私は、ボンベイ観光にでかけました。エレファンタ島やイスラム教のモスク(寺院)、ヒンドゥー教のお寺などを廻りました。私の夢はいつか巡礼の旅に出ることです。でも最近は何より重要なのは内なる自分自身への旅にでることなのだと気づき始めています。
 
 ボンベイにある、マハトマ・ガンディーの滞在していたところ、マニ・バワンに行ってみました。マハトマ・ガンディーはインド独立の父と言われ、イギリスからの独立にさいして、人間の権利を守るという真理の要求を、暴力を用いず自分を厳しくコントロールすることで貫徹するという「サティヤーグラハ(真理の把握)」理論を打ち立てました。マハトマ・ガンディーは、アヒンサー(非暴力)、ブラフマチャーリー(禁欲)など、ヨーガでも重要とされる姿勢を保ち、インドをイギリスからの自由の境地・独立へと導いたのです。「マハートマー」というのは、「偉大な魂」という意味です。
 
 マニ・バワンに行って見ると、ガンディーが滞在して居たその部屋がそのまま残されていて、ほとんど何も無い空間です。そこにあるのは、糸を紡いでいた糸車と、小さな机、本は3冊、インドの聖典・バガヴァト・ギーターとムスリムの聖典・コーラン、そしてキリスト教の聖典・聖書です。そのシンプルさに私は感動してしまいました。修行者のような痩せた体、簡素な衣服、素足にサンダル。どこまでも歩き、人々に「非暴力・不服従」を説いて廻りました。
 インドでは今でも各地に、マハトマ・ガンディーのアシュラム(隠遁所)があって、断食や質素な生活をして、マハトマ・ガンディーの意志を受け継いでいます。
 私の今回のインドの旅も終わりを告げようとしていました。南インドを旅する予定が、あきらめていた留学先へと導かれ、そして私の今後の予定も大きく変えようとしていました。
「それでもいい旅だった。馬にも乗れたし・・・」
 エアー・インディアに乗り込むと、周りは全部日本人。『わぁー、こんなにインドに来る日本人ているのかぁー』としばし、唖然。よくよく聞いて見ると、その人達は100人のツアーで、全員がサイババのアシュラムに滞在した帰りだったのです。何がどうしたのかはわかりませんが、私一人がそのサイババツアーの100人の乗客の真ん中に座ってしまい、まわりは『サイババ』色、一色。興奮に包まれていました。
 
 サイババとは、南インドにいる聖者で、奇跡を起こし病を癒すと言われている人です。私はまだ会ったことはないのですが、私のまわりには、サイババの信奉者も少なくなく、私が友人にもらったサイババのビブーティー(聖なる灰)をあげて、ガンだった人が何人か治っていました。不思議なこともあるものだと、思ってはいたのです。私の両隣に座った女性2人もサイババの話でいっぱいでした。そして1人の女性がサイババのアシュラムで買った本を私に見せてくれました。私が「あぁ、これは人との調和について書かれている本なのですね」と言うと、その人は急に「わあー」と大声をあげたので私はびっくりして跳ね上がってしまいまったのです。
 

 

19 サイババさまがあなたを隣に座らせた
 
 エアー・インディアの帰りの飛行機の中で突然大声をあげたその人は、私に向かって興奮した口調で話し始めました。
 「わぁ、サイババさまが、この本を私のために訳してくださるためにあなたを隣に座らせて下さったんだわ。この本をサイババさまのアシュラムで買うとき、迷ったんです。私は英語が出来ないから買っても読めないと。でも今あなたが『この本は人との調和について書いてある』とおっしゃたのをきいて、ドキンとしました。今、一番私に欠けていて、一番重要で必要なのが、その調和なのです。内容もわからずこれを選んだんですが、やはりサイババさまは、私に一番必要な本を与えて下さったのですね。だってその本屋には、たくさんの数え切れないほどの本が並んでいたのですから。そしてその内容を読むことが出来ない私に、その本を訳して下さる人としてあなたを隣に座らせてくださったんですね。嬉しいです。それではお願いします」
 と、その人はノートを出して開き、ペンを握り締め、その本の1ページ目をめくって、私が訳すのを書き留める用意をして待っています。
 「はぁ」
私は訳も分からず、1ページ目の1行目から訳し始めました。
 「あぁ、とてもわかりやすいです。そうなのですね。んんん、そうですね」
 と、深くうなずいています。でも私も少し不思議でした。なぜなら、スラスラ訳せるし、なんかどこかで聞いたような内容なのです。それで思い出しました。その場所はサイババの生涯とどういう人かを説明している箇所だったのですが、それはロナワラのヨーガ病院に滞在していたとき、オーストラリアに住んでいるインド人が、やはり滞在していて、私の部屋を尋ねて来て日本のことなど色々聞いていたのです。それで私の日本語のインドについての本を開けると、そのページがたまたまサイババの写真が出ている、サイババの紹介のページで、その人は突然
「オオー」
と叫んで手を合わせ祈るしぐさをしました。
「アレーババ、サイババは私を呼んでいるのか」
と言うのです。聞くところでは彼はサイババの信奉者で、一度サイババのアシュラムに行きたいと思っていると。彼はそのページに書いてある日本語の内容を英語に訳してくれるように私にそのとき頼んだのでした。英語で説明すると
「んんんーーーそうだ。そうだ」
とうなずいて納得している様子でした。そのときの内容が今、日本人の女性に英語から日本語に訳してあげているのと同じ内容だった訳です。
『あぁ、そんなこともあるのか』
と偶然と言うか、必然と言うのか、インドではそんな偶然の一致がよく起こるのです。それで私は飛行機に乗っている間、彼女のためにサイババの本を訳し、まわりの人達の
「わぁーーきれいな朝日よ。サイババさまが見せてくれているのねぇー」などと言う言葉や驚きの歓声の中で、「あのねぇー」と心の中でつぶやくのでした。

20 留学の準備
 
 日本に無事に戻った私は、その年の8月から留学するための準備を始めました。まぁ、始めると言っても英語とヒンディー語の勉強ぐらいなのですが。
 問題は留学の間、私が受け持っているヨーガのクラスをどうするかということでした。それでも焦ることもせず、春は終わろうとしていました。その頃、電話が鳴って懐かしいサンジェさんからでした。サンジェさんは、インド人でアーユルヴェーダ(インド伝承医学)のドクターでした。
 「ハァーイ。ナマステェー、ナマステェー(ヒンディー語の挨拶)」
といつもの調子で、元気な声を出しています。
「おおー。サンジェさん元気ですか?」
「んんんーー。元気、元気」
しばらく近況など話して、インドに行っていたことなど話すとインドに帰りたい様子でした。サンジェさんは日本人と結婚し、子供も一人います。彼はインドで子供を教育したいようでしたが、奥さんは日本で育てたいのです。
「インド、どうだった?」
と聞いたので、ヨーガの大学に留学したいと言う話をすると、とても喜びました。でも彼は本当は私に彼の出身大学に留学して欲しいのです。それは知り合った当初から勧められていました。彼はインドの名門、バナシー・ヒンドゥー大学で、そこで博士号をとっています。彼の家はおじいさんがヨーガを教えていてアシュラム(道場)をもっていて、お父さんはバナラシー・ヒンドゥー大学の教授です。
「留学するのに何か問題ある?」
と彼が聞くので
「問題ないのだけれど、日本の私のヨーガクラスをどうするかが問題」
と言うと
「んん、問題ないない。僕がそのクラスを教えて  あげますよ」
と簡単に言うのでした。サンジェさんは東大の研究員でしたが、3月でそれも終わり、仕事を捜していたのです。現在はインドについての講義をしたり、ヨーガを単発で教えていたりするそうで、私の持っていたクラス全部をもってくれる、問題ないないと言うのです。私は
『はぁ、彼はアーユルヴェーダの医者だし、生徒さんが直接インド人から習うことも一生のうちチャンスはないかもしれない。良い機会かもしれない』
と思いました。サンジェさんはめげない明るいいい人ですし、なかなかのハンサムです。いつもニコニコしていて、私もよく勇気づけられました。私がインドに留学する運命だとすれば、代行の先生も現れるはず、と心のどこかでのんびり期待していたのです。
「ノープロブレム(問題ないよ)」
サンジェさんは言いました。それが後になって大問題を引き起こすとは誰もそのときは予測していませんでした。ただ、そのときはそのタイミングのよさに、目に見えないものに感謝したい気持ちの私だったのでした。
「とりあえず、会いましょう」
と言うことで、電話を切ったのでした。

 

21 解剖学の本
 
 留学の準備として、ヨーガ大学のテキストの予習をはじめた私は、まるっきり歯が立たないことに気づくのに時間はかかりませんでした。テキストは哲学書だったり、解剖学や生理学の本で、それがサンスクリット語と英語で書かれているのですから『あぁ、どうしましょう』となるのです。それで、ヨーガ大学に留学していた韓国人の言葉を思い出しました。
「解剖学と生理学は難解だ。英語と日本語でからだ の器官の名称が出ている本を用意して来るべきだ」
それで本屋さんで解剖学の本を見ますが、両方で説明している本は見つけられませんでした。ヨーガ大学のテキストを訳してみますが、単語が医学用語なので、普通の英和辞典には載ってない単語がたくさんあります。医学英和辞典も見つけなければならない状態でした。
 
 そんな事を考えているうちに、時はあっと言う間に過ぎ、健康診断書やエイズチェックの英語での診断書を用意しなければならない時期に来て、区役所の保健課で英語で診断書を作成出来る先生を捜しました。それで診断してもらい、そのときに
「英語と日本語両方で説明している、解剖学と生理学の本がありますか」
と先生に聞いてみました。
「えぇ?」
 と先生は一瞬驚いた様子でしたが、横浜市立医大の生協の本屋に行けばあるはずです。と教えてくれました。
 「で、市立医大というのはどこにあるのですか?」
  と聞くと先生はまたもや
「えぇ?」
 と驚いて、
「このシーサイドラインに市立医大前という駅がありますから、すぐですよ」
と教えてくれました。
 それでさっそくその帰りにそこに行き、本屋さんでその本を買いました。でも医学英和辞典は、びっくりするほど高価でしかも重く大きいため、とてもインドまで持って行けそうにありません。それはすぐにあきらめました。けれどその後すぐに医学英和辞典は手に入ることになります。
 
 インド音楽の関係でその頃知り合いになった人が、家に遊びに来て、話しているうちにその人は薬剤師で、薬科大卒だったのです。それでそういう辞典で小さいものがあるかと聞くと、その人は持っていると言うのです。買ったけれど日本語で勉強したから、ほとんど開いたこともないと言い、「どうぞインドに持って行って下さい」と貸してくれることになりました。
 その辞書で調べると解剖学の本も訳すことができます。だんだん準備も整いつつあり、後はヨーガクラスの担当の人に留学する事を伝え、許可をもらう必要がありました。心配していましたが、拍子抜けするほどすんなりと「どうぞ、そういうことなら勉強して来て下さい。代行の先生をたてて下さればいいですから」
と言われました。
 「代行の先生はインド人でもいいでしょうか?」と聞くと
「えぇーー!い・いいですよ。でも日本語が通じるでしょうね」という反応で
 「はい、通じます」
と言うと安心してくれたようでした。

 

22 史上最悪の飛行機
 
 サンジェさんとの打ち合わせも無事すんで、あとは飛行機の予約と入学願書の書類を送り入学許可を受け取って、インド大使館に学生ヴィザを申請することが必要でした。インド政府から学生ヴィザがおりなければ留学は出来ません。州立の大学ですからその辺は厳しいのです。
サンジェさんは
「あと僕の助けは何か必要ないか?」
と聞きました。それで
「ない、ない」
と答えると
「飛行機はどうした?」
と言うので
「今聞いているのだけれど、エアーインディアは一年オープンで20万近くする。出発が丁度お盆の休みにかかってしまうから」
と答えると
「20万は高いでしょう。僕の友人が旅行代理店しているから、これから彼の所へ一緒に行って安い飛行機を捜しましょう。彼は僕の友達だから問題ないない」
と言いました。それで池袋にある旅行代理店に行くと、そこは外国人のスタッフばかりでお客さんも外人ばかりでした。サンジェさんの友達はそこのオーナーでパキスタン人でした。ハンサムで人相もよく、信用出来そうに見えました。
「彼は僕の兄弟みたいなものだから、心配ないない」
とサンジェさんは上機嫌。私は『さっきは友達と言ったのに今度は兄弟と言っている。調子いいんだから』と思いながらも、その人にインド行きのチケットを検索してもらいました。それで彼は安いチケットを見つけました。
「ビーマンはどうですか」
と言いました。私は
「ピーマン?」
と聞き返すと2人は大笑い。
「ピーマンじゃなくてビーマン、バングラデッシュ航空です」
サンジェさんは
「きゃーーー、ビーマンかぁーーー」
と何か異常反応しています。いやな予感。
「どうですかと言われても、知らないし」
「1年オープンで10万です」
そして突然2人はヒンディー語で話し始め、余計いやな予感。話を想像するに、ビーマンはきつ過ぎないか、良くないのではないかと言っている様子。インド人がきついと言うのは、日本人にしたら死ぬぐらいきついということ、でも旅行代理店の人は
「大丈夫。5月にエアバスがすべて新しくなったから」と説明しました。
「ほーー。エアバスが新しくなったなら全然問題ない。決まり決まり。2分の1ですんだのだから、あなたは僕たちにご飯をおごるべきだねぇーー」
とサンジェさんは明るく上機嫌。
「よかった。よかった」
と満足げです。それが史上最悪な苛酷な旅になることを、そのときは誰も知る由もなかったのでした。
 

 

23 後悔、先に立たず
 
 ビーマン(バングラデッシュ航空)に決めたことを、少しずつ後悔していました。と言うのもよく聞けば、その飛行機は成田を出発し、まずはシンガポールに向かい、それからタイのバンコクに飛び、そしてバングラデッシュのダッカに向かいます。そこでバングラデッシュに一泊して、次の日、ボンベイに飛ぶのです。そのときは、
「色々な国に寄れて楽しそう。シンガポールも行ったことがないし、バングラデッシュも初めて。しかもそこに一泊できる。その宿泊代も含まれているなんてなんて親切」
と無邪気にかまえていたのです。そこで安いのには訳があると言うところまで深読みはしませんでした。
しかしインドに行くと言うことを友達に言うと必ず
「何航空で行くの」
と聞かれます。で、まあほとんどの人は、ビーマンなど知らないのですが、知ってる人は異常反応します。
「きゃーーー。ビーマンかぁ」
と。その含みを帯びたため息まじりの、聞いただけで疲れてしまったよ、と言う反応に、私は徐々に不安を感じ始めていました。
 それでもそれまでは私は飛行機が好きだったので、「まぁ、いいかぁ」
ともう投げやり。あとは入学許可を待つのみでした。
 
 その頃、アメリカ人の知り合いが、インドに行く前にアメリカで瞑想キャンプに行かないかと誘ってくれました。アメリカの砂漠でキャンプして瞑想すると言うものでした。私は「砂漠」と聞くとクラクラしてしまうのです。「砂漠」と聞くと断れないのです。どうしても断れないのです。それは理性では判断出来ない、どうしてなのか自分でもわからない「砂漠」の引力です。それで8月から留学するので7月からサンジェさんにクラスを代わってもらうことにして、アメリカに行くことにしました。けれどそれに行くには、足の筋肉と腕の筋肉を鍛えてこければだめだからと言われ、すぐにジムでトレーニングを始めるように言い渡されました。問題は6月に入学許可を受け取らないといけなくなったということです。でも催促しても一向に来ません。そこがインドなのです。すぐ来るなどインドではあり得ないことです。
 
『どうしたものかと』
 
考えあぐねていると、丁度ロナワラのスワミ(精神的指導者)が来日することになり、私はスワミに会いに行きました。スワミは講演して日本をまわり、横浜にもいらしたのです。それで6月に入学許可をもらいたいのだけどと話すと、では校長に話してあげるからと言って下さいました。校長先生はスワミの言うことはすぐに聞くのです。そこの場所で一番偉い人は、スワミなのですから。
 
 それで6月中に入学許可を受け取り、ヴィザも取れました。それで安心してアメリカの砂漠に瞑想キャンプに出掛けました。それは想像を絶する旅でしたが、今となっては貴重な体験でした。しかしその苛酷な旅の途中で1度だけ涙をこぼしてしまいました。その旅の話もいつか出来るときが来るかも知れません。その苛酷な旅を終え、私はいよいよインド・ヨーガ大学に留学するために出発することになります。
 

 

24 さあ、インドに出発!
 
 それは8月でした。留学はアメリカの苛酷な砂漠の旅を終え、その後、すぐに支度に取り掛かり、家族にしばしの別れを告げて出掛けることとなりました。今は便利なシステムがあって、留学に持って行く大きなリュックは、宅配で前日に取りに来て、その当日成田で受け取れるのです。だから出発の朝は、ほとんど手ぶら状態で、飛行場に行けるという気安さ、ほとんど緊張のない出発。けれど、不安はビーマン(バングラデッシュ航空)の行く先、バングラデッシュの首都ダッカでの一泊でした。行ったことも見たこともない国、しかもガイドブックも本屋にないのです。
 
 ビーマンはエアバスが新しくなっていて、なかなか快適、私は「いいじゃない。問題なし」と喜んでいました。周りは全部日本人。シンガポールで半数の日本人が降り、どこの人か分からない人達が乗って来ました。私の隣には、おそらくタイ人らしきおじさん。彼は英語もしゃべれず、スチュワーデスさんの言うことも分からず、飛行機は初めてという感じで、緊張の面持ち。シートベルトをすることもわからず、ただ堅くなって座っているのです。でも英語が通じないので、私はジェスチャーで示すほかはありません。でも素朴なよいおじさんでした。私はヴェジタリアンミールを頼んでいるので、特別メニューで、そのおじさんは食事のとき、なぜ私のだけが違うのか気になっているようでした。でも嬉しそうに機内食を食べていました。
 
 タイのバンコックに着くと、おじさんは『ほっ』としたように、嬉しそうに降りて行きました。そこでほとんどの日本人は降りてしまい、見渡す限りでは日本人は誰もいません。突然、乗って来た人達の顔ががらっと変わり、どうやらバングラデッシュ人のようです。私の隣に乗って来たバングラデッシュ人は、若いお兄さんで、まだ10代か20代前半といった感じ。こちらの様子を伺っています。私は日本人が居なくなったことで少し不安になってきました。留学するのですから日本人が居ない生活は当たり前なはずなのに、直面するとすこし緊張します。バングラデッシュ人のお兄さんは、先程までのタイ人の素朴なおじさんとは違い、すれた感じで、片言の英語でも執拗に話しかけてきます。
 
「どこへ行くのか。何人だ。どこに泊まるのか。ダッカは初めてか。何日ダッカに滞在するのか。ダ ッカを案内してあげるよ」
と言いたいらしく、それを聞き取るだけでも疲れます。
 
「私はダッカには一晩しか泊まらないし、ダッカを見物するつもりもないから」
と断りましたが、果たしてそれが通じたのか、同じことを繰り返し聞くので『まいったなぁ』と言う感じ。それでも映画が始まると、見始めたので、私は眠りにつくことが出来ました。
 
 結局その飛行機は、シンガポールでとまり一時間のトランジット、私は空港内の免税店などをうろうろし、タイ、バンコックで1時間機内待機、そしてやっとバングラデッシュのダッカに着いたのでした。なんて遠回りなこと。ダッカに着いたのは夜遅く、降り立った飛行場はさすがにイスラム圏、そのロビーには女性の姿はなく、男の人ばかりが不気味な洋装でたくさん座っているのでした。
 

25 ダッカは不気味じゃ
 
 バングラデッシュの首都ダッカにたった一人降り立った日本人のこの私。人々は白い小さな帽子をかぶり、白い長いローブのような服を身にまとい、髭を蓄えギョロッとした目で、飛行場のロビーに座って居ます。飛行場だというのに、そこは薄暗く、しかも規模があまりにも小さく、一目で飛行場全体が見渡せてしまうといった感じ。外は真っ暗で何も見えず、ここに座って居る人達は、こんなに夜遅く、これからどこに行くというのでしょうか。なんだか不気味な見知らぬ国に一人降りたってしまい、「ここはどこ、私は誰」状態で、しばし唖然。イスラム教圏なので女の人があまり出歩かず、そこに居ないこともあって、皆の服装が白か黒で、そのとき私はピンクのスエット地のパンツをはいていて、とても居心地の悪い思いをしていました。
 
 飛行場のカウンターで、今日泊まることになっているホテルはどこかと尋ねると、バスで行くことになっているから、しばらくロビーで待つようにと言われました。その「しばらく」というのが、もうインドに近い訳で、もう「待つ」ことの忍耐を学ばなければならないのです。本当にしばらく待っていました。やがて夜もすっかり更けたころ、ビーマン(バングラデッシュ航空)のおじさんの先導で、何人かのインド人と小さいバスに乗り、ホテルに向かいました。真っ暗闇の中に浮かび上がるダッカの街は、不気味なオレンジ色のほの暗い電灯の明かりに、ところどころ目をこらせば、やっと何かが見える程度で、ほとんど何もないと言う風で、私のダッカの印象はと言うと
 
「ダッカは不気味じゃ」
でありました。まあインドと似たようなものだろうと、汚れたバスの窓から、外の風景を眺めていると、インドでよく見る露店が道にあって、やはり独特のスパイスのような匂いが漂って来るようでした。
 
 ホテルは中級といったところで、期待して居なかったわりには、広い部屋とホットシャワーがついていて、とりあえずは満足。けれどホテルのボーイが引っ切りなしにやって来ては、何かと世話をやき、狙いはどうやらチップをもらうことのようでした。けれど残念ながら、私はトランジットだけなので、バングラデッシュの入国審査は受けて居ないため、パスポートはビーマンが飛行場で預かったので、両替が出来ず、バングラデッシュのお金を持っていないので、チップはあげられないのでした。さんざん世話をやいて愛想をふりまいたボーイ達も私がお金を持っていないことを知ると、がっくりうなだれて部屋から出て行きました。その後は誰も部屋に来ませんでした。静かになって、ホットシャワーを浴び、ヨーガをして疲れをとって眠りに着きました。
 
 翌朝起きて外を見ると、ごちゃごちゃしている街の風景が目に飛び込んで来ました。車も行き交い、人々はもう活動を始めていました。ホットシャワーを再び浴びて、ヨーガをしてホテルのレストランで朝食を食べました。ホテルの人達はベンガル語を話していました。彼らはイスラム教徒です。昼食はバングラデッシュカレー。ルーがスープのようなドロドロしていないカレーです。ボンベイ行きの飛行機は午後の便で、ホテルでゆったりした後、バスにインド人二人と乗り込み、飛行場に向かいました。
 

26 異教徒のインド人2人と
 
 バングラデッシュの首都ダッカの飛行場に向かう小さなバスの中で、2人のインド人のおじさんたちは「僕たちもボンベイまで行くから心配ないよ」と話しかけて来ました。それからは質問攻め。インド人からの質問はいつも決まっているので、もう慣れっこですが、まずは「結婚しているのか?」で始まり、「日本のどこに住んでいるのか」「職業は何か」「親の職業は何か」「宗教は何か」「一カ月どのくらい稼ぐのか」など、全くもってプライバシーを無視している質問ばかりなのです。彼らにとっては、カーストと宗教は非常に重要な人を判断する手段なので、職業を聞くことで、カーストを察するというやり方を使うのです。もちろん日本人の私にはカーストなどないのですが、私の父が大学の哲学の先生で、今は引退し、本を書いたり、宗教的な講演をしたりしていると言うと、彼らは、最上位カーストであるバラモンだと見なし、一応尊敬の念を抱くのです。つまり、インドの社会では、僧侶階級が一番上で、文化的な事に携わる人や教育者、研究家などは、上位に位置付けるのです。
 
 その二人の職業は、ビジネスマンで、向こうで言うとクシャトリア階級を指し、彼らはインドでは中流以上の暮らしをしている恵まれた人達と言えるでしょう。大都会ボンベイ(ムンバイ)に暮らし、飛行機を使って、ビジネス上の出張をしているのですから。
 
 私がヨーガ教師だと言うと「ホー、ヨーガは体に良いのか?」などと質問されます。彼らは流暢に英語を話し、内輪の話しになると、マラティ語を使います。もちろんヒンディ語も話すのです。彼らは一人はヒンドゥ教徒で一人はキリスト教徒でした。ヒンドゥ教徒の方は菜食主義で、キリスト教徒の方は非菜食主義でした。ヨーガの事を色々質問され、私としては「あなたたちの国のことじゃないの」と言いたくもなるのですが、二人ともヨーガの経験はなかったのでした。そしてビジネスマンらしく、話しはすぐにお金のことに及びました。日本人はお金持ちというのが、彼らの印象なのです。けれどたとえ、月に30万円稼いだとしても、家賃が10万円で、一杯のお茶が500円するというのが日本の現状だと言うと、インドでチャイ(ミルクティー)一杯3ルピー(10円)の世界に生きる彼らは、ぶっ飛ぶのでした。
 
 彼らの熱い会話は永遠と続き、飛行場のロビーでも、宗教のこと、家族のこと、インドのこと、ムンバイの状況など、なかなか楽しい時間を過ごすことが出来ました。飛行機で席が離れ、私はやっと一人静かに
「さあ、インドです。これから私のインド留学生  活が始まるのです。いったい何が起こるのだろうか」
と、思いを巡らしていました。飛行機はすいていて、私のとなりには身なりのよいハンサムなインド青年がお行儀よく座っていました。良家のお坊ちゃまと言う感じです。それに引き換え、この私はあまりにもラフな格好。インドで飛行機に乗れるクラスはお金持ちなのですから、飾り気のない私だけが異質です。そんなことも気にして居る暇も無いぐらい、飛行機はあっと言う間にムンバイに降り立ちました。荷物を受け取り、入国審査を受け、タクシーでホテルに向かいます。2人のインド人は私がタクシーに乗り込んだのを確認して、「ナマステ」さよならを言いました。

27 インドのタクシーにはご用心
 
 飛行場からのインドのタクシーには2種類あって、一つはプリペイドタクシーと言って、飛行場の中のタクシーカウンターで行く先を告げて、料金を払い、タクシーの番号を聞いて、そのタクシーに乗り込むと言うものです。それだともうお金は払ってあるので、値段の交渉やボラレル心配もないのです。けれど、もうお金を払ってしまってあるので、タクシーの運転手は驚くほど無愛想、しかもほとんど不機嫌、荷物を運んだり、トランクに入れたりというサービスも全くなしです。
 
 もう一つは、飛行場から出ると、客待ちのタクシードライバーが、ワァーと群がって来て、外国人ともなれば、甘い声でどこへ行くのか、時には日本語で「友達、友達、こんにちわ」など愛想をふりまきながらやって来て、荷物を頼みもしないのに運んで、乗り込むとやたら親切に話しかけ、ここはインドの有名な通りだ建物だと説明し、やがては法外な値段を吹っかけて来るというやり方で、果たしてどちらが良いかはその人次第です。もちろん本当に良心的なドライバーもいますが、大きな飛行場などにたむろしているドライバーはかなりのくせ者であります。
 
 私はもう疲れる交渉などいやなので、プリペイドタクシーを選んだのですが、これが運悪く、その運転手はほとんど気が狂っているのではないかと思えるような、怒りに満ちた人で、私が英語で説明しようものなら、気が狂ったように「英語は判らない、ヒンディー語で話せ」と叫び、ヒンディー語で説明すると、今度は狂ったような猛スピードで、クラクションを引っ切りなしに鳴らしながら車を走らせ、私は「ああーー、これがインドだ。どうか事故に巻き込まれないように」とお祈りしていました。着いた途端に車の事故にあっては、苛酷なビーマン(飛行機)の旅に耐えた意味がありません。おじさんはホテルの場所がわからないらしく、イライラしています。プリペイドタクシーは料金が決まっているから、なるべく早く仕事を終わらせたい訳で、ふつうのタクシーだとわざと遠回りして、料金を吊り上げたりするのですが。
 
 何度もあちこちにぶつかりそうになりながら、辛うじて気違いタクシーは、ホテルの前に急ブレーキで止まりました。私はホッとしてロビーにたどり着きました。今度はボーイが極端に親切に荷物を運び、部屋の案内、世話を焼く訳で、「どうせチップが欲しいのでしょう」と疑り深く、やな正確になってしまう私が悲しいのでした。
 
 やっとたどり着いたインドで興奮と何か悲しい気持ちが入り交じっていました。どうして人はあんなにもイラツキ、つらそうなのでしょう。どうして人生をにっこりして幸せに過ごせないのでしょう。ほんの10分乗り合わせた異国の人に心からのやさしい言葉をかけられないのでしょう。そういう余裕のない切羽詰まったつらい暮らしがそこにはあったのです。私は自分自身の心の平和のために、それを学び習得するために、こんな遠い所まで来ることが出来ます。けれどあの人たちは、出口のない悲惨な毎日を、怒りや苦しみで混ぜ合わせながら、生きて居るのでした。けれど貧しくても心の平安を手にした人だっているのに、いったいどこが、何が違うのでしょうか。
 

28 インドで私も考えた
 
 インドに着くといつでも人生について考えさせられるのです。そこには生易しい感傷など、ぶっ飛ぶエネルギーに満ちた混沌が渦巻いているのです。巨大な疑問と、苛酷な状況と解決出来ない矛盾と、生の苦しみと、そして神への祈りが交じり合い、ドロドロになりながら、「さあ、どうするどうする」と私に降りかかって来るのです。「ああ、もうやめて、私の手には終えません」と逃げ出したくなるのですが、今日はまだインド一日目。「ああ、なんてこった」とすでにインド疲れが・・・どっと押し寄せて、それでもホテルのベットに横たわり、ヨーガなどしてみると「ああ、インドでヨーガしているのだ」と気を取り直し、明日はもうこの混沌から離れ、ヨーガの学校に着いているのだから心配しないでと自分に言い聞かせ、インドの街の夜が醸し出す、いつもの音が懐かしく「ああーー、これがインドの音なのよねー」とけたたましいクラクションの音や、ざわざわしたインド人たちの話し声、夕食の準備をするレストランの調理場の音、スパイスの香りやお香の匂いの入り交じった湿った空気。それらはすべて私をインド世界へ引きずり込んで行くのでした。 私は部屋にチャイ(インド式ミルクティー)とドーサ(インドのスナック)を持って来てくれるように注文し、甘いチャイをすすりながら、『けれどインドは甘くはないよ』と自分を戒めながら、『でも心配してもしょうがない。事が起きてから考えることにしよう』と明日のことは明日考えることにして、とりあえず哲学してみるのでした。
 
 インドは私に忍耐することを突き付けて来るに違いありません。そして表面的なことを超越して本質に至ることで、インドにいる意味を見い出せるに違いないのです。毎日の生活習慣の違い、人々との考え方の違いや、インドの常識と非常識は、私の神経をときに逆なでするに違いありません。けれどそういうことにも耐え、そしてそういうことにも煩わされず、超越出来たとき、私は何か本質的なものに触れることが出来るに違いありません。それが今回私が一人インドで暮らす意味です。ヨーガを学ぶことだけに意識を集中しよう。それが今回のポイントです。
 
 私はインドに感謝しているのです。ヨーガを知ったその日から、インドで生まれたヨーガに出会えたことを感謝しているのです。インドに来るたびに、混乱し、揺すぶられ、疲れ、それでも、それら以上に、私を精神的にも肉体的にも強く、たくましく、深くしてくれるインドに私は深く感謝しているのです。
 
 祈りの声が聞こえるところに行けば、私は大丈夫です。そこにさえいけば、泣きたくなるようなことがたとえあっても、私は何かを信じることが出来るのです。見えないお導きを感じることが出来、ヨーガを実践して行けばいいのだと、素直な気持ちになれるのです。混乱から解放への道を進むことが出来るのです。
 インドで人々があえぎながら暮らしているのを目にすると私は「人生とはあの人たちにとっては何なのだろう」と考えてしまいます。けれど祈りの声が届いて来ると、誰もが祈るようにその人生をいとおしんで生きているはずだと思いたいのです。インドの街の夜のざわめきの中で一人座り、瞑想して眠りに着くのでした。
 

29 偶然の一致に気づくこと
 
 インドで目覚めた私は、雨期の最中だというのに青空が覗いていることに驚かされました。インドの雨期に対しては相当の覚悟をしていたからなのです。まるでバケツをひっくりかえしたような雨が少なくとも4カ月は続き、その間はほとんど太陽を見ることはないと。特にロナワラは降雨量のものすごい所で、マハラシュトラ州は雨期になるとマラリヤの蔓延地帯で危険であると。
 
「晴れている」
私のインドの第一日目の朝の目覚めは、なかなか快適なものになりました。その日留学先のロナワラへタクシーで向かうべく予約を入れておいたのですが、昨晩電話があって、ロナワラのカイバリヤダーマ(悟りの里)のスワミ(精神的指導者)の所に滞在しているドイツ人女性アンジェリカが丁度今日ドイツからムンバイに着くので、一緒にロナワラまで行くのはどうかと、インド人のタクシー会社経営者でカイバリヤダーマのスワミと親しいククさんに言われ、その偶然の一致に驚いたのでした。アンジェリカには昨年インドに滞在したときに親切にしてもらっていたからです。アンジェリカがなぜ弁護士を辞め、精神的な修行に入ったかを聞いてもいました。
 今回、なぜ私がインドに留学できることになったのかは、たくさんの偶然の一致があり、それは必然なのかも知れませんが、私はそのことについて考えて見ようと思ったのです。
 
「すべてはつながっている」
 それが人生の実感です。もう何年も前に呼んだ『聖なる予言』という本の中の「自分の人生は霊的にひもとかれて行くものであり、多くの不思議な偶然の一致によって導かれる旅であるということ・・・」という文章との出会いから、急速に偶然の一致は加速度的に増えて、それはもうびっくりするぐらいでした。今回の留学を可能にした偶然の一致は実は数えれば30にも及んだのでした。いろいろな条件が揃わなければ、今ここにこうして居られはしないのですから、人生とは本当に不思議なのです。
 
 私は誰でも実はそういう状況にあって、この人生での役割や進むべき道は、偶然の一致によって導かれる状態にあると思うのです。けれど、それに気づかずに、あるいは自分自身を見つめることをしないが為に、自分の本当にするべきことに気づかない為に、チャンスを逃してしまっているのではないかと思うのです。あるいはその時期が来ていないのかもしれないのですが。 人は誰でも納得した人生を送りたいのだと思うのです。もちろん100%を望むのは難しいかも知れませんが、それでも自分の生きている宇宙が自分をサポートしてくれていると思いたいと思うのです。『聖なる予言』の中の「人生における偶然の一致に気づくことによって、私たちは地球上での人間生活の真の目的と宇宙の真実の姿に目覚めてゆく」という箇所が私にはヨーガをしていくこと、ヨーガを深めていくことに、一歩を踏み出す勇気を与えてくれるのです。  
 今回私の使命は、ヨーガを学ぶこと。それが真実であれば、きっと宇宙のサポートにより、私のその後の運命へと導いてくれるはずなのです。というところで、タクシーが私を迎えに来ました。 

30 インドに暮らす
 
 タクシーがホテルに迎えに来て、アンジェリカの待つホテルに向かいました。そしてアンジェリカと再会。彼女はドイツ人でカイヴァリヤダーマ(悟りの里)のスワミ(精神的指導者)についてヨーガを学んでいます。アンジェリカは体が大きくエネルギーがあり、ロナワラに向かう車の中で、ほとんど途切れる事なく、話を続けていました。車で3時間ほどの距離も話をしている間にあっと言う間に着いてしまいました。
 
 留学先のカイヴァリヤダーマについて、とりあえずは滞在するところ、ヨーガ病院の一室をもらい、荷物を置きました。
「あーー、とうとうやって来てしまいました。ここで留学生活を送るのか。まぁ、まあまあかな」
とベットに腰を降ろし、インドに暮らすということに思いを馳せて見ました。ヨーガ大学は4年生大学を卒業している人が入学することが出来、インド人学生はカイヴァリヤダーマ内の大学の寮で生活します。けれども外国からの留学生は、インド人学生と一緒の寮ではなく、ヨーガ病院の一室で暮らすのです。
 私がもらった部屋は2人部屋で、ベットが二つで机と椅子があり、あとは作り付けの本棚と小さな戸棚、そして窓があるだけです。とてもシンプル。私は大きなリュック一つだけで来たので、この広さで十分です。ベットに横たわると天井に扇風機がついていて、「あぁ、やっぱりインドだわね」と実感してくるのでした。
 
 学校が始まるまでにはまだ数日ありました。校長先生に挨拶に行き、先生はとても上機嫌でペラペラ話すのですが、その声の大きさと速さに私は目はパチパチ、頭はクラクラしてしまいました。インド人は話し始めると、早口で止まらないのです。私は口を挟む暇も無く、質問されて答えようと、話し始めようとする前に、先生はそれを待てずにガンガン話します。インドには『間』というものがないのだろうか。私はその強烈なエネルギーにちょっと気後れしてしまいました。
「まず入学のための面接試験があり、そして入学式となる。外国人はその前に、プーネの登録管理局に行って、滞在許可をもらう必要がある」
 と校長先生は言いました。そこで私は翌日さっそく、プーネに行くことにしました。するとアンジェリカも滞在許可がいるので、一緒に行くことになりました。
 
 鉄道を使って2時間程、プーネは学園都市です。ロナワラはリゾート地という感じですが、プーネは大学があり、学生がたくさんいます。そこからリキシャを使って、登録管理局へ。言ってみれば警察のようなところです。アンジェリカは自分の用が終わるとさっさと帰ってしまいました。やはり西洋人は違うなぁと思いました。日本人同士だと絶対待っていて一緒にお昼を食べたり、帰ったりします。私は一人残されて、それから管理局の人の悪質な手口に遭遇することになります。彼は私が外国人と見ると登録とは関係ないことを色々言い出し、「私は日本で働きたい、日本では金が稼げるだろう。あなたは日本で何をしている。お金をどのくらい稼ぐ」と聞き、そして挙句の果てには「登録には800ルピー必要だ」とデタラメを言い出すのです。 

31 デタラメを言うなぁ!
 
 私はその警察官のように見える人の言葉に耳を疑いました。「登録には800ルピーいる」800ルピーと言えばインドでは大金です。日本円で3000円ぐらいです。そんなこと有り得ないのです。私は何度もインドに来ていますから、彼らの悪質な手口のことはよく知っていて、『絶対だまされない』と心に誓うのでした。空港や税関やヴィザの延長などで、外国人はよくお金を不当に要求され、とくに日本人は騙され安いのです。なぜなら日本では困ったときには警察に行くからです。でもガイドブックにはインドでは困ったときに警察に行ったら、もっと困ったことになる、と書いてありました。私の友人がインドで何か事件に巻き込まれて、それを見逃してやるからと警察官にお金をとられたこともあります。本当は出せないヴィザの延長もお金次第で何とかなることもあると言われています。なんとも怪しい国なのです。
 
 私は彼のウソはすぐに見抜きました。顔にウソと書いているのです。でも100ルピーと言われたら信じてしまったかも知れません。彼らは人を見てその値段もまちまちに言うのです。私は不当なお金は絶対払わないと決めているので、なぜならここで私が払えば、彼らは日本人をカモとして、ますますそれはエスカレートするからです。 私は
「そんなお金は払う必要がない。滞在登録にお金が要るなんて聞いていない。校長先生もお金がいるとは言わなかった」
と言って、彼の要求を拒否しました。彼は『ちぇっ』と言う顔をして、今度は嫌がらせに出ました。「登録には写真5枚と大学の入学証明書、健康診断書、エイズチェックとあと2枚の書類がいる。それをすべて取り揃えてまた来い」と言うのです。また来いと言ったって、2時間かかるのです。往復4時間です。私は判っていました。ここで彼にお金をつかませれば、それで簡単に済むのだと。けれど私はそうしたくなかったのです。そんなことでインドの留学生活をスタートしたくなかったのです。彼は「エイズチェックは自分が案内するからその病院でしなければならない」と言い、私は日本でもうそれを済ませていたので、それは書類があるからもってくると言って「さよなら、またね」とその部屋を出ました。私は頭に来ていました。これがインドなのです。日本では必要なものはこれこれでそれをもって行くように事前の案内があります。けれどインドでは誰もそんなことを言いません。それにどれが本当に必要なのかはっきりは決まっていなかったりする訳で、後から聞くと「ええ、私はそんな書類は必要なかった」「僕はお金を200ルピーとられた」と人それぞれなのです。 
 
 で、私はお金は払わないことに決め、すべてのものを揃えて後日また2時間かけて登録局に行きました。そのインド人はニヤリとして「元気か」などとなれなれしく話をしたがります。私は半ば無視したような形ですが、彼は「僕らは友達じゃないか、もっと日本のことを聞かせて欲しい」などと言い、お金に対してはあきらめたようでした。そして書類を見て、「これでいい。登録証明は明日出すから、明日取りに来てくれ。明日も話せるね、友達」などと言うので私は泣きたくなってしまいました。
 

32 インドは疲れる
 
 私はがっくり肩を落とし、その部屋を出たように思います。「明日も会えるね。友達」などと言われても、私は会いたくなどない訳で、毎日4時間かけてここに来ている状態に、ほとほと疲れてしまいました。こんなことが留学中ずっと続いて行くのかと思うと寒気がしました。と言うのも、今は本格的な雨期のシーズンで、外に一歩出ればザーザーの雨が降っているのです。リキシャをつかまえて、駅に向かいます。硬い汽車の座席に腰を降ろし、窓の外の雨で煙った風景を見ていると、日本にいれば事はすべてスムーズに出来て、一日たくさんの事がこなせます。けれどここインドでは一日一つのこともその日一日で出来ないという悲しい気持ちに支配されて来ます。私はまたしても『忍耐』の2文字を突き付けられ、止みそうもない、曇よりとした灰色の空と私の心が同じ色に染まって行くのを感じました。けれど一方でそんなことで気を落としてどうするのという声が聞こえて来ます。
 
 気を取り直して『雨の日でもこの灰色の雲の上ではいつも明るい太陽が輝いている』と目の前に広がる雨のインドを見ていました。するともう一つのインドが突然目の前に飛び込んで来ました。汽車が駅とは思えないところで止まり、しばらく動かなくなったのです。もう動く気配がありません。何があったのかと思っていると、雨の中を担架に乗った人が濡れながら運ばれて来て、汽車に乗せられました。私はその人の痩せた苦しそうに’く’の字に曲がった体を目にしてしまいました。けれどなぜかその人の顔には微かなほほ笑みが感じられたのでした。とても貧しそうなその若いインド人男性は、その口元に微かなほほ笑みを浮かべて、担架に横たわっていました。私は事故か何かに遭ったのだろうかと、これから病院に行くのだろうかと考えていました。雨に濡れた体が冷たそうで、その痩せ細った体が悲しく、私は自分は裕福にも体に肉が付いていると感じるのでした。
 
 40分ぐらいしてから、汽車はゆっくりと動きだし、もう時間の事を考えるのも疲れて「いつかは着く」とあきらめのムードになって来ていました。そしてロナワラに着いたとき、その担架が運ばれて行くのを目にした私は、ほとんど言葉を失いました。その担架に乗せられた若い男の人の顔は新聞紙でおおわれていたのです。つまりその人は死んでいたのです。私が汽車の中で見た、そのほほ笑んだような顔は、実はもう死んでいたのかも知れません。あれは苦しく貧しいその人生から解放された安堵のほほ笑みだったのでしょうか。でもそのときは私は彼が死んでいるなんて思いもよりませんでした。だって、死んだ人が無造作に一緒の汽車に乗り合わせるなんてことが、日本では考えられないからです。
「インドは・・・」
 私は言葉もなく、ショックでした。登って行く階段のすぐ私の脇を新聞紙を顔にかぶせられたその人は、やはり体を’く’の字にしたまま運ばれて行きました。
「しかも新聞紙なんて・・・」
雨に濡れた新聞紙がそのほほ笑んだような顔をおおっているなんて。
「せめて白いきれいな布なら・・・」
と、そんなことを思うのでした。

33 生きていること、死ぬということ
 
 私がインドに居るということは、今、生きているからです。けれど日本を離れて私がここに居ることを、日本に居る人達はほとんど知りません。何人かの人達は、私がインドに居るということは知っていますが、インドのどこに居るかは知らないのです。つまり私はもう日本では存在していないのです。
 インドで突然目の前に”死”の光景を目にしてしまった私は、考えさせられてしまいます。その人はその口元に微かでもほほ笑みを浮かべて死んでいきました。そのとき私は彼が解放されたのを感じたのです。生きることの苦しみから解放されたのではないかと。
 
 私たちは死ぬまでは生きます。生きることは、たやすくはありません。とくにここインドでは、驚くほどの貧しさも存在しています。それが現実です。裸の子供たちが物乞いをしています。今日、今、食べることにも事欠く人々。そして貧しいがゆえに死んでいく人達。
 インドでは輪廻転生が信じられています。だから人々は「来世ではもっと良い境遇に生まれますように」とお祈りします。肉体はボロボロになったら衣のように脱いで死ぬことで、魂はまた新しい肉体を得て、再生、再び生まれ変わると信じているのです。 
 だから死は古くなった肉体から解放される、新たなる一歩でもあります。インドでは、目の前を”死”が横切って行くのを目にすることがあります。それは意外に無造作に私の目の前を通り過ぎていきます。
 
 インドでは”死”はずっと続いて行くその輪廻の一つの通過点に過ぎないのです。
生きることはやがて死ぬことであり、死ぬことはやがてまた生きることなのです。つまり”死”は肉体的なことに過ぎず、その魂は永遠なのです。だからこそ魂の成長が重要な訳です。そして人々は魂を成長させることに時間をさける恵まれた境遇に生まれ変わることを欲するのです。だってもしとても貧しい家に生まれたら、今日のパンのことを考えるだけで精一杯ですから。
 精神的修行のために時間をとれることは、どんなに恵まれた事でしょうか。人はやがて死にます。そのとき人は何も持っては行けません。築いた財産も、美しく着飾った肉体も、必死で得た名声も、すべては置いて行かなければなりません。
 
 私たちは生きることも死ぬことも恐れてはいけないのです。
雨期のインドは雨のカーテンを目の前にひいたように、視界が遮られます。雨に煙る風景の中にマンゴーの木が雨風に揺れています。やがて季節は変わり、雨も止むでしょう。そして太陽が照りつけ始めると、やがて暑くなり、マンゴーは夏に実をつけます。
人は人生の果実を手に入れたくて、東奔西走します。マンゴーの実はやがて熟れれば、枝を離れて地面に落ちます。それらの営みは繰り返されるのです。人の生もそうなのかも知れません。繰り返されるのかも知れません。インドに居ると、生と死はコインの裏表のように見え隠れします。

34 そして雨は降りつづくのです
 
 雨の中をリキシャに乗って、カイヴァラヤダーマ(悟りの里)の病院まで戻り、自分の部屋に帰りました。長い一日だったと、しかも大変な一日だったと、けれど重要な考えさせられる一日だったと。インドでは、私は日本の日常生活で出会わないような目に合うために、そういうとき自分はどういう反応をするのか、自分を突き付けられる瞬間によく遭遇するのです。でもそれがインドにいる意味であり、大切な経験です。もちろん怖いことや目を覆いたくなることに遭遇することも少なくはないのですが、日本と同じ経験しかしないのであれば、私はここに来る必要はないのです。「何も怖がらないで」と自分に言い聞かせます。「もう何も怖くはない」と自分に言ってみます。
 
 ヨーガ大学が始まるまでは、まだ4日ありました。雨が降っているために、そんなに出歩けられる訳ではありません。病院では朝のヨーガがあり、そして朝食、そして昼食、夕方のヨーガ、プージャ(お祈りの儀式)そして夕食。テレビもないし、音楽を聴く訳でもないので、静かな一日が過ぎて行くだけです。
ただ雨が降りつづいています。朝も昼もそして夜も雨が降りつづいているのです。激しく降っているのですが、その光景は美しくもあります。そうして私はヨーガ大学が始まるのを静かに待っていたのでした。
 
やっと滞在許可証も取ることが出来、少しずつ学生たちもインド各地から集まって来ました。まだ留学生は誰も来ていません。そしてついに入学の面接試験の日が来ました。私だけが病院に滞在していて、他の学生は大学の寮に滞在します。男性寮と女性寮は離れて居て、行き来は禁止だと言っていました。面接は校長室に一人ずつ呼ばれて、校長ともう一人の先生に質問されます。学生たちは緊張した面持ちでした。私はなぜか緊張感もなく、ただ雨のため床がすべって、なんども転んでしまいました。そのたびにインド人の学生の付き添いの父兄に助け起こされ、
「大丈夫か。すべるから気をつけて。どこから来たのか」など質問されます。
 インド人学生は、留学生の私が気になるらしく、話しかけたそうなのですが、意外なことに彼らの多くは、英語が話せないのです。私はとても当惑してしまいました。このヨーガ大学は、4年生の大学を出た人が入れるのですが、授業は英語とヒンディー語両方で行われ、試験はどちらかの言語で選んで受けることが出来ます。ところがほとんどの学生はヒンディー語で試験を受けることを選んだ人達で、日常会話でさえ、英語がほとんど話せないのです。女学生では1人だけが、流暢に英語を話せますが、そのほかの生徒とは、私はヒンディー語でコミュニケーションをとることになりました。
 クラスでは皆ヒンディー語で話しているため、私は孤立した感覚に襲われます。面接の日には、留学生は私だけで、面接は一番最後の順番でした。呼ばれて校長室に入ると、校長先生とシャルマ先生は笑顔で私を迎えてくれました。
「ようこそ、ようこそ、遠い所から。それでは少し質問しよう」と言いました。
 

35 それで見つかったのかい?
 
 校長先生は
「あなたの名前は何ですか」
と聞きました。私はヒンディー語で自分の名前を答えました。するとそれは以上なほどウケてしまい、とくにシャルマ先生はにっこり嬉しそうでした。
「あなたがヒンディー語を知っていることは、すばら しい。私はとても嬉しいし、とても感謝する」
と言いました。そして質問は続いていきました。
「あなたはなぜこの学校に来たのか」
「私はヨーガを13年程学んでいます。インドの色々 なアシャラム(修行場)でも、学びました。 けれ ど アカデミックな形ではインドで学んでいません ので、ヨーガ大学で、総合的にヨーガを学びたかっ たのと、哲学的側面では、アシャラムで学んで来ま したが、科学的な側面では学んでいないので、ここ でその方面からも学べることに期待をしています」
「インドのどこのアシャラムで学んだのか」
「リシュケーシのシバナンダ・アシャラム、 ヨーガ ニ ケタン、ヴェーダニケタン、アイアンガーヨー ガセンターでラージャヨーガ、ハタヨーガ、ジュナ ーナヨーガを学び、カルカッタでハタヨーガ。マド ラスのクリシュナマチャーリア・アシュラムでヨー ガスートラ、マントラヨーガ、ヨーガセラピーなど を学びました」
「ほー。何の為にあなたはヨーガを学んでいるのか」
「私は真実を知りたいのです。私自身も理解したい  のです」
「で、13年やって、見つかったのかい」
「今も見つけている途上です」
先生たちはのけぞって笑いました。
「なかなかあなたは真剣な誠実な人だ」
とシャルマ先生は満足そうでした。
「大学と大学院では何を専攻したのか」
「大学では美術、大学院では仏教学を専攻しました 」
「あなたの宗教は何か」
「仏教徒です」
「仏教の4つの苦について説明するように」
「仏教の4つの苦は、生老病死です」
「それを釈迦はどうして克服せよと言ったのか」
「それは4諦と8正道と12縁起を理解することに よってです」
「ふーむ」
そしてしばらくは仏教の質問が続きました。その後
「それではこのサンスクリットの文章を読んで、そ の意味を言ってみるように」と言いました。
それはハタプラディピカーというサンスクリット語のテキストでした。その一説は、ヨーガの実践者は食べ過ぎること、しゃべり過ぎること、社交すること、怠惰であることなどを避けるべきであるというものでした。ハタプラディピカーは読んだことがあるので、うまく察しがつきました。
校長先生は
「たいへんよろしい。2回の試験は大変だから、良 く勉強するように。図書館に資料があるから。わからないことはすぐに私に尋ねなさい」
シャルマ先生は
「全力であなたの助けになるから、心配ないからね 」
 とやさしい言葉で面接は無事終了しました。さあて、いよいよ学校が始まります。
 

36 ヨーガ大学入学式
 
 図書館の3階に広いホールがあり、そこで入学式が行われました。生徒はそのとき39人、私以外は全員インド人でした。でも何人かの留学生は来る予定になっているからと、校長先生の秘書が言いました。
 舞台の上には、先生たちが並んでいます。先生の自己紹介がありました。まずはヨーギックテキスト(ヨーガの本)の解説をする授業を受け持つ、校長先生の挨拶。それからヨーガスートラ(心理的ヨーガ)の授業を受け持つシャルマ先生の挨拶。彼はヨーガ哲学を担当します。その先生の挨拶は心に残りました。
「ヨーガは暗闇から光の方向へ導く教えです。先生は 生徒を心から愛し、暗闇から光の方向へと導いて行きます。先生と生徒はいがみ合う事なく、尊敬しあって、学んで行きましょう」
 
 私は心を打たれました。誰もが暗闇から抜け出し、光の方向へ進めたならどんなにすばらしいだろう。ヨーガは、より良く生きるための生きる知恵、方法なのです。
『ああ、私はインドに来て良かった。しっかりヨーガを学びましょう』と心も新たに思うのでした。
 カルチャラルシンセシス、ヨーガとさまざまな文化、宗教の授業を行うサハイ先生。ヨーガと解剖学と生理学を教えるバグワット先生。ヨーガ教授法を教えるデシュパンデ先生。実技クラスのバラトシン先生とバビタ先生。その日は欠席でしたが、ヨーガとメンタルヘルス(ヨーガと心理学)をおしえるボガール先生などの紹介がありました。インド人の名前はなかなか難しくてすぐには覚えられそうにありませんでした。
 
 それから生徒一人ずつが自己紹介することを言い渡されました。どこから来たかと、大学で何を専攻したかを言うようにと言われました。インドは出身地と学歴を重要視します。ほとんどの人はヒンディー語で自己紹介しました。何人かは大学院を出ていましたが、専攻はさまざまで、文学部、法学部、薬学部、体育学部などで、出身地も北インド、南インド、西インド、東インド、中央インドとインド全土から来ていました。ただ、南インドからの人は少なく、3人だけでした。南インド出身者は、ヒンディー語を話さず、英語を使うのですぐに分かりました。私の番が最後に来て、私はヒンディー語で自己紹介しました。みんなにとてもウケてしまいました。
 
 インドでは18の公用語があり、英語は準公用語です。生徒達はその地域の言葉がマザータング(母国語)で、たとえば、東インドから来ている人は、その土地の言葉はベンガル語です。家ではベンガル語を話しているのです。けれどここに来ればヒンディー語を話します。そして英語も話せます。しかし中央インドや北インドから来ている人達は、ヒンディー語を普通使い、その他の言葉は知りません。英語もあまり出来ない人が多いのには驚いてしまいました。西インドから来て入る人達は、所によってはグジャラート語を話しヒンディー語はイマイチ、英語もあんまりと言う状態だったりもします。南インド人は、アンチヒンディー語なので、あえてヒンディー語を知っていても、南にいるときは使わないので、英語が出来ます。地方の言葉は、タミル語やその地方の言葉を使います。ですから北と南の人が言葉が通じないということも起こり得るのです。不思議な国。

 

37 ともだち
 
 入学式を終えると、学生たちが私の所にやって来て色々質問します。インド人の女の子たちは本当にかわいらしく、すごく美しい顔立ちの子たちもいます。はにかむようにそれでも話したくて仕方がないようなしぐさが、とても愛らしいのです。歩くときには手をつないで話しながら歩くので、何か幼稚園生になってしまったような、初々しい気持ちになってしまいました。「私もここでは学生なのだわ」
と、しぐさもなぜか若々しくなるので不思議です。
 
 女子寮にぜひ来て欲しいと言われ、行ってみると一部屋に、女子学生すべてが集まり、それぞれ得意な歌を歌い始めました。インド人は歌好きです。みんなすぐに歌を歌い始めます。皆それぞれ自己紹介を始め、どこ出身か、兄弟は何人いるのかは、絶対外しません。やはり兄弟は少なくとも3人はいて、家族の絆はとても深いのです。彼らはすでにホームシックになっているようで、親元を離れるのは初めての子たちがほとんどのようです。全員が大学出ですから、皆どちらかというと裕福な家の子が多く、おしゃれもしています。皆が歌を歌い、話している中で、一人勉強している子がいました。その子の名はヨギータ。まるでヨーガをするために生まれて来たような名前の子です。寮は二人部屋で、ヨギータとスミットラという子が同じ部屋で、スミットラが私を彼女の部屋に呼んだので、皆が集まり、同じ部屋のヨギータは少し迷惑顔といった感じ。後で彼女に聞いたら、皆はヒンディー語圏の子たちで、ヨギータはグジャラート出身で、グジャラート語なので、ヒンディー語に不安があり、それで勉強していたのです。彼女はもうすでに大学の先生で、かなり優秀な人らしく、大学でもヨーガ、ナチュロパシー(自然医学)を修め、ヨーガアシュラム(修行道場)で、先生について苛酷なヨーガの修行もしている人でした。普通の学生たちの中で、私は彼女にだけ、特別な興味をもちました。ヨーガに対して、非常に真剣だったのです。
 
 他の子たちは、学校の先生になりたい人が多く、普通の女学生ですが、ヨギータはサニヤシン、ヨーガ行者になることを決意しているようでした。その後、私とヨギータはとても仲良しになりました。私はヨギータに聞いたことがあります。
「なぜ、ヨギータはサニヤーシン(ヨーガ行者)になることを決めたの?」
「私は小さい頃に結婚はしないと決めました。ほんの少女だった頃、家の近くのおじさんがその奥さんにすごい暴力をふるって、その奥さんが大ケガをするのを見てしまって、子供心に結婚は恐ろしいものだと思いました。そのときの光景が心の突き刺さり、それから、私は絶対に結婚しない、と決めてしまいました。それから、グル (精神的 師)に出会い、この方について修行しようと決めたのです。だから私は他の生徒、特に男子生徒と は、口を利かないと決めています。女子生徒とも、くだらないおしゃべりはしないと決めています。でもアキコは別です。あなたが真剣にヨーガを学ぼうとしているのがわかるし、くだらないおしゃべりもしない人だとわかるから」
とヨギータは言いました。トラウマと言うものでしょうか。けれど、それから私とヨギータはヨーガについて色々語り合うようになりました。
 

38 モウナ(沈黙の行)
 
 友達になったヨギータを見ていると、とてもおもしろいのです。彼女は心の温かいとてもいい人です。ただ、他の学生とは違い、極端にヨーガに走っています。そこが私が彼女に興味をもった点でもあるのですが、彼女を見ていると、男子学生から話しかけられても、彼女はモウナ(沈黙の行)を守り続けています。彼女は、どちらかというとおしゃべりの人なのですが、男子生徒が話しかけてくるときは、かたくなに話すことを拒んでいます。でも私と話すときはとてもおしゃべりで、ほとんど話し続けます。女子学生に話しかけられても、午前中はモウナ(沈黙の行)を行っているために、話しません。なので学生たちは
「ヨギータはアキコが好きだ」
とからかうらしいのです。からかわれると、ヨギータは私の部屋にやって来て、ひとしきりクラスメートのことなどを話していきます。私はクラスメートのことについては、ほとんど興味がないので、というよりもまだ皆の名前も覚えていないので、誰が誰だかわからないのです。とくに男子学生については、ただ一人の名前を除いては、誰の名前も覚えていないのです。覚えられた一人の男の子の名前は『ジョージ』で、インド人の名前の中にあってその子の名前だけが、西洋風の名前なので、覚えられたのです。他の子たちは、インド特有の名前なので、覚えづらいのです。他の子たちが皆、ヒンドゥー教徒に対して、ジョージだけがキリスト教徒なので、南インド出身の彼は、英語が良くでき、それは言ってみればキリスト教徒の名前なのです。彼はとても熱心なキリスト教徒でした。
 
 彼はとても物腰が柔らかく、インド人特有のしつこさがありませんでした。そしてもう一人、どうもモウナ(沈黙の行)を守っているような人がいました。彼もまた自分から決して女の子に話しかけることはなく、女の子から話しかけられても、最小限話すだけで、沈黙を保っています。私は彼の動向にも興味をもちました。非常に静かで穏やかな人です。その人の名は、スバーシュ。後になって知ったことですが、彼もまたサニヤーシン(この世のことを放棄する人・ヨーガ行者)になることを決めている人でした。すごく頭の良い、知性的な人で、すぐにその人はクラスメートたちに、『スワミ(精神的な指導者・先生)』と呼ばれる事になります。彼は南インドから来た人で、やはり英語が堪能です。インドでは、ヒンディー語を話すのは、北インドの人が多く、北はアーリア系民族で、南はドラヴィダ系民族で、言葉や顔付き、文化、人柄など随分違います。南インドでは反北インド感情があって、彼らはヒンディー語をほとんど話しません。
 
 クラスの中で、ヨーガに精通しているのは、ヨギータとスバーシュ2人でした。私は疑問があれば、その二人に聞くことができました。2人ともインドの最高カーストであるブラフミンの出身です。ブラフミンの人達は、厳格な菜食主義で、お茶もほとんど飲みません。服は白い服を好み、子供のころから精神的な教えを学び、インドの聖典の知識にも精通しています。スバーシュはいつも図書館で勉強しているし、ヨギータは常に先生の部屋を尋ねて、ヨーガについて質問をしていました。私はと言えば、その2人の様子を遠くから静かに見ているのでした。わたしもまた、モウナ(沈黙の行)を守っていたのです。

 

39 学校のはじまりはじまり
 
 ついに学校ははじまり、朝の授業はなんと6時半から始まります。私は朝、瞑想する習慣があるので、それだと4時半に起きなければならないのです。なぜならヨーガ大学では、朝の実技のクラスの前に、水シャワーを浴びなければならないので、色々していると、2時間はかかってしまいます。
 6時半から、実技の授業、アーサナ(ポーズ)と呼吸法と瞑想法、火曜と木曜は浄化法(クリヤ)です。8時までその実技の授業が続き、そのあと朝食、それから10時10分から10時55分までと11時から11時45分まで2コマの理論のクラスがあります。それから昼食。そして1時から2時まで図書館で勉強する時間。2時10分から2時55分までと3時5分から3時50分までの2コマの理論の講義、そして4時30分から5時半まで実技の授業です。つまり一日6コマの授業があるのです。そして6時半からプージャ(お祈りの儀式)が7時半まであります。
 
 朝6時半から夜7時半までつづくということで、それが月曜から土曜までつづき、休みは日曜だけと、本当にきつく忙しい毎日です。のんびりしていると思っていたインドでこんなにスケジュールが詰まっているなんて信じられない私でしたが、睡眠不足になることは必至でした。留学生の私は予習と復習に時間がかかります。そして夜寝る前の瞑想の時間もとると、寝るのは12時を回ってしまうからです。
 授業でも外国語で授業を受けるため、集中力が必要なのです。そうでなければ何も頭に入って来ません。その授業もインド人の分かりにくいインド英語とヒンディー語とサンスクリット語が交ざり合い、凄まじい状態なのです。私は果たして、やって行けるのか不安になってきました。授業は、ヨーガ・スートラ(ヨーガ哲学)、ヨーガと文化・宗教、ヨーガとメンタルヘルス(ヨーガと心理学)、ヨーガテキスト、ヨーガ教授法、ヨーガと解剖学・生理学、などで、それを外国語で勉強するのですから、それゃもう大変というところでした。
 
 学校が始まって1週間ほど経ったとき、ブラジルから留学生が2人来ました。シルビアとイヴォンヌです。何とも美しい名前です。ところが2人は英語があまりわからずに、先生も困ってしまいました。2人はインドが初めてなので、何か緊張しているようでした。食事も口に合わず、不機嫌そうで、私も2人にどう接したらよいか考えあぐねていました。2人はいつも一緒に行動し、片時も離れませんでした。でもそのうちにイヴォンヌの方が、憂鬱になってきて、と言うのもクラスに座っていても、何も理解出来ないのです。彼女は50代なので、これから必死で勉強して見ようという気力もなく、クラスから脱落せざる終えなかったのです。だんだん憂鬱さも増し、涙ぐんで来て、彼女はブラジルに帰ることを一カ月足らずで決めてしまいました。皆で何とか一緒に頑張ろうと説得しましたが、彼女の返事は
「ここでは悲しいだけ、不幸せなだけ、何も解らないし、シルビアに頼ってばかりで、とてもつらい。一人では何も出来ない。どこにも行けない。駅に行っただけで、怖くて一人で歩けない」と言い涙を拭いました。そしてある日彼女はブラジルに帰ってしまいました。
 

40 チャンさん来る
 
 学校がもう始まって何週間か経った頃、私が部屋で本を呼んでいると、部屋の前を東洋人が通って行きました。そうしているうちに滞在しているヨーガ病院の受付の先生から、受付に来るように呼ばれて言ってみると
「彼女は英語が解らないから、通訳してくれ」
と言われました。彼女の名はチャンさん。韓国人で、でも日本に住んでいたので、日本語は通じるのです。が、英語がわかりません。それで彼女の言いたいことを通訳すると
「ヨーガ大学に入りたい。そのために来た」
先生は
「もう学校が始まってしまっているし、入学するためには色々な書類が必要だから、来年にするように、と通訳してくれ」
と言うので、伝えると
「ノーノー。私は絶対ヨーガ大学に今は入りたい。今入れて欲しい」
とチャンさんは言いました。私は少しびっくりしてしまいました。何の書類も準備もなく、来てしまうそのことと、しかももう学校は始まっているのですから。それでも彼女はそんなこと気にすることもなく、
「絶対は入る」
と言い切っています。私は彼女はただ者はないと感じました。その予想通り、彼女がその後ここで起こすことになる騒動は、私の想像を越え、なかなか驚くべきものでした。
 
 チャンさんは、美人で豊満な肉体を持ち、その男の人に媚びるような作り笑顔を見たとき、私は「これはただ者ではない」と思いました。そしてその色っぽい誘惑するようなしぐさにインド人男性はすぐにメロメロ状態で、なんか怪しい雰囲気になって来ました。彼女は押しの一手で、校長先生に会うことを承知させ、そして私にこう言って出掛けて行きました。
「アキコさん。私は絶対入って見せます。もう念入りに化粧したからバッチリよ」
と、私はなんで化粧な訳?と首を傾げながら、彼女の豊満な後ろ姿を見送りました。後でその結果を聞くと、校長先生は
「もう学校も始まってしまっているし、書類もない。入学するには学生ヴィザを自分の国のインド大使 館で発行してもらう必要がある。入るためには国に戻らなければならない」
と言ったのです。それで校長先生はチャンさんは諦めると思ったのでしょう。何しろ国に帰ってくるには、インド人のお給料1年分ぐらいの航空運賃がかかるのですから、ただヴィザを取るだけのために、そんな大金を払って、往復するなんて考えられなかったのです。ところがその考えられないことをするのが、チャンさんであることを、その時は、誰も気づかなかったのです。私はほとんど彼女の通訳として、先生に呼ばれ、それを伝えにチャンさんのところへ行くと、彼女はなんとベッドで昼寝をしている状態で、私はその図太さにびっくりするのでした。
 
 そして誰も予想していないことが起こってしまいました。チャンさんは何と国まで飛んで、ヴィザを取って来てしまったのです。
 

41 美人のチャンさん再び
 
 チャンさんが戻って来て、慌てたのが校長先生でした。結局彼女を不本意ながら入学させることになってしまい、先生は私を校長室に呼び、そしてこう言いました。
「彼女を入学させることになってしまった。ついては彼女の英語力はお粗末なので、あなたが面倒を見て欲しい。彼女は能力はないが、ヨーガを学びたいというやる気だけはあるようだ。彼女をなんとかして欲しい」
と。私は彼女は私の助けなど必要としない人だと解っていました。それでも
「私に出来ることがあるとすれば、やって見ます」
と答えておきました。
 チャンさんは面接試験に呼ばれました。そして帰ってくると彼女は私に
「アキコさん。この学校の人達は、とても親切。私が英語が出来ないのを心配してわざわざもう一人の 先生と、私をどういうふうに助けるか、考えてくれたみたい。でも私は勉強は嫌いだから、するつもりなんてないし、私はここに居るだけで良いと思っているし、私に重要なのはきれいでいることだから、さっきもお化粧はばっちりして行ったのよ」
とニコニコしています。
「ええーー。それって面接試験だったんじゃない? 例えば宗教は何かとか、本を読まされたりしなかった?」
と私が聞くと
「ええーーー! 面接だったのー。知らなかった。宗教は何かと聞かれて、宗教はノーと言ったし、本を呼んで見ろと言われたから、こんな本は読めないから、あなたが呼んでとシャルマ先生にうふふしてしまった。アハハハハ、アレ、面接だったの。そう言えば、年を聞かれて、年は秘密、精神年齢は 25歳とふざけたら、まじめにと校長先生に言われた。キャーー!」
と、騒いでいます。そして私はまた先生に呼び出されて、
「あの人をどうにかして欲しい。あの人をどうにか出来るのはアキコ、あなただけだ。どうか責任を持って、彼女に勉強をさせて欲しい」
と言われました。と言われても、私も私の勉強で精一杯だし、彼女は勉強しないと決めているのですから、それを直すことが可能なのかどうか、私には疑問なのでした。
 チャンさんは、すごくお化粧をしていて、私はそういうことに疎いため、その日チャンさんがお化粧をせずに、私の前に現れたとき、私はチャンさんと気づかずに、
「はじめまして」
と言ってしまったのでした。本当に同じ人と全然気づかなかったのです。チャンさんは授業に出るときは、朝6時半からのクラスでも、バッチリお化粧をしてくるため、最初のうちはいつも遅刻でした。先生に素顔で来なさいと言われても、遅刻するならクラスに来なくていいと言われてもめげるチャンさんではありませんでした。校長先生に呼び出されて怒られても
「勝手に向こうが怒っているんだから、それは向こうの問題で、私には関係ない。なんかワァーワァー怒鳴ってた」
と、へっちゃらなのです。

 

42 チャンさん恐るべし!
 
 美人で豊満な肉体を持ち、バッチリお化粧しているチャンさんは、クラスの男の子たちをおおいに刺激し、それは恐ろしい程でした。何しろ夜にでもなれば、ヨーガ病院の下から、チャンさんの部屋に向かって
「チャン、チャン」
と男の子の声が引っ切りなしに聞こえ、それでも彼女が返事をしないと、男の子は彼女の部屋まで来てしまうのでした。それが先生の耳にも届き、男子学生が女子学生の部屋に行くのは禁止されていましたから、その男の子は即刻停学、謹慎を言い渡されてしまったのでした。その男の子は婚約者のある身で、それでもチャンさんの部屋に忍び込んだので、それが問題になったのです。インドでは秘密が守られるということは、ほとんどありません。なぜかすべての人の行動は、すべての人の周知の事実となるのです。
 たとえば、この学校では、平日は外食は禁止です。しかも日曜日で外出許可をもらっていても、外でお肉を食べたことがわかったら、退学なのだそうです。去年それで退学になった生徒がいたということです。しかしチャンさんはそんなことはおかまいなし。
「アキコさん。私、焼き肉10人前が私の頭の中を飛ぶようになって、とてもここの食事に耐えられま しぇん。これから外に行って食べてくる」
と言い残して行ってしまうのです。私は一切口外しないのにもかかわらず、次の日には彼女は先生に呼び出され、
「あなた昨日外でお昼食べたでしょう」
と注意されてしまうのです。彼女は韓国人で、肉食だったため、完全菜食のヨーガ病院食に耐えられないのです。彼女の豊満な体も日に日に痩せて行くのを目の前にして、私は気の毒に思いました。美しさを追求する彼女が、痩せて額にしわが出来てしまいました。
 それで怒られても、何を言われても
「アキコさん、食べに行ってくる」
とチャンさんは出掛けて行くのでした。日曜日は外出許可も出ます。それでインド人のククさんの誘いで、食事に行くことになりました。それで私はチャンさんを誘い、レストランに行きました。美人のチャンさんにククさんはメロメロ。チャンさんは片っ端から料理を頼み、そしてビールまで飲んでしまいました。そしてなんと酔っ払ってしまったのです。
 部屋に帰り、私はお酒は一切飲まないので、普通と変わらず瞑想して寝ました。すると夜中にまたあの男子学生がチャンさんの部屋にやってきて、部屋の前で酔いをさましていたチャンさんの様子が変なので
「お前、酔っているのか?」
と驚いて聞いたのです。すると何も気にしないチャンさんは
「ビール、ビール、ほんといい気持ち」
と上機嫌で答え、次の日には、クラスメート全員が
「チャンは肉を食ったらしい、酒まで飲んで酔っ払っていたらしい」
とうわさしていました。インドではまだ保守的傾向が強く、女が酒を飲み、酔うというような事には、すごい抵抗があるようでした。しかもクラスの半分以上は、生まれて一度も肉を口にしたことがないと言う人達ですから、それはショックだったのかもしれません。そんなこともチャンさんは気にはしません。

43 謎の女・チャン
 
 私はチャンさんが学校に来てから、周りが騒がしくなったのを感じました。私は静かにヨーガの勉強と研究に取り組むつもりでしたから、男子学生たちの
「チャンはどこだ?」
と私に聞くことに、だんだん嫌気がさして来て、というのも私は彼女がクラスに出ずに、5つ星ホテルで、ランチをとっていることや、美容室でヘヤーダイしに行ってることや、プーネやボンベイに買い物に行っていることは、彼女のいつもの私への報告で知っていましたが、それを言ったら、彼女の学校での立場が危うくなるので、私はいつも
「私は彼女の母親ではないから、彼女がどこに行っているか知らない」
と答えるのです。すると彼らは
「二人は仲が悪いのか?」
と言うのでした。実のところ私たちは不思議なほど仲が良いのでした。外から見ればそれは信じがたいことで、なぜなら、私たち二人は全く対称的だったからです。でも私は彼女のなんとも不思議な行動がおもしろく、話しているといつも笑い転げてしまいます。ただ先生たちは彼女の行動が脅威らしく、何か事件が起きるのではないかと、ハラハラしているのでした。
 
 彼女は学校にはほとんど来ず、珍しく来たと思うと、皆が言葉を失うほど、ゴージャスに着飾り、それが午前中と午後と御召し替えされるので、男子学生などは『ふわー』と心を奪われてしまうのでした。けれども何人かのヨーガ的な人達は
「いったい彼女は何のためにインドまで来て、ヨーガ大学に来たのか。勉強もせず、厚化粧で、着飾り、色気をふりまいているのは、いったい何のためなんだ。理解に苦しむね」
と口々に、だんだん彼女の行動が目障りで、迷惑といった感じでした。私はと言えば、お化粧にも無縁で、いつも同じ白い服だけを着ていたので、他の人からの批評からは自由でした。
 
 ある日突然チャンさんは私の部屋に走ってやって来て、興奮した口調で言いました。
「アキコさん、私、かっこいい人に会ってしまいました。もう一目ぼれ、恋に落ちました」
と。私は外食とおしゃれと買い物に忙しい人が、今度は恋に落ちて、なんと忙しい人だと思いましたが
「どこで?」
と聞きました。
「ここで。その人はどうやらここに滞在するらしいの。今、来たところ。アキコさん、お願いです。その人と話したいんだけど、一緒に行ってもらえない?」
と彼女はにっこりして言いました。
「ふーーん。では行ってあげましょう」
と私はヨーガの勉強を一時中断し、彼女とその人のところへ行きました。そこでその人を見た私は、とても驚いてしまいました。と言うのも、彼はオレンジ色の服を来た『スワミ(精神的指導者)』なのでした。チャンさんは小声で
「ねぇ、アキコさん。かっこいいでしょう。ああ、素敵。あの人も絶対私に気があると思うの。私の方をほらほら見てるでしょう。どうしよう。なんて言えばいいの」
と彼女は興奮して私に言いました。

44 恋に落ちたチャンさん
 
 突然、恋に落ちたチャンさんの相手は、ヨーガ行者でスワミ(精神的指導者)、そのオレンジ色の衣は、修行が積み重ねられた、ある境地に達したことを示すものでした。オレンジ色は放棄の色で、欲望を焼き尽くす火の炎の色を指すと言われています。私は
『ほぉー、恋に落ちた相手はサニヤシン(放棄者)かぁ。これはどうなるのだろう』
と、首を傾げました。私が思うのに、スワミという人達は通常恋に落ちたりはしないと思うのです。そういうことから離れるために、行ってみれば出家しているのですから。そういう執着から離れている人達です。でももちろん彼らも人間ですから、チャンさんが、言うように彼も彼女に気があるのかも知れません。けれどそうだとすると、彼のスワミという立場が危うくなります。果たしてこの恋はどうなって行くのだろうかと、少しその行く末を私は不安に思いました。チャンさんは、その全身で『私はあなたに夢中です』という意志を表し、目をパチパチしながら、彼に彼女をアピールしています。私はなんだかその女っぽい様子が恐ろしくなりました。でもそれに対して心の中でにやにやしている様子の、そのスワミに対しては
『本当にスワミなの。大学の男子学生と変わらないその態度はなんなのだ』と呆れました。
チャンさんが片言の英語で話しかけると、彼は英語が出来ず、グジャーラート語しか出来ないことが 判明しました。そこで私では役に立たないと思ったチャンさんは、グジャーラート語の出来る、ヨギータを呼びに行き、彼女に通訳させるのでした。チャンさんは目的のためには、手段を選ばないところがあります。
 
 ヨギータはグジャーラート語でそのスワミと話し、そしてチャンさんが伝えて欲しいことを、私が英語でヨギータに伝え、それをヨギータがグジャーラート語でスワミに告げるのでした。彼女の名前を彼に伝え、スワミの住んでいる所、住所と電話番号を教えて欲しいと彼女は言いました。そしていつまでここ滞在するのかと、聞きました。彼は
「ここはもうすぐ経ちます。あと10分程で」
と言いました。チャンさんは泣きそうになりました。そしてスワミはチャンさんに名刺を渡し、やがて用意された車で去って行きました。チャンさんは渡された名刺を握り締め
「あーーー、かっこいい。ねぇ、あの人も私に絶対気があったでしょ。ヨギータ。あなたも感じたでしょ」
とヨギータに言うと、サニヤシンを目指している彼女は笑って
「チャン、スワミは女の人に興味を持たない。スワミがかっこいいのは修行のおかげなのよ。チャン、スワミに好かれたいのなら、あなたもヨーガの修行を一生懸命することよ」
と言いました。でもチャンさんはそんなこと気にもせず、幸せに包まれているようでした。
「アキコさん。聞いて。私、恋に落ちたのは初めてなんです。嬉しい。こんなに幸せなんて」
私は幸せな人だと思いました。でもこの恋が進展して行くとは、ヨギータも私も思わなかったのです。けれどチャンさんはその後すぐに大胆な行動に出ることになることを、そのときはヨギータも私も思いもよらなかったのでした。
 

45 チャンさん、恋に走る
 
 チャンさんの恋のお相手、スワミはムンバイに経ち、チャンさんはずっーーと夢心地でした。私はそんなことに関わっている暇は無く、また自分のヨーガの勉強に戻りました。夜になるとまたしてもチャンさんが私の部屋に走ってやって来て(彼女はいつも走っています)そして息をはぁはぁさせながら言いました。
「アキコさん。私、今、スワミと話してしまいました。嬉しいーーー。あのね、電話したらすぐに私だとわかってくれて、私がスワミの所に会いに行きたいと言ったら、彼のいるところはグジャラートだ から、これからイギリスに講演のために行くから、しばらくはそこに帰らない。ディワリィ(ヒンド ゥーでの新年)の休みには、グジャラートにいるから、私はそのとき彼に会いに行くことにしたので す。あーーー。アキコさん、どうしよう。幸せで。彼も私のことを思っているって」 
私は目が点になってしまいました。積極的な人です。でもこの恋が進展して行くとは・・・。意外な展開です。
「でも、英語が出来ないスワミとグジャラート語のできないチャンさんがどうやって電話で話した  
 の?」 
と私は不思議になって聞きました。彼女は
「ふふふ。私たちには言葉は必要ないのです。ふたりとも片言の英語で、でも通じてると思う。でも文章にはなってなくて、ただ単語だけ。それでも話せて嬉しいーーー」
と上機嫌。恋に走るチャンさんは、その後、そのスワミがグジャラートにいるという理由で、突然、グジャラート出身のヨギータに急接近するのでした。そしてグジャラート語で
「愛している」ってどう言うの、とか挨拶や手紙の書き方を質問しているのでした。クラスの皆は
「英語とヒンディー語をどうにかしろよ。グジャラート語なんて覚えてる場合じゃないだろう」
と、突然のチャンさんの不可解な行動に首を傾げているのでした。
 恋に走るチャンさんは、手紙をスワミに書くことに夢中で、私の部屋に来ては
「アキコさん、スワミに手紙を書いたんだけど、英語に訳してもらえませんか。今、私は夕日を見ても、雲を見てもスワミのことを思い出せて、もう幸せ」
と、夢見る人なのです。私は手紙を訳しながら、来週にあるヨーガ教授法の発表はどうするのだろう。それには準備が必要なのです。皆の前でヨーガについての説明と実践法を発表しなければならないのですから。でも私の心配は全く無用でした。チャンさんは、あの色っぽい目をパチパチさせるまなざしでクラスメートの男の子に近付き、そしてその研究をすべて彼にやらせたのでした。
「アキコさん。私は今、スワミのことしか頭にないから、授業なんてどうでもいいの。でもあの男の子がやってくれるというから、まかせたわ。きっと今頃はグジャラートにスワミが帰っているころだから、今晩電話してみよう」
と楽しそうでした。そのころから、夜な夜な学校を抜け出し夜中に電話をかけに行くチャンさんの姿が目撃され、「一体、あいつは何をやっているのだ」と、キャンパス内ではもっぱらのうわさになっていたのです。
 

46 シーク教徒の瞑想者
 
 授業は、なかなか理解するのが難しく、私は相変わらずの寝不足で、予習と復習に時間がとられていました。そんな中で一つだけよく理解出来る授業がありました。
 ある日その先生は静かに、とても静かに教室に現れました。私はその瞬間に直感的に
『ああ、この人は期待出来そうだ。何か私に大切なことを伝えてくれるかもしれない』と思ったのです。
 
 その先生はターバンを巻いていて、彼はヒンドゥー教徒ではなく、シーク教徒なのです。ターバンを巻いているのは、シーク教徒の印です。彼はターバンの色と縞のシャツの色を合わせていて、おしゃれなそして美しい顔立ちの人です。彼は教室の黒板の前に立ち
「祈り」
と低い小さな声で言いました。
 
 私たち生徒が祈りの言葉をいい加減に唱えると、彼は目を開けて静かに言いました。
「祈りは心を込めて、意識を集中して低い音で静かにゆっくり唱えることが必要である。そんないい加減な気持ちで唱えては何もならない。祈りはその言葉自体力を秘めている。それを深く理解し、誠実に大切に祈りの言葉を唱えて欲しい。もういちどやり直し」
私たちはやり直し、「もう一度」と言う彼の指示で、またもう一度繰り返しました。
 私は一目見て、彼はメディテイター(瞑想者)だと解りました。私はこの先生に会うために、この学校に来たのかも知れない、と思いました。その人の名はボガール。心理学者で、瞑想者、ヨーガ実践者です。とても雰囲気が静かです。
 
 彼はあなたにとってヨーガとは何か。なぜこの学校に来たのか、その理由を生徒一人一人に尋ねました。私は「ヨーガは私自身を理解するのに助けになる」と答えました。他の生徒が、就職に有利になるとか、クリニックで、医学だけでなく、ヨーガも出来ると仕事がうまく行くとか、外国に行ってヨーガを教えたいと言うような、この世的な答えのインド人とは違う答えをした私に対して、先生はいい印象を持ったようでした。先生は言いました。ヨーガを学ぶ意味をそれぞれしっかり考えなさい。そうでなければ、あなたがたは卒業の日に、卒業証書とインド政府公認ヨーガ教師の資格以外に何も得られないだろう。大切なのはあなたがたの成長だ。紙切れではない。
 
 私はボガール先生の言うことがとても良く解りました。授業は、ヨーガとメンタルヘルス。心理学とヨーガです。彼は朝、昼、晩と一日3回瞑想すると言いました。彼の授業にはいつも心に残るものがあり、私は彼の授業を受けるのを楽しみにするようになりました。 だんだん授業にも慣れて来ましたが、いつもクラスでは戦いがありました。それは先生が英語で授業すると、ヒンディー語しか出来ない生徒達が、すぐに文句を言い始め、ヒンディー語で説明してくれと言うのです。40人中、英語だけの留学生は3人で、37人はヒンディー語が解るので、私たちの立場はとても弱いのです。でもヒンディー語で授業を理解するのは、私には不可能に近く、友達と日常会話は出来ても、哲学や解剖学をヒンディー語で学ぶのは無理なのです。授業がヒンディー語で続くと、私は納得出来ずに、先生に抗議しに行くのでした。

 

47 学校生活
 
 私の学校生活は、ほとんど勉強でした。友達のヨギータとはヨーガについての話をしました。インドでは神様がたくさんいるため、その神様のお誕生日は休みになり、神様のお祭りの日もお休みになります。今日はクリシュナの誕生日、今日はシヴァのお祭り。今日はカーリーのお祭りと、たくさんの神様に由来する日が一カ月一回は少なくともあって、それを把握するのも大変です。
 
 日常生活は、食事はヨーガ病院で3回出ます。食事作りは病院の使用人が作ります。彼らはインドでは低いカーストに属していますが、とてもいい人達です。私がキッチンに行くと、いつでも私の名前を呼び、食事をしろと親切です。私は彼らとはヒンディー語で話をします。
 掃除は掃除人が掃除に来てくれます。掃除人は食事の支度をする使用人よりも、もっと低いカーストの人達です。インドではカーストはまだ歴然と残っていて、戸惑うこともありますが、もともとは職業カーストとして、彼らのそれぞれの職業を分担し守るために作られた制度なのです。けれどもそれが、浄、不浄の考え方と結び付いて、低い身分の人達は、汚い仕事を従事するようなことになってしまっているのです。日本では職業に貴賎なしとして、職業で人を差別したり、その職業の人とは食事をしないとか、話さないとか、そういうことはありませんが、インドでは高いカーストの人は、低いカーストの人を不浄とし、食事を一緒にとることや、同じテーブルにつくことを嫌います。だから外国人の私たちは、低いカーストの使用人であっても、友達のように扱うので、彼らは時に戸惑い、でもここの人達はとても嬉しそうに、私たちと接するのです。掃除の人は、私の部屋に来ると、まずヒンディー語で話します。私はヒンディー語の練習に、今日は何曜日か、今日の朝ごはんは何かと、彼に質問します。その会話が彼らにはとても嬉しいらしく、ニコニコします。けれど掃除はとても雑で、何しろビチャビチャに濡らした、汚い布でただ床の上をなぞるだけで、私にとっては、それは掃除と言えたものではなく、ただ床を濡らした。それも汚れた水で、というものです。インドと日本では清潔の観念は全く違っていて、ときどきそれに耐えられなくなることもあります。
 
 ここで自分ですることは洗濯です。洗濯は洗濯機がないため、重労働です。インドでは土埃がすごく、外を歩いてくると、服はすぐに真っ黒になってしまいます。だから出掛けると、そのあとには洗濯が待っているのです。もちろん洗濯屋はあって、洗濯物を取りに来てくれて、届けてくれます。雨期のときは、太陽を見ることがないため、洗濯物は何日も乾きません。ですから下着以外は、洗濯屋に出します。40円ぐらいでブラウス1枚洗濯してアイロンをかけてもってきてくれます。ひどく雨が続くと、下着も乾かないため、私はよくドライヤーで乾かしました。
 
 雨は相変わらず降り続き、洪水のように道に水があふれると、すぐそこの学校まで行けないため、休校になることもあります。そんな日は、閉じ込められた状態で、どこにも行けず、部屋から外の凄まじい雨の風景を見ているのでした。そんな中でクラスメートが雨期のインドの脅威、マラリアになり、病院にかつぎ込まれました。

48 怖ーいマラリヤ
 
 私の前の出席番号のスミットラがマラリヤになり、病院に連れて行かれました。それはまだ学校が始まって間もない頃で、クラスメートも動揺していました。特に私の仲良しのヨギータはスミットラと同室で、何かと彼女の世話を焼かなければならず、彼女は勉強家なため、勉強に身が入らないことが不安の材料のようでした。女子寮ではだんだん女の子たちが、ここの生活に慣れてくるにつれ、お互いのエゴがぶつかり合い、問題が表面化して来ているようでした。
 
 私達、外国人はそれぞれがもう大人だったため、独立していて行動を共にする必要もなく、特別仲が良いとか、仲が悪いとかそういう次元で生活して居ないため、何の問題もありませんでした。もちろん、個人的な問題はあり、韓国人のチャンさんは、学校側からは、最悪の問題児とされ、常に校長室に呼ばれては、注意を受けていて、でも彼女にとってそんなことは対した問題ではなく、マイペースにインドの生活を楽しみ、相変わらずの恋に落ちた夢見るチャンさんとして、ぜんぜん勉強はせずに、恋の相手に手紙を送ることに全力で取り組んでいました。
 
 ブラジルから来たシルビアは、ルームメイトのイヴォンヌが国に帰ることになり、その色々な手続きの手伝いで忙しそうでした。それにインドの食事に慣れず、体調を壊しているようでした。
 マラリヤになったスミットラは、病院から戻り、部屋で静養していましたが、熱が出たり、突然発作が起きたり、震えが来たり、戻したりとなかなか回復の兆しを見せませんでした。でも今インドではマラリヤは死に至る病気ではなく、適切に薬を飲めば治ります。マラリアの感染経路は蚊です。特に雨期には蚊が大量発生し、それにさされてマラリアになるのです。雨期に怖いのはマラリヤや、水が道にあふれることによって衛生状態が悪くなり、そのためにおこる伝染病や感染病などです。
 
 女子寮は一階建てなので、水たまりなどに蚊がわいたりすると、防ぐのが難しいのかも知れません。それとインドの蚊取り線香は、蚊をそこから遠ざけるのですが、殺しません。これも非暴力、不殺生ということなのか、あまり効かないのです。私は日本から蚊取り線香を持って行きましたし、それから私の部屋は2階でした。ただ、蚊取り線香を一晩中たいていると、喉がやられてしまいます。でもマラリヤは怖いし、と思っていたら、インド人のククさんがインドの電気式のべープのような、匂いもあまりしない、高性能の蚊よけを買って来てくれて、インド人にしたら高いものですが、ククさんはお金持ちなので、それを買うことができるのです。「マラリアはインド人にとっても脅威だ。十分気をつけるように。詰め替え用リキッドが必要になったら、すぐに言いなさい」と言いました。ククさんは、太り過ぎのため、このヨーガ病院にヨーガを習いに来ているのです。来るときはいつもお菓子やインドのスナックを買って来てくれて、何か必要な物はないか、家にご飯を食べにおいで、とか、ボンベイやプーネに用事があるときは、車で連れて行ってあげるから言いなさいと親切です。買い物好きのチャンさんはいつもククさんと出掛けては、おいしいものを食べて私にお土産を買って来てくれました。
 

49 ディワリ(新年)の予定
 
 学校では雨季も終わりに近づき、勉強もしやすい季節、インドの秋、乾季を迎えようとしていました。生徒達も学校生活に慣れて来て、ホームシックも消えて、学校生活をそれなりに楽しんでいるようでした。
 私は相変わらず、先生が授業中にヒンディー語を使い、英語で説明するのを忘れることで、イライラすることもありました。そのときはいつも講義しますが、インド人というのは、身にしみないというか、改善しない、反省しないというか、それは全然改善されませんでした。そんなときは、インドに来たこと自体を後悔するのでした。しかし私の周りには、幸せな留学生が一人存在していました。チャンさんです。彼女は相変わらず、ロマンスの中で夢見心地でした。そして先生に怒られても、こちらも反省しないというか、全然気にしないというか、それは並外れた能力と言えるものでした。
 
 10月になると、インドの新年の休みが近付くために、皆家に帰ることを楽しみにしているようでした。そして留学生は帰国出来ないために、インド人の生徒は、自分の家に招待したくて、留学生3人に新年の休みはどうするのか、しつこく聞きます。
 仲良しのヨギータは、私が彼女の家に行くのは、もう当然と思っているらしく、他の生徒も
「アキコはヨギータの家に行くのでしょう?」 
と私がまだ何も決めていない時から、皆の噂になっていました。
 そんなとき私は校長先生に呼び出されました。先生は私にイガットプリの瞑想キャンプに行くことを勧めました。10日間の瞑想でキャンプで、もしもディワリの期間中にあるとしたら、それはまたとないいいチャンスだと、彼は言い、さっそく手続きを取るようにいいました。私は申し込み書を作成し、送りました。けれどイガットプリはとても人気のある、ヴィパサナ瞑想のメインセンターなので、いつでもいっぱいで予約をとるのはとても難しいのです。結局、返事は待てど暮らせど来ませんでした。
喜んだのはヨギータでした。
「アキコ、私の家に来て。グジャラートでもヴィパ サナ瞑想キャンプはあるから、一緒に行きましょ う。約束よ。絶対来てね」
私もどうしても瞑想キャンプに行きたかったので、そうすることにしました。けれど、私はまたしても校長先生に呼び出されて
「返事は来たか」
と聞かれました。私は
「無理のようです」
と答えました。すると先生は、
「では、私が校長として電話をかけてあげよう。日 本からわざわざ来ている留学生にその機会を与え てもらえるように、公式に頼んであげるから心配 ない」
私はどうなるのか全然見当もつきませんでした。先生はその夜、私の滞在している所に電話をかけて来て
「あなたはなんてラッキーなのだ。ヴィパサナ瞑想 キャンプはバッチリ、ディワリの休み10日間で おこなわれる。あなたのことは頼んでおいた。心 配ない」
と嬉しそうに言いました。私はこれも運命かと納得し、新年の休みの過ごし方は、瞑想ということで決まりました。しかし問題はヨギータです。

 

50 ヨギータの落胆
 
 私がディワリの休みにヨギータの家に行けないことを知ったヨギータはがっくりし、その失望ぶりは見ていても気の毒なぐらいでした。クラスの皆も私がヨギータの家に行くと思っていたので、私が瞑想キャンプに一人で行くと聞いて驚いたようでした。インド人は外国人が自分の家に来るのを誇りに思うらしく、それは自慢なのです。ヨギータをなだめるのに私は苦労してしまいました。
 ヨギータはとてもいい人なのですが、激しい性格を持ち合わせていました。ヨーガを実践して行くうえで、その激しい性格と強い執着が災いするのは、ヨギータ自身も時々感じていたのに違いありません。
 ヨギータはときどき先生と言い争い、そのときは道に倒れて泣くぐらいの激しさを持っていました。彼女はグジャラートでは何度も一番の優秀成績者として表彰され、親の自慢の娘でもありました。だからとても負けず嫌いで、勉強の仕方も力が入っていました。
 
「アキコ、私はあなたと一緒に家に帰りたい。なぜ一 緒に行けないの。家のお母さんはあなたが来ると思って、あなたの服を今縫っているのよ。私の家はお 金があるから、エアコンの車でどこへでも連れて行ってあげられるし、どうしてもイガットプリに行くの」
とヨギータは聞きました。
「ヨギータ、ごめんなさい。私は瞑想にとても興味が あって、10日間、瞑想だけするというヴィパサナに行きたいのです。いつかきっとあなたのお家にも うかがえると思うから、そんなに気を落とさないで」
ヨギータはがっくりしながら
「アキコ、私は将来サニヤーシン(放棄者・出家のヨーガ行者)になるつもりだけど、なぜかまだ色々なものへの執着が強い。外国にも行って見たいし、勉強もしたい。友達への執着からも離れなけれ ばいけないよね。私は怒るとからだが震えるぐらいに怒りが込み上げて来て、それでは行けないと分かっているんだけれど」
と言いました。私は
「ヨギータ、冷静さはいつでも大切よ。心の平安が重要だから。私が瞑想キャンプに行くのも、10日間誰とも話さず、何も読まず何も書かず何も見ず、そうして過ごすことを経験してみたいからなの。わかるでしょう」
と彼女をなだめるように言いました。彼女も
「わかる。ヴィパサナは私も行きたい。とくにイガットプリは特別な場所だもの。でも今回は私は家に帰って家族と過ごしたいし、家族が待っているから。私はまだ家族から離れられない。ときどき 本当にサニヤーシンになれるのかと思う。インド人は家族の絆がとても強いから。一人で居ることに私も慣れていないし、外国人は違うね。一人で 遠くまで来れるのだから」
と少しずつ気持ちもおさまって来たようでした。私がイガットプリに瞑想に行くことがクラスメートに広まるのに時間はかかりませんでした。
 
 そしてブラジル人のシルビアは仲良しのミタの家に行くことが決まり、皆の興味はチャンさんがどこへ行くのかに集中しました。その行く先を知っているのは、チャンさん本人と私だけでしたが、それがあの恋の相手、サニヤーシンのスワミの所だといったい誰が想像出来たでしょうか。

51 ディーワーリー祭り
 
 10月の末、雨季が終わったころにヒンドゥーの3大祭りの一つ、ディーワーリーがあります。富と幸運の女神ラクシュミーをまつって催されるお祭りで、インドでの新年に当たるようです。それは「光りの祭り」と呼ばれ、寺院や町中、村、家庭でも素焼きの小皿に油を入れたランプに灯が灯り美しく、街がイルミネーションに彩られ、人々は幸せに包まれます。
 
 学校も休みになり、帰省します。スワミと呼ばれている、スバーシュだけが寮に残り、勉強していると行っていました。彼は天才的に頭の良い人で、インドの哲学、ヨーガについて、まるで知らないことがなく、先生たちも彼の知識には脱帽状態でした。彼はバラモン(祭祀階級)に生まれ、小さい頃から、グル(先生)について、ヴェーダなどの聖典を学んで来ました。高等教育を受け、大学を出て会計士になりました。給料のいいポストでしたが、サニヤーシン(放棄者、出家)として生きることを決め、会社を辞めて、、まずこの学校に入りました。彼はマドラス出身です。学校を出たら、グルを見つけて出家すると行っていました。彼の前のグルは亡くなったので、サニヤーシンとして認めてくれるグルを探す必要があったのです。
 
 生徒の中でグルを持っていたのは、ヨギータだけでした 。彼女のグルはすぐれた人物のようでした。スバーシュも彼女のグルにいずれ会って見たいようでした。スバーシュは朝昼晩とどんなことがあっても、プージャ(祈りの儀式)を自分自身で執り行っていました。部屋に戻り、一人それを執り行います。
「それはバラモンとしての僕の務めだから」
と彼は言いました。
「僕はバラモンとして生まれたことを感謝している。なぜなら精神的な家庭に生まれ、ヴェーダの勉強を小さいころからすることが出来た。いい先生にもついて精神性について、学ぶことが出来た。それはバラモンとして生まれた特権なのかもしれない。だから今回で俗世から離れ、悟りの道へ進みたい。アキコなぜあなたは一本道を進まないのだ。ヴィパサナは仏教の瞑想法だよ。ヨーガだけではなぜだめなんだ」
私はそれには答えられませんでした。多分好奇心なのかも知れません。ただ直感的に行って見たいと思ったのです。ここではヨーガの勉強は出来ますが、瞑想の実践はほとんどありません。学問としてのヨーガと肉体的な実践方法が主です。
 
 彼は私がヴィパサナに行くことを非難しながらも、それに興味を持ったらしく、ヴィパサナ瞑想について図書館で調べたようでした。そしてヨーガスートラの先生とも私がヴィパサナに行くことについて話をしたらしく、シャルマ先生に会ったとき
「スバーシュがあなたがヴィパサナに行くと言っていたけれど、それはすばらしい。それは有意義な10日間になるだろう」
と言われ、ボガール先生にも
「ヴィパサナ瞑想は10日間、話さず書かず読まずと言うものだけれど、あなたはいつも静かだから問題ないだろう、人によっては大変な苦行となるけれども」
と言われました。

52 それぞれのディーワーリー
 
 留学生は言葉のハンディがあるために、特に解剖学と生理学のバグワット先生は試験のことを心配していました。確かにその科目は難しいのです。彼はチャンさんを部屋に呼び、ディーワーリーの休みは個人指導してあげるから学校に残りなさいと言いました。チャンさんは、先生の部屋に行くと先生が手を握ったり抱き締めたりするらしく、困ったいました。美人そのことで誘惑も多く危険な目にも会うのだなぁ 、と私は美人の大変さをチャンさんから聞かされました。もちろん多くの場合彼女は、美人である我ゆえに、それを武器にこの世の中をスイスイ泳いできたようでもありましたが。
 彼女がディーワーリーに勉強を選ぶ訳はなく、
「試験はあなたに任せるから、問題と答えを教えてちょうだい」
と先生に言ったらしく、あの美しい顔で先生に目をパチパチして、先生もデレデレしたようで
『まったく』
と言う感じでした。けれど、問題と答えを教えてくださいと言ってしまえるその性格に私は変に感心してしまいました。
 チャンさんは、ディーワーリーに来て行く服とスワミへのお土産を買うのに忙しくしていました。そして出発当日、なんと飛行機でボンベイからグジャラートへ飛んだのでした。その噂もあっと言う間に学校に広まっていました。その朝、彼女は嬉しそうに
「あきこさん、もしスワミが居ていいって言ったら、 しばらくは帰って来ませんから、もう試験もどうでもいいわ」
と言い残して、リキシャに乗って出掛けて行きました。 私は翌日、イガットプリに向けてタクシーで行きました。途中タクシーは車にぶつけ、激しい人だかりであっちが悪いこっちが悪いと言い合いになり、私は車の中で静かにしていました。その喧噪の中にいると10日間静かに過ごせることがどんなに正しい選択だったかと、校長先生にも、私の運命にも感謝しました。
 
 イガットプリの丘の上に、ヴィパサナ、メインセンターがあります。そこはほんとうに美しい所でした。金色のパゴダ(仏塔)が中央にそびえ、人々は優しそうでした。インドと言っても、それは仏教のセンターですから、すこし雰囲気が違います。それに全員が瞑想のために集まっているのですから、独特の穏やかなヴァイブレーションがあります。悪のない状態と言うのでしょうか。街をタクシーで駆け抜けて来たときは、市場や食堂や路上で、人々が生活のために何かを得ようと必至で暮らしている波動がありました。けれどここでは誰もが10日間、世俗から離れ、日常生活を離れ、欲望を制し、自分と静かに向き合うという覚悟できています。商業波動のない状態我、ここを清浄な雰囲気にしているのかも知れません。
 私が外国人でしかも一人でイガットプリに来ていることと、ヴィパサナ瞑想が初めてなことで、ボランティアのスタッフの人達もやさしく接してくれました。静かに説明してくれて案内してくれました。
 お金とパスポートと本、ノート、ペンなどはすべて預け、着替えと洗面道具と身の回りのものだけを持って部屋につきました。ベッドだけがある部屋に荷物を置き、食堂でお昼を食べました。

53 ヴィパサナ瞑想の日々
 
 夜7時から、沈黙の行がスタートします。10日間読まず、書かず、話さず、シンプルな菜食の食事を朝と昼、夕方スナックが出て、夜はありません。500人の人が10日間の瞑想のためにここに集っています。見渡す限りでは、外国人は10人ほど、あとはインド人の男女です。男女は部屋も食事をするところも別です。瞑想は大きなホールで、入り口は男女分かれ、右と左に別れて座ります。7時に人々の話し声が消えました。
 私は校長先生からの推薦があるためか、個室がもらえました。普通はヴィパサナ瞑想の経験者が個室をもらえるらしいのです。経験者は朝と夜も食べません。一日一食だけです。でも瞑想しかすることがないので、つい食事が楽しみになってしまうのです。座っているだけなのにお腹はすくのです。
 
 朝は3時半に起きました。4時半にホールに行き座ります。日に3回の強制参加の瞑想を除いては自分の自由意志で瞑想するのですが、瞑想以外することもないので、私は出来る限り、ホールに座って居ました。一日10時間は座って居たでしょうか。黙って居ると言っても、頭の中ではしゃべっている訳で、思ったほど静かではありません。自分の中がうるさいのです。けれど私にとって話さないということは、全然苦痛ではなく、むしろ楽なのです。しかし自分の中で私は話し続けていることに、気がつかされました。
 インドの秋とはいえ、結構暑く、座っていると汗ばんで来ます。500人が座っているので、その熱気みたいなものもあります。静かな熱気がホールにありました。
 
 8時に最後の瞑想が終わると、ビデオを見に行きます。これは許されていて、それは、ヴィパサナ瞑想についての講義です。ビデオの中で、ゴエンカさんが私たちに話しかけます。
「さあ、一日目が終わったね。どうだったかな」
と、二日目になれば
「さあ、2日目を乗り切ったね。真剣に続けよう」 などと言います。そしてヴィパサナ瞑想の考え方、実践法などを説明します。1時間のビデオを見 て部屋に戻り、就寝です。単調なのに飽きないのは座ることの難しさがあるからでしょうか。
 ゴエンカさんと言うのは、ビルマで出会った仏教のヴィパサナ瞑想をインドに伝えた人です。彼はインド人ですが、ビルマで事業をしていました。彼はすごい資産家の家に生まれ、事業で成功していましたから何不自由ない生活を送り、世界を飛び回っていましたが、原因不明の激しい頭痛に苦しみ、世界のどんな名医も彼の苦しみを取り除くことは出来なかったのです。けれどある人の紹介で嫌々ながら参加したヴィパサナ瞑想で彼の頭痛は消えてしまったのでした。
 
 彼は瞑想を続け、インドで病に伏した自分の母親にもヴィパサナ瞑想を教え、彼女も治り、その感謝のしるしにインドでヴィパサナ瞑想を広めることを決めて、イガットプリにメインセンターを作ったのでした。今ではインドだけでなく全世界にそのセンターはあります。ゴエンカさんはまだ存命で、70代後半でしょうか。私が滞在中、メインセンターに帰られており、朝と夜の瞑想のときはいつも500人と一緒に座ってくださっていました。

54 ただ座っていること
 
 一日一日が過ぎて行きます。ただ座ることで。私は淡々とその日課をこなしていました。時には瞑想していることが幸せでした。光りに包まれているような、気持ちの良い状態で、ときにはただ時間が過ぎるのを待っているだけでした。
 
 足の痛みは、時々ひざが痛くなります。ずっとひざを曲げているからです。座ること自体が苦痛の人もいて、何日かすると姿の見えなくなる人もいます。瞑想をあきらめて帰ってしまった人もいるのです。ここでは自分と向き合うことだけが許されているので、混乱が生じる人もいます。特に何か日常生活に問題を抱えていて、それを解決出来ないがゆえに、この瞑想キャンプに挑んで見たという人の場合、自分の問題と正面から向き合うことになります。それは大変な苦痛であり、その問題にすべてが支配されてしまうように感じるのかも知れません。
 それでも言って見れば、町の中の人々が新年のお祝いに浮かれ、ごちそうを食べ、楽しみ家族と語らっているこの時期に、あえて自ら自分の平安のために、ヴィパサナ瞑想を選び、ごちそうも食べず、話さず、楽しみも持たず、瞑想して入る人達、500人を見ていると、インドという国の精神文化というものの豊かさを感じます。
 私にとっては、ここでの生活は、苦というよりもどちらかというと快適で、この静かな生活が嬉しいし、シンプルな食事も、学校のヨーバ病院の食事より何倍も良い訳で、皆に苛酷な10日間だと言われて来ただけに、少し拍子抜けしているところもありました。
 
 500人の中に、台湾の尼僧さんたちのグループが含まれていることに、あとから気づきました。30名ぐらいのグループだったでしょうか。彼らには特別中華風の食事が用意されていて、食堂に行くと、私も中国系と思われたのか、いつも中華料理も勧められてしまうのでした。 
 瞑想の合間の自由時間にゴエンカさんへの質問の時間が設けられていて、私も直接ゴエンカさんと話すことが出来ました。私は人にとってなぜ瞑想が必要なのか質問しました。するとゴエンカさんは
「それは純粋になる方法だからだ」
と言いました。
「敵は自分の中にいる。敵は自分の中の不純な思いなのだ。瞑想は心を浄化させる方法であり、思考 習慣のパーターンを変えることなのだ。不純な思 いが反応するとき、嫉妬や、妬みや、エゴや欲望となって現れる。そしてあらゆるものを手に入れ ようという行為に走る。しかし大切なのは、平静さと気づきである。あなたの不純な思いから発する、思考習慣のパターンをカットすること。問題になるのはいつもあなたの反応なのだ。気高い沈 黙が助けになる。健康的な食事が健康的な体を作る。健康的な習慣が健康的な精神を作る。健康的な種な健康的な実を結ぶように、自分の中に植え 付けていく印象、思考、習慣、行為に気をつけるべきである。執着、嫌悪を離れなければ、平和を獲得することは出来ない」 
ゴエンカさんは優しい包容力のある人でした。私はここに来れたこと、ゴエンカさんと話せたことを幸せに思いました。言葉を交わさない人達とも日々が過ぎるごとに心が通じているようででした。

55 沈黙が終わったとき
 
 10日目の朝が来ると、瞑想と沈黙の時間も終わりに近づきました。500人の人々は感無量と言った感じで、涙を浮かべている人さえいました。10日間の沈黙と瞑想だけの日々は、世俗的な日常生活を送っている人々にとっては、なかなか貴重で大変な体験なのかも知れません。その終了が告げられたとき、私は何かが爆発したのかと思いました。彼らが話し出したからです。それまでの沈黙を取り返すかのように、嬉しそうに話始めたのです。今度は話すことが義務かなにかのように、突然皆話始め、私は何か違和感を覚えました。なぜなら500人の人達は素性も知らないまま、つまり自己紹介なしで、10日間ともに時間と空間を共用していたのです。言って見れば無名のまま。そしてここで人々は突然、自分は何者か、そしてあんたは誰かと話し、質問し始めた訳です。それまで10日の間、私たちは誰でもなかったのです。沈黙していたことで、エゴも消えて、と言うより自分を主張するすべがなかったのです。けれどそれが終わりを告げたとき、人々はまた元の状態に戻ってしまいました。あっと言う間に。
 
 私はまだ沈黙を保っていました。彼らは急に他の人に興味を示し始めました。そしてインド人に囲まれて質問を受けることになります。それに答えながらも私の中では沈黙が保たれて居ました。つまり感情的な反応はなく、ただ質問に最小限の言葉で答えて居たのです。私の中で10日間の瞑想の日々が、私の中の静けさと落ち着きを増し、沈黙がもたらす頭の中の平静さと気づきの重要さに目覚めた感じがしていました。 
 私はオーストラリアから来た、黒人の看護婦さんとお昼を食べて、彼女の白人のとてもハンサムな旦那さんと一緒に駅に向かいました。彼女の旦那さんは瞑想者で、彼女は興味がなかったのですが、彼に勧められて参加したと言っていました。途中何度も脱走しようと思ったと言っていました。
 
 「私はインドにリゾートに来たのよ。瞑想とかそうゆうことではなく、観光に来たのよ。私は5つ星ホテルでゆっくりゴージャスに休暇を楽しんでいるから、彼だけヴィパサに行って、と言ったんだけど。彼は彼の毎日瞑想し静かな日々を送りたいというライフスタイルを私にも理解してほしかったのかもしれない。私はキリスト教徒だから、仏教の瞑想など出来る訳もないと思っていたし、彼がキリスト教から離れて、瞑想的な日々を送るこ とをすこし不満にも思っていたのね。でももう限界脱走しようと思ったとき、なぜか私の中に変化が起きて、それが何か説明できないんだけど、平和に包まれたような光りに包まれたような、何かが楽になって、それで10日間過ごせたの。彼のことも少し理解出来たような気がする。アキコ、オーストラリアに来ることが会ったら、ぜひ遊びに来てね。いいところよ」
 
 汽車にのっている間、彼女は色々なことを私に話してくれました。とても情に厚いいい人でした。私は途中で汽車を乗り換えるために、彼女たちにさよならを言いました。そして乗り換えた汽車にはヴィパサナを終えた韓国人2人が乗って居ました。彼らはプーネに帰る留学生でした。彼はインド哲学を勉強して居ます。いろんな国からこのインドに何かを求めて来ている人達、ここは不思議な国です。
 

56 インドの普通の世界に戻って見れば
 
 汽車の中で、外国人だと見ると必ず話しかけてくるおじさんというものがいます。そうすると質問攻めで疲れてしまいます。ロナワラに着いたときは、もうすっかりイガットプリの沈黙が懐かしく、インド人の話の渦の中に帰って行くことが苦痛でした。
 
 ヨーガ病院に帰ると、皆が待って居てくれて、サーバント達も私の姿を見ると嬉しそうに、ご飯は食べたのか、どこへ行って来たのかと、ヒンディー語で尋ねます。病院に滞在している夫婦もヴィパサナはどうだったか興味深々で私をその後観察していたらしく「ウーン、あなたを見ていると、ヴィパサナは相当いいらしい。あなたの平和そうな雰囲気でその効果がわかる。私たちもぜひ試して見る価値がありそうだ」と言いました。
 
 キャンパスで先生たちに再会すると、ヴィパサナはどうだったかと聞かれます。ここに居るすべての人がすべての人のディーワーリーの休暇の過ごし方を知っているようでした。だた一人の行方を除いては。
「ところで、チャンはどこへ行ったのだ」
という言葉で、私はチャンさんのことを思い出しました。ヴィパサナの間は学校のことはすべて忘れていたのです。なぜインド人は人のことが気になるのだろう。これが私の疑問でした。私は誰がどこへ行こうと全然気になりませんし、興味もありません。ゴエンカさんも言っていました。余計なことは話すな、と。特に噂話や無駄なおしゃべりに時間を割かないようにと。
 
 でもこちらがそのつもりでも日常生活の中では、それが難しいことがあります。ヨーガ病院で食事をしていると、滞在中のインド人夫婦がいつも話しかけます。彼らは二人ともヨーガの先生で、公立の学校でヨーガを教えています。今は研修として、このヨーガ大学の聴講生として、ヨーガを学んでいます。奥さんの方はヨーガで博士号までもっているインテリです。けれど彼女はときどき外国人がうらやましいようで、インドのあり方について私に愚痴をこぼすのです。
「インドでは女性に自由は許されていないのよ。未 婚のときは親の言うなり、結婚相手も親が決める。結婚すると夫の言いなり、何か一つ買うにしても夫の承諾がなければ買うことが出来ない。今、この学校で何人かの生徒が恋愛しているけれど、辞めた方がいいわね。学校生活が終われば、親に引き離されるだけだから。いまだに自由恋愛は許されていないのよ」と彼女は言いました。
「でも、あなたは博士号をもち、職業を持ち、自立しているのでしょう。それでも夫に服従という訳?」
と私が聞くと、「そうよ。ときどき、けんかすると彼は泣きながら私を殴ることもあるんだから。でも子供もいるから、我慢するけれど。インドで離婚なんて考えられない。離婚するとまるで村八分状態だから。でも気に入られなければ夫の方から一方的に離婚される場合もあるけれど、そうなるとその後の人生は悲惨なものになるわね」
と彼女は強い口調で言いました。
 
 インドもまだまだ保守的のようです。『自由』が何よりも大切だと思う私にとって、自分の生き方を人に決められてしまうというのは、納得出来ないものがありました。

57 チャンさん戻る
 
「アキコさん、ただいまー」
とグジャラートから戻って来たチャンさんを見たとき、私は意外に思いました。
「あれ、意外と早く帰って来たのね。しばらくグジャラートに滞在するのかと思ったけれど」
と聞くと
「うふふ。スワミと会えて、メチャ嬉しかった。アキコさん。スワミはメチャかっこ良かった。でもね、二人の関係がばれると大変なことになるらしく、秘密に会ってたのね。だから公の席では彼は私の方を 見ることが出来ないのよ。アキコさん、スワミの宗 教はナラヤン教と言うらしく、スワミは女の人を見ても行けないし、話してもいけないらしい。彼も小さいときに出家して、今21歳なんだけど、グジャラートのそのお寺ではメチャ偉い人らしいの。私はスワミの信者さんの家に滞在して、その信者さんたちが今、留守だから、そこでひたすらスワミが来るのを待っているだけなの。それでも嬉しくて幸せだった。ほんの短い間しか会えないんだけど。スワミも私のことをずっーと思っていたって。でも時間が自由にならないのね。ずっーとグジャラートに滞在すると言ったんだけど、忙しいから学校に帰るように言われたの。今度はスワミがボンベイまで私に会いに来るって。ロナワラにも来るって言ったの。ねえ、アキコさん、ロナワラだったら泊まるのはどこがいいかな。やっぱりあの丘陵にある5つ星のホテルよね。メチャ楽しみ。うふふ。どうしよう」 
 
 確かチャンさんは30歳。そのスワミが21歳。しかも彼は女の人を見てもいけない宗教の出家者。出もチャンさんは何も気にしていないようでした。チャンさんは何事も悪くとらないし、否定的なことも考えない人なのです。ただひたすら幸せな人なのです。私は
「チャンさんは、その彼とどうなりたい訳ですか?」
と聞くと彼女は
「ええーー?ただ彼のことを思っていたいだけ。それが私の幸せ。さあて、今日も電話かけにいかなくっちゃ。また詩ができたら訳してね、アキコサン」
と言って部屋を出て行きました。
 
 私は彼女と話しながら、お茶を飲むのが大好きで、彼女の何とも天真爛漫さが珍しく、しかし状況はなかなか困難のように思えながら、曇り一点もない彼女の幸せな思いにも驚き、やはりチャンさんはただ者ではないという感じでした。
 そしてもっと不思議なのは、そういうふうにスワミのことを思いながら、他の男の子たちや外人男性に誘われるとすぐにデートに行ってしまうことでした。私にとっては彼女は新人類でした。
 私は中間試験が近づいていたので、また勉強に戻り、ヴィパサナ瞑想も朝と夜に行い、普通の学校生活に戻りました。ディーワーリーが終わると、クリヤヨーガの実践が学校では始まり、クリアのための道具を買いました。それは鼻の洗浄のためのポットとゴムの細いチューブ。胃の洗浄のためのゴムの太い長いチューブと5メートルの包帯のような布です。ということは、私は鼻から口にかけてチューブを入れなければならないし、水を飲んでから太いチューブを胃まで入れなければならないし、5メートルの布を胃まで呑み込まなければならない訳で、そのときはそんなこと出来るのだろうかと?印でした。

 

58 浄化法(クリヤ)の実践
 
 朝はまだ明けたばかりで、朝もやがあたりを白く煙らせています。早朝6時半には学校についていなければならないので、私は毎日4時半には起きていました。私は出かけるまでに2時間必要なのです。ゆっくりテンポなので、まずは水浴び、洗面、一杯のお茶を飲み目を覚まします。そしてお線香を焚き気分を瞑想へ導く為にお祈りをして、そしてしばらく座ります。あまりの寝不足のせいで途中で眠ってしまうこともしばしばでした。それでもそんな生活にも慣れて、静かに座っていることが、すべての支えであったようにも思えます。
 
 浄化法の一日目はワクワクドキドキで、初めての事に挑戦する時はいつでもそうですが、新しい事を学べる幸せがありました。その日はまず浄化法(クリヤ)とは何かについての説明があり、それは主にハタ(生理的)ヨーガとガタ(肉体的)ヨーガにおけるアーサナ(坐法)に入る前の準備としておこなうもので、まず体をきれいに問題ない状態にするのが目的です。
 
 今日は第一日目として鼻の浄化法でジャーラネーティ、水を使って鼻を洗浄する方法です。ジャーラは水と言う意味で、ネーティは鼻と言う意味です。ネーティポットを用意します。それはヨーガ大学でオリジナルで作られた物が売っていてそれを買います。それを熱湯で消毒し、用意した熱湯を水で薄めて塩を入れてかき混ぜそれをポットに入れておきます。ネーティポットは吸い口みたいな急須みたいなものを、想像すると分かりやすいかも知れません。その先を右の鼻の穴に差し込み、顔を斜めに倒して口は開け、口で息をしながら、水を右鼻から入れ左から自然に流れ出てくるのをまちます。
 程なくして水は流れ出て鼻は洗浄されます。痛みはありません。そして反対からも水を流し、その後カパラバティという特殊な呼吸法で鼻の中に残っている水をすべて外に出し切ります。すると本当にすっきりして、目がパチッと覚めたような頭がすっきりしたようなさわやかな感じです。ただし水が内部に残っていると頭痛の原因になるので要注意です。
 
 その日チャンさんは姿を見せず、ヨーガの実践は美しくなる為にクラスに来るのにどうしたのかと思っていると案の定、先生は
「アキコ、チャンはどうした?」
と聞かれました。そして部屋に戻った時に、チャンさんはベランダでゆったりお茶を飲んでいました。
「アキコさん、夕べ又スワミと電話で話をしてしまいました。うふふ。めちゃ幸せ」
朝からおめでたい人であります。学校の事など何も気にしていない様子はいつもの通りですが、何か言いたそうでその含みを帯びたその笑顔が意味するものが何なのか私にはその時は推測できなかったのです。
 二人でお茶を飲む時には、決まって彼女のロマンスのおのろけ話になるのですが、ディワリーの休みの間に二人の間に起こったことは、言いたいけれど言えないと言うような感じで、私も根掘り葉掘り聞くのも趣味じゃないので、聞きはしませんでした。けれど彼女の話によると彼は小さい頃に出家して、親にもほとんど合わずに女の人と目を合わせる事もなく生きてきて、今、21歳で早くも偉い人となり、それが突然恋に落ち、けれども自由にはチャンさんに会えない事で、この頃は電話で「辛い」とか「寂しい」と言っていると彼女はそんなときもとても嬉しそうに話すのでした。

 

59 美しくなるためなら
 
 クリヤ(浄化法)の実践は、週2回行なわれていました。その日は、朝いつもより用意する事が多く、キッチンでお湯を用意したり、ポットやゴムのチューブを熱湯消毒したり、浄化水を学校まで運んだりと重労働でした。と言うのも留学生は、生水をそのまま飲むのは危険だったからです。
 その日は、スートラ・ネーティ。ゴムのチューブを鼻から入れて口から出し、何回かそのチューブを動かして鼻を洗浄する実践でした。私は以前にも実践済みなので簡単に出来てしまいましたが、他の生徒は涙ぐんでいる状態の人もいて、大変そうでした。
 
 皆が四苦八苦している時に、チャンさんが現れました。皆がタオルで顔を拭いているのを見たチャンさんは、「あたしはクリヤはやめとくわ」と言って帰ろうとするので、先生は
「チャン、化粧は落としてきなさい。そんなに口紅をつけていたら浄化法は出来ないのだから。チャン、ヨーガを実践していれば、自然に美しくなれるのだから、そんなに朝から化粧するのはやめなさい。それで遅刻しているのはよくないのよ。浄化法はあなたを美しくするのに役立つわよ」
 言う事を聞かないチャンさんに対して、ほとほと手を焼いた先生は作戦を変えたことが私には分かりました。チャンさんは勉強には興味がないのですが、美しくなる事に関してはどんな努力も惜しまないのです。言って見れば、そもそもチャンさんは美しくなるのでヨーガに興味があったのですから。美しくなると聞いて彼女はクリヤに初めて反応しました。そしてやる気になったようでした。
 先生はこれはグッドなアイデアだと気がついたらしく、それからは彼女をやる気にさせる為にはいつも「これは美の為にいいわよ」と言うようにして、チャンさんの気を引くようになりました。
 バヴィタというヨーガ実践の先生はまだ若い女性でチャンさんのことで校長先生に素行の監督不行届きと叱られることで疲れてしまって、作戦変更に出て、それは大成功でした。
 
 それにしてもチャンさんは幸せな人で、学校に姿を現しただけで皆に歓喜され、時間通りに来たりすれば、大変ほめられると言う状態でした。他の人はあたりまえにしている事で決してほめられもしなければ気にもとめられない事が、チヤンさんでは違うわけです。
「美しくなる為ならクリヤもやるしかないわね」とチャンさんは朝のクラスにも姿を現すようになりましたが、相変わらず化粧はどんな事があってもして来ていました。素顔を決して人々に見せないと言うのは何か心理的な問題があるように思いはじめていたのは私だけではなかったようでした。
 それにしても彼女は類稀なる性格で、ある日校長先生のクラスに珍しくやって来ていた彼女を、クラスに数分遅れて見えた校長先生は
「おお、チャン、珍しく時間に来ているではないか」と皮肉たっぷりな口調で言うとチャンさんは
「あなたは遅れてきたわね。私はここで待っていたと言うのに。どうしたというの」
ととても偉そうに言ったのです。インドでは校長先生にそんな口をきける人は誰もいません。皆はとてもびっくりし、校長先生は動揺を隠せない様でした。チャンさんは校長先生の天敵です。本当に狼狽えて、面喰らったようでした。私は『すごい』と思いました。チャンさんは恐い者なし、彼女の側からは天下に敵無しと言う感じでありました。恐るべしチャン。
 

 

60 留学生のそれぞれ
 
 中間試験が近付き、インド人学生達は、その準備で慌ただしさを増しているようでした。図書館に通う人、先生のところに行って、試験の傾向を聞く人など様々です。のんびり落ち着いているのは、常にマイペースのこの私と命知らずのチャンさん、そして南国ブラジルのおおらかさを隠せないシルビアぐらいなものでした。
 と言うのも、私達留学生はどこか蚊屋の外と言う感じで、試験の情報もあまり耳に入らず、惑わされる事もなく、自分のペースで生活していました。私達はかなり個人主義で、自分で判断し、決定し、行動するタイプでした。先生の目を気にする事もなく、自由に生活していました。なので私が一人でいると、インド人のクラスメートは
「アキコ、どうしてあなたは一人でいつも寂しそうで不幸そうなの。私達は一人で行動するなんて考えられない。勉強する時でも、ガヤガヤうるさい居間で、勉強するのよ。まして一人で御飯を食べるなんて事はあり得ない。一人で眠る事もないし、一人は恐くないの?」
と心配してくれます。彼等はかなりのグループ主義、人々との距離が小さいタイトな家族主義です。
「中間試験の準備はしているの?貴女達留学生を図書館で見かけた事がないけれど。大丈夫なの?」
 事実、私は一度図書館に行き、永遠に続くと思われる2人の司書のおしゃべりで勉強に身が入らず、それからは図書館に行くのを止めたのでした。
 
 シルビアはルームメートのイヴォンヌが帰国してしまってから、インド人学生の中で唯一のキリスト教徒であるジョージと急接近。それまで熱心なクリスチャンでもなかったのに、急に毎週日曜日に彼と一緒に教会に行くようになり、その行き帰りにデートを楽しんでいる様でした。けれどもインドでは、まだ自由恋愛が大っぴらに許されている風潮がなく、ジョージは皆の噂にならないように、わざと時間差で学校を出たりして、私にすら2人はただの友だちに過ぎないと言ったりして、ブラジルの情熱的な愛情表現の習慣のシルビアにとっては、その態度が不満の様でした。どんなにジョージが表面的に取りつくろっても、インドで秘密に何かをすることは不可能に近く、2人が思っている以上に話は進展し、盛り上がっていました。
 
 ヨーガ教授法の試験は皆の前でヨーガを指導するのですが、私は英語とサンスクリット語とヒンディ語を使い、軽くこなし先生にほめられてしまいました。政府から視察団が来る時にそれを発表するように言い渡されました。シルビアは日曜日のデートで準備不足なのと教授法の試験官が運悪くバヴィタ先生になり、彼女はバヴィタ先生が嫌いな為、質問にうまく答えられなくて、試験の後はカンカン怒っていました。「バヴィタの質問に答えられるわけがない」と。シルビアは結構きつい性格です。一方チャンさんは、クラスメートの男の子に資料は作らせたため、その内容までは把握していない為に、質問されても分からず、先生はでもあなたここに書いているじゃないのと変な問答が続き私はおかしくてたまりませんでした。教授法は漫才のようで、聞いている生徒が吹き出しそれが皆に伝播して、誰も笑いをとめる事が出来なくなり、ほとんど笑っているだけで終わりましたが、そこは運の良いチャンさん。試験官が美人に弱いデシパンデ先生だったため、いい点数をもらい、必死で調べた男子学生よりもいい点数だったため、彼等の怒りを買う事になりました。
 

61 中間試験と犬
 
 十二月に入り、季節はすっかり乾季の冬、ここロナワラは高原のために結構寒くなってきました。ブラジル出身のシルビアは寒いのに慣れていない為、辛そうでした。それと体調があまり良くないらしく、ジョンとの恋愛以外はここに来た事を後悔しているらしく、と言うのも最初シルビアがあまり英語ができなかったために、授業に出ても露骨に彼女を無視する先生が一人いて、そのシャルマ先生を嫌っていたし、バヴィタ先生も嫌いなのでした。そんな感情的状態から体調を崩し、ものが食べられない、熱が出るという感じでした。
 私とチャンさんは体調を崩す事もなく、チャンさんは中間試験の問題と答えは先生に聞くから大丈夫、試験は任せてと、いたって余裕の雰囲気。最近はマーケットでイヤリングと香水の店を見つけて、通いつめ、買い占めているとの情報。美しさに加えて、彼女が通り過ぎるとなんとも甘いお花のような香水の香りまでして、もう女優のお出ましという甘美さであります。 私は朝晩の瞑想と中間試験の勉強で、楽しいヨーガの研究の日々を送り、朝から晩までヨーガだけの日々は、私にとっては、それはそれで甘美なものでした。
 
 中間試験は、6教科の筆記試験と実技2つでした。筆記は1教科3時間英語またはヒンディ語で書き続けるもので、5問選んでそれに論文形式で回答するものでした。その中にはサンスクリツト語が含まれる為、事前の準備は必要不可欠です。それでも人生の一定期間そんな勉強に打ち込める事はとても贅沢で幸せで嬉しいものでした。
 
 試験は始まり、チャンさんは一夜漬けだと言っていました。彼女は天才かも知れません。たくさんの内容をそれも他言語で一夜で覚えるなど並みの人間には出来ないことです。その頃チャンさんは、なぜか犬を飼いはじめました。チャンさんは犬好きで、部屋には国で飼っている犬の写真を飾っていました。顔がべちゃと潰れたブルドックで「アキコさん、めちゃハンサムでしょ」と言われ、首を傾げました。美女と野獣と言った感じ。
 ある日ヨーガ病院のチャンさんの部屋の前に犬がいて、チャンさんが餌を上げていました。そして
「アキコさん、マーケットに犬の餌を買いに行って来るから何か買い物があったら、ついでに買ってくるけれどありますか?」
と、それからは犬の餌を買うのに忙しそうでした。「この犬、妊娠しているらしくて、栄養が必要だから、卵を買って茹でであげているの。ついでにあたしも食べてます。うふふ。」 
 ここはもちろん菜食で卵も禁止です。ここの人たちはクッキーでさえ、卵入りのは食べません。ヴェジタリアンクッキーかどうか確かめてから食べます。そして程なくして病院の受付の人が来て、
「ここは病院で、犬は困るよそに連れていくように」と注意されてしまいました。けれどチャンさんは「はーい、わかりました。そうします。」
という人ではありません。勿論次の日もその次の日も犬はチャンさんの部屋の前に居ました。そしてチキンなども食べている犬を目撃する事もしばしば、それはだんだんエスカレートしていくのでした。
 
 それからはどこへ行くのもチャンさんの後にはその犬がついていました。中間試験の会場にも犬は現れ、先生が慌てて犬を外に追い出している様子は何とも滑稽で、チャンさんは平気で気にする様子もなく、試験は20分ぐらいで、終えて出て行ってしまい、待っていた犬と市場へ出かけて行きました。

 

62 犬とチャンさん
 
 中間試験は約1週間程続き、チャンさんはいずれも20分で試験場を後にするので、皆は一様に驚いていました。そして皆がまだ試験中にもかかわらず、5つ星ホテルで食事したり、アイスクリームを食べたりと相変わらずの余裕でした。彼女は人に試験はどうだと聞かれると、「オーケー、ばっちり」と軽く答えるので、彼女は天才に違いないと思う人もいました。
 
 けれども先生に呼び出された私は試験はどうだと聞かれ「ベストは尽くしました」と言うと「うむ、なかなかすばらしく良く書けていた」と言われた後で、先生が言った言葉に驚いてしまいました。「問題はチャンだ。彼女は全然書いていない。何か詩のようなものを書いていたけれど、あれは何なのだろう。雲がどうのこうのと言う」それは私が彼女がロマンスの相手であるスワミにあてた詩を英訳してあげたものでした。試験の答案用紙に詩を書いて20分で教室を出て、外出してしまうチャンさんの噂が広まるのに時間はかかりませんでした。けれど先生達の心配をよそにチャンさんは私には「アキコさん。試験は問題の意味もわからなかった。何を質問されているかそれすら分からないのだから書けるわけがありましぇん。でも何か書いておけば大丈夫らしいから、一つだけ覚えた答えを全ての質問に答えておきました。で、何も覚えなかったものには、詩と絵を書いて終わり、だからすぐ終わってしまった。でも何かしら書いておけば、通るらしいから、大丈夫。」とニッコリ言いました。試験の内容は結構難しかったらしくインド人学生達は何人かを除いては疲れた顔をしていました。嬉しそうな顔をしているのはスバーシュとジョージ。スバーシュは天才的に頭の良い人で、先生よりも実力、精神性が上だと言う評判で私が試験はどうだった?ときいた時、彼は美しい笑顔で「ビューティフル」と言ったのです。試験の事を「ビューティフル(美しい)」という人に初めて合いました。でも私はそれを聞いて感動していました。『そうか、そんな風に物事を捉えられたらすばらしい事です。私も試験に対してビューティフルと言えるようになろう。そうしたら今後の人生がどんなに美しいだろう』と。
 
 ジョージは試験が終わるとクリスマスなので特別なのでした。彼はクリスマスにはシルビアとプーネの教会に行くことにしていて、その嬉しさが隠せない様でした。それなのに私達には、シルビアとは別々に過ごすと嘘を言い、私達はシルビアから全部聞いていたので、なぜ嘘をつく必要があるのかと、不思議に思いました。それにクリスマス・イヴに嘘をつくなんていけないと思うのです。
 
 チャンさんは犬が出産まじかで、常に犬と一緒でした。キッチンでニーラジがチャンさんに「チャン、あんたは犬に好かれるタイプだね」と言われるとチャンさんは「犬だけじゃなくて全世界の男にもね」と言ってのけました。アッパレ。けれどあまりにも問題児なため、クラスの男の子達は、引いてしまいクリスマスはなぜか私とチャンさんは一緒に食事に行きました。2人の時間はいつも楽しく、笑ってばかりでした。勿論彼女は、あのロマンスの相手とクリスマスを過ごしたかったに違いありませんが、言ってみれば、彼は公人とでも言うのでしょうか。組織の中で自由は許されていないのです。この道ならぬ恋はどうなるのでしょうか。私達は食事の後、ヨーガ病院の屋上に寝そべって、満天の星空を眺めていました。本当に無数の星達が巨大なクリスマスツリーのように煌めき、天の川までくっきり見る事が出来ます。そしてチャンさんの隣には・・・・・そう、犬がいました。

 

63 新しい年とクリヤヨーガキャンプ
 
 インドでの生活にもすっかり慣れたところで、急に私は毎日同じのインド食メニューに飽きてしまいました。急にパンや麺類が食べたくなってしまったのです。それにキッチンの作業状態を見てしまうと、床で野菜を切っていて、果たしてその野菜は洗ったのか、その人たちは衛生面で気を使っているのだろうかという初歩的な疑問が頭を支配してきたのでした。ここに滞在している外国人が次々に病気になり、無事なのは私とチャンさんだけでした。
 
 それでも日々は確実に過ぎ、新年を迎える事になりました。31日に学校でニューイヤーイヴのパーティをすることになり、日本人の私は日本の歌、ブラジル人のシルビアはヴォサノヴァ歌う事になり、二人で練習しました。なぜかその頃から、チャンさんは部屋に引きこもりがちになり、不思議に私達の前に姿を現さなくなりました。パーティならここぞとばかりにお洒落して皆をあっと言わせそうなものですが、結局姿を見せませんでした。
 パーティでは皆が次々に芸を披露し、インド人は歌や踊り、劇が大好きなのです。それは夜を徹して行なわれるかの様でした。けれども私は夜の瞑想の時間があるので早々に引き上げました。新しい年となり、それを祝う爆竹の音がしました。新年は休みではなく、学校もあり、キャンパスではクリヤヨーガキャンプが始まりました。それは一般の人達もインド各地から参加して、ヨーガについて学び、マントラを唱え、祈りの言葉を唱えて、瞑想もします。断食やモウナ(沈黙の行)をする人もいます。
 
 その頃からチャンさんは人を避けるように行動し、何かが変でした。その頃クリヤヨーガキャンプにはプーネからみなこさんと言う日本人や何人か他の日本人も参加して賑やかでした。けれどもチャンさんはその誰とも口をききませんでした。みなこさんは私にチャンさんはどうしたのだ、日本人が嫌いなのかと聞きました。私もわけが分からずに居ました。
 クリヤキャンプに来たかと思うと、長い髪をバサッとして、瞑想中には髪に隠してウォークマンを聴いていて、先生に注意されても知らんぷり、実際注意されている内容が分からなかったらしく、先生は私を呼び出し注意するように言いました。そして私はチャンさんにどこか悪いのかと聞きました。元気がないからです。するとチャンさんは口籠り、部屋に居ることにしているとだけ言い、やがて食事も部屋の中でするようになり、言葉を交わすチャンスも少なくなりました。
 
 私はクリヤキャンプを楽しんでいました。長く座るのにも慣れて、精神的指導者であるスワミにも一番長く良く座れると言われました。そしてスワミに質問があると言ったら夜にクティ(スワミの住居)に来るように言われました。そうして昼間はクリヤキャンプ、夜はクティでスワミとの話が始まり、学校生活もますます充実してきました。その夜、スワミは質問しました。「食べ物がきつね色に焼けるのと黒くこげるのはどのぐらいの割り合いで起こるか」私以外の人は、「きつね色からこげるのはあっという間だ」言い、私だけが同じ割り合いと言いました。すると私が料理を作っていない、私に必要なのはヨーガの勉強よりも料理だと言われ次の日からスワミの食事を作るように言い渡されました。スワミは言いました。「あなたが勉強がよくできるのは知っている。けれど大切なのは精神的修行だろう。明日からは学校が終わったらすぐにシャワーを浴びてクティに来て掃除し、料理を作りなさい。そしてここで一緒に食べなさい。」と。
 

64  学校とクティと
 
 私の生活はとても忙しくなり、朝四時半に起きてシャワーを浴びて瞑想、勉強して6時半に学校に行き、ヨーガの実践、戻って朝食、掃除、洗濯、午前中の授業2コマ、お昼、昼寝か勉強、、午後の授業2コマ、お茶、夕方のヨーガの実践、シャワーを浴びて白い服に着替えて、クティへ。するとスワミが笑顔で迎えてくれてあなたの為のお茶があるから飲みなさいと言って下さいます。そして学校であった事など話し、ここの創立者であるスワミ・クバラヤナンダ師のお墓の掃除、そしてお祈りの儀式の支度、お線香を焚いたり、ランプを付けたり、花を集めたり、それは美しい作業です。そしてお祈りの儀式が始まり、マントラを唱えていると私はたいてい眠ってしまうらしく、何度もそのことでスワミにはからかわれました。
 
 「アキコはいつでもお祈りをしながら舟を漕いでいる。それでもプージャ(お祈りの儀式)が好きらしい。そんなに興味があるなら、ハワン(火の儀式)を習ったらどうかね。」
 私はとても複雑そうな儀式なのでとんでもありませんと丁重にお断りするのでした。そしてプージャの後は料理、そして配膳、一緒に夕食をとり、あとかたずけ、食後のお茶の支度、スワミの寝床の準備と休む暇はありませんでした。クティには夜、いつもお客様が見え、その方達にもお茶をお出しし、それは常に重要なお客さまでした。大学の校長先生や他の先生方も見えました。忙しいながらも楽しい時間でした。お客さんが見えない時は食後は私が学んだ事を講義する事になっていて、クティに来る外国人にも勉強になるし、私の試験の助けにもなるからと、スワミは私の事を考えて下さっている様でした。
 
 9時が門限なので、部屋に戻りそれからヨーガの研究に入り、瞑想して寝るという生活でした。そんな風なので、学校に来ないチャンさんとも顔を合わせる事がめっきり少なくなって、皆にチャンはどうしたと聞かれても、本当に知らない状態でした。
 久しぶりに会ったチャンさんは、眼鏡をかけていて、クラスメートのミタは私にチャンだと分からなかったと耳打ちしました。実際、チャンさんはひどい近眼で、普段はコンタクトレンズなので、分からないのですが、眼鏡になると度がきつすぎる為、目が小さくなってしまい、なぜか鼻も気持ち上を向くような感じで、美人が台無しになってしまうのです。本当に別人のようで、びっくりです。彼女が姿を現さなかった訳がやっと解けました。チャンさんは言いました。
「アキコさん。実はコンタクトレンズの洗浄液がもう少ししかなくなってしまって、コンタクトを使えないんです。なぜなら、あのスワミがボンベイに来るらしくて、私がボンベイに会いに行くと言ったらお忍びでなんとかロナワラに来てくれると言うのね。ところが、コンタクトの液が無い訳で、ど・ど・どうしよう!至急に親に送ってもらうように電話してあるんだけど、うちの親もかなり自分勝手で、焦らないタイプだから、いつ届くかもう不安。でもめちゃ幸せ。やっぱり会うとしたら、あの渓谷の上にある5つ星ホテルよね。あそこで2人でアイスクリーム食べるのかなぁ。わー。きゃー。」
『ふーむ。やはり心配は無用だった。』私は安心すると同時にこの人の精神構造を少し疑うと言うか、呆れると言うか、目の前で無邪気に
「アキコさん、何着て行こうかしら。明日は美容院に行って、エステにも行かなくては、忙しい、忙しい。服も新調しようかな」と小躍りしている彼女を見ていると目がパチクリなのでした。

 

65 ある誤解
 
 恋に走るチャンさんは、コンタクトレンズの液も無事に届いた事で、全力でロマンスの相手に会うべく、美しさに磨きをかけることで、日々を充実して送っている様でした。私も違った意味で充実した日々を送り、ヨーガについてたくさんの事を学びつつありました。
 しかしその頃、また違う事件が起こりつつあったのです。そう言う意味ではこの学校はどうしようもないというか、呆れると言うか、私はしばしば言葉を失いつつありました。それはバレンタインデーだったでしょうか。大学ではミタリと言う女の子を巡って二人の男の子の熱い争いが繰り広げられていたのです。学校の情報に関しては疎い私も、仲良しのヨギータからの情報で少しは知る事が出来ました。
 
 ヨギータの話によるとこうでした。二人の男の子がミタリを狙っていて、ミタリはかなりの美人なので、独身のデシパンデ先生もミタリに求婚した。けれど、ミタリは、それを断り、最初はクラスメートのミシュラとつきあい、日曜日には映画に行ったり、ミシュラは彼女の気を引く為にたくさんの服などのプレゼントをした。けれどミタリはかなりわがまま娘で、気が変わり、こんどは違う男の子とつきあいはじめた。けれど彼女が好きなのは、ボガール先生で、ヨギータはボガール先生に気に入られているから、ミタリはヨギータにボガール先生に近付くなと、頼んだと言うのです。ヨギータはサニヤシン(放棄者)になると決めているので、誰も好きにならないとミタリに言ったけれど彼女は信じない、と。なんだかヨギータはボガール先生のことを話す時は嬉しそうでした。
 
 しかし、チャンさんからの情報は少し違っていました。チャンさんは、自分の誕生日にチョコレートケーキを皆に配りました。インドでは誕生日の人が、お菓子を配る習慣があるのです。チャンさんは、ボガール先生にもチョコレートケーキを届けたのです。それはミタリが先生に会いたい為に、口実としてチャンさんとミタリ一緒に渡しに行ったのです。その時ミタリはボガール先生の写真が欲しかったので、写真をとったのですが、そのときチャンさんとボガール先生のツーショトをカメラに納めたのでした。
 ボガール先生は美人2人の訪問とチョコレートケーキをたいそう喜び、いつでもチョコレートケーキを持って来ていいよ、と言ったらしいのです。そしてバレンタインデーの日にミタリは大胆な行動に出て、ボガール先生に彼の好きなチョコレートケーキを送り愛を告白する事にしたのです。カードには愛の言葉を書き、写真を添えて、チャンさんとチョコレートケーキを買いに行き、ボガールのオフィスに。けれど直接渡す勇気がなく、ドアをノックしただけで、ミタリはそのプレゼントの袋をドアのノブに引っ掛けて帰ったのでした。
 
 その頃、チャンさんとミタリは美人同志、結構性格も似たところがあって仲良しでした。けれどボガール先生からチョコレートケーキと愛の告白に対する返事が来た先はミタリではなく、なぜかチャンさんだったのです。電話で呼び出されて、ボガール先生のオフィスに行くと、ボガール先生は、気取ってそしてチャンさんに言ったのだそうです。
「なぜ、あの日直接僕に手渡さなかったの。僕は中に居たのに。今度の日曜日にプーネに行って食事をしよう。ただしこの事は誰にも言わないように。二人の写真は良く撮れているね」
と。つまりこうです。ミタリは恥ずかしいので自分の名前をカードに書かなかった。そしてチャンさんとボガール先生の写真を入れた。そしてあの日と同じチョコレートケーキ、ボガール先生は完全に誤解したと言う訳です。
 

66 ある誤解 ー(続)
 
 私が驚いたのは、それからでした。
「だから今度の日曜日はボガール先生とデートなの」
とチャンさんが言ったからでした。私は
『なんでそうなる訳?』
と、唖然としました。
『この人の頭の中はどうなっているのだろうか』
「あの、チャンさんもボガール先生が好みなの?」
と私が聞くと
「ぜーんぜん」
とチャンさん。
『ならなぜ?ミタリはどうなる訳?』
「ミタリに言ったら、なんでチャンがデートするのよ、と言ってた」
『どうなってるの。この人達は。私の理解を超えている』
「アキコさん。プーネで何か買ってくるものある?あーー、あのおいしいクッキー屋さんでクッキー買って来るね。ねえねえ、アキコさん、新しいパンジャビドレス作ったんだけど、着てみるから見てくれる?スワミが来る時に着ようと思うのだけれど、どうかしら。きゃー、恥ずかしい。」
『私には良く分かりません。混乱しない様にヨーガの勉強に戻ろう』
 私は部屋に戻り、彼女が着替えて、再び私の前に姿を現わすまで机に向かいました。それからしばらくして、彼女は2度程着替えて私の前に現れました。そのうちの1着は、なんとあのロマンスの相手であるスワミからのプレゼントであると彼女は言いました。ピンクのドレス。私は頭がくらくらしてしまいました。
 もうこの世は混乱している。私はよくこの世的で無いと言われるけれど、この世は複雑過ぎる。なぜ人々はこんがらがっているのでしょうか。
 そしてボガール先生が口止めしたのもかかわらず、チャンさんからミタリと私に伝わり、次の日にはチャンさんは、ニヴェデイタから
「ねえ、チャン、日曜日にボガール先生とデートするんでしょう」
と言われ、もう話はかなり早い速度で広まっているのでした。
 私はしばらくチャンさんとは距離を保とうと思いました。なんだかこれは変な話だと感じたのです。それから、チャンさんは常にボガール先生から呼び出され、オフィスで、彼はチャンさんの手を握り
「このまま君をずっと見ていたいから」とか、
「今日はまた一段と美しいね」とか言うようになったので、チャンさんは本当の事を言うつもりになったようでした。というのもボガール先生に手を握られていたとき、あのスワミからもらって手首に巻いていた数珠が突然その時切れて、チャンさんは「はっ」としたのだそうです。そしてボガール先生が
「今日は美味しいチョコレートケーキはないの?」と聞いた時、
「あれは私からのプレゼントではなくてミタリからでーす。」
と言ったのです。その瞬間ボガール先生はその意味が分からなかったようで、しばらく間があいて、眼が点になったそうです。そりゃ当然でしょう。正気を取り戻した彼はそれでも言葉は失ったまま、またあとで連絡するとだけ言って、そのあとデートは用事ができたため中止と言って来たと言います。
「私がしている指輪を見て私に思いの人が別にいることがわかったのかしら。でもクッキーが欲しいからプーネには買い物に行ってこよう。アキコさん。実はこの指輪もスワミからのプレゼントなの。うふふ」とチャンさんはホントに脳天気でした。
『訳わからん』

 

67 チャンさん、ついに失踪
 
 私は相変わらず、ヨーガの研究と授業と瞑想とクティでの精神的生活とで忙しい日々を充実して過ごしていました。その頃になると、キッチンで食事をすることも少なくなり、クラスメートと話している時間もなく、チャンさんとお茶を飲んで笑い転げているひとときも持てなくなりました。
 チャンさんのロマンスの相手であるグジャラートのスワミが、ロナワラに来るということを聞いてからかなりの日々が経過していたかも知れません。私はもう会ったのかと思っていましたが、直接その話を彼女から聞いてはいませんでした。それに相変わらず、華やかな生活を送っていた彼女は、常に違う外国人男生と出かけている様でした。
 つまり、校長先生に睨まれてしまった彼女と歩いていることが、学校内でわかるとヨーガ大学の生徒達はかなり不味い立場に追い込まれるらしく、得にチャンさんと出歩いていた男の子達は中間試験成績が悪かったため、厳重注意されたのでした。そして一番チャンさんと出歩いていた婚約者のある身の謹慎も受けた彼は、なぜか突然、その婚約者と結婚し、色んな意味でチャンさんとクラスメートの間では距離が出来つつありました。
 そんなある夜、チャンさんは私に言いました。
「アキコさん、実はスワミはロナワラにもボンベイにも来られなくなって、連絡もとりにくくて、お寺の人達に二人のことがわかると不味いらしいし、スワミは忙しいみたい。電話しても違う人が出ると、グジャラート語だから通じないし、つまらないから私、グジャラートに行って来る」
 まあ、学校にも出ていないし、ほとんどの先生達はチャンさんに関しては大目に見ているから、問題ないかも知れません。校長先生を除いては。
 
 それで彼女はまず、ボンベイの銀行へ行かなければならないと、校長先生から外出許可をとり、そのままグジャラートに行く事にした様でした。
 そうしてしばらくは、チャンさんがいないことも誰も気に止めませんでした。なぜなら、いつも学校に来ていなかったし、とりあえず、外出許可も出ていたからでした。私もチャンはどこかと聞かれれば「ボンベイ」と答えればすんでいたからです。それからチャンさんは皆が気になり出す頃を見計らってヨーガ病院に電話し
「今、ボンベイにいるけれど、病気になったのでしばらくボンベイに滞在します」
と、言って、その電話を受けたのが、バラトシン先生でかなりのんきな人のよいタイプだったため
「おお、そうか、じゃあ、気をつけろよ」
で、どこにいるのかも問いたださなかった為、完全セーフだったのです。
 
 けれど、それから1週間ぐらい経った頃から、「チャンはどこだ。チャンはどこだ」と学校は騒ぎになりだし、ついに校長先生の知る所となってしまったのです。その頃チャンさんは、グジャラートでスワミには会っていたようですが、なかなか自由にはならず、そこで、グジャラートにあるカイヴァリヤダームの支部のアシュラム(道場)に突然姿を現わし、夜中にどんどんと扉をたたいて自分はカイヴァリヤダームのヨーガ大学の生徒だから泊めて欲しいと頼み、その生徒が、かなり派手なタイプでしかも厚化粧だったため、そこのスワミ(精神的指導者)も驚き、なぜヨーガ大学の生徒がここに居て、しかも夜中に、と謎だらけの展開であったようで、次の朝に理由を聞こうとしたら、彼女はなかなか起きてこないし、その日の夕方どこかから戻って来たかと思ったら出ていってしまったと皆一様に驚いたようでした。
 

68 失踪事件その後
 
 「チャンはどこだ、チャンはどこに行った」という嵐の中、彼女はふらっと帰って来ました。私は彼女の行動については色々な所から情報が入っていて、別に心配もしていませんでしたし、運の良い彼女のことだから、うまく何ごとも切り抜けれらるだろうと思っていました。
 チャンさんは、大胆な行動に出たにもかかわらず、あまりスワミとは会えなかったようで、あまり、そのことについては話しませんでした。
 カンカンになった校長先生は、彼女に謹慎を言い渡し、このままでは最終試験を受けさせないと強硬な態度を示しました。それでもめげるチャンさんではありません。色々な方法を考えて、校長先生の決定を覆すべく、行動していました。
 ここの学校のスワミにも呼び出され、彼はグジャラートのカイヴァラヤダーマの支部のスワミから電話を受けたらしく、チャンさんが突然、姿を現わした事を報告していたらしいのです。『彼女は少しメンタルプロブレム(頭がおかしい)のではないか』とスワミに言ったとのことです。
 
 私には突然、ボンベイに住んでいるここの卒業生でもある日本人の人から電話があり、突然チャンさんから電話があり、グジャラ−トのカイヴァリヤダーマのアシュラムの場所を教えてほしいと聞かれ、なぜ、彼女は、そんなことを聞くのか、彼女は学校に居ないのか、と私は聞かれたのでした。その後そのアシュラムに滞在した日本人のみなこさんからの手紙にも、突然のチャンさんの来襲の噂でもちきりでしたと知る事にもなるのでした。
 お騒がせの当の本人は、ケロッとしていて
「謹慎中(停学)だから、学校に行かなくていいから楽」と、たっぷり睡眠をとっている様でした。
 その頃、チャンさんの犬に子犬が生まれ、おそらく7ひきはいたでしょうか。チャンさんのあとにはぞろぞろと親犬1ぴきと子犬がくっついて歩いていました。本当に可愛い子犬達で、その光景は美しいものでした。けれどもそこはやはり生き物で、可愛い、美しいだけではすまされず、餌の事やそれらの排泄物のことで、病院中が大パニック。そこいら中に8ひきの犬達の排泄物が落ちていて、衛生的にも見た目にも、とても不味い状態になっていました。
 
 そんなある夜、私が勉強していると、ドアがドンドンとノックされ、外がやけに騒がしいと思ったら、珍しくバビタマダムが、私の部屋の前に立っていて困った表情で言いました。
「アキコ、チャンが泣いているから、面倒を見て欲しい」
と。彼女が泣くなんて私には信じられませんでした。何ごとも悪くはとらない人ですから、私は驚いて
「なぜ泣いているんですか」
と、バビタマダムに聞くと、彼女は
「犬が死んだのよ。それもチャンが乗って帰って来たそのオートリクシャがひいて」
と小声で言いました。私は勉強を中断して、チャンさんの部屋に行きました。彼女は泣いていました。
「アキコさん。子犬が可哀想。まだあんなに小さいのに。私が言う事を聞かずに夜出歩いていたから、暗闇をリキシャで帰って来たから、子犬が見えなかったの。私が悪いんだ。私のせい。」
『まあ、そうね』という気もしましたが、そこは言葉を飲み込みました。あの時間誰もリキシャを使わないからです。一番可愛がっていた親代わりのチャンさんのリキシャが、よりによってひいてしまうとは皮肉な結果でした。でもそこは立ち直りのはやいチャンさん、次の日にはもうお出かけしていました。

 

69 ハワナ(火の儀式)
 
 私はクティ(スワミの住居)で、料理作りを担当し、インド料理も簡単に作れるようになりました。時には日本料理も作って皆にふるまったりもしました。その頃、クティには、ドイツ人のアンジェリカとスペイン人のジョゼフも滞在していました。アンジェリカとジョゼフは時々意見のぶつかり合いがあり、私がクティに行くことで、その間にクッションができるようで、アンジェリカもジョゼフもそしてスワミも私がいることで、少しほっとしているようでした。というのも私は誰ともぶつからないからです。つまりそういうことに興味がないのです。
 
 そうしてクティでの色々な事にも慣れた頃、またしてもスワミが私に「火の儀式を習いたいかね」と聞きました。私は常に断っていましたが、アンジェリカもジョセフも私のその態度が不思議そうでした。なぜなら、皆、習いたいのです。そんないいチャンスはないからです。それからは、「なぜ習わない」としつこく言われ、ある日、私はなぜか「習います」と言っていました。自分でもなぜかはわかりません。
 するとスワミも驚いて
「そうかいつから習うか?」
と言うので私は
「明日から」
と答えました。すると皆が一様に『おおーー』と驚きのため息を漏らしました。そしてスワミは
「あなたは度胸が座っている、勇気がある」
などど私をほめました。私は別にそれほどでも、と思いましたが、その後の展開に目が点。と言うのもその後のスワミの言葉は次のように続いたからです。
「ついては火の儀式を行なうにはまず、清めの儀式が必要である。明日、カウダンバスを行なうから、着替えを持って昼間来なさい」
『カウダンバス?』私は一瞬耳を疑いました。がそれは後の祭り、スワミはニコッリ笑って『では明日』という仕草で私を見送りました。
 私は一応辞書で調べました。そして言葉を失います。
『やはり、そうか』
思わず笑いそうでした。なんだか驚き過ぎてニヤニヤしてしまいました。『カウダン』とは、牛の糞(ふん)『バス』とはお風呂、沐浴を指します。つまり私は牛の糞を頭からかぶり、それで浄められると言う訳です。目がパチクリ。けれど、私はそこでなんかおもしろそうと思ったのです。これは一生、日本では経験できない事だろう。私はここに勉強するだけに来た訳ではなく、新しい、何か変わった経験をしに来たのだから、やっとおもしろいことになって来た、と思いました。
 そこではじめて、皆の驚きのため息とスワミの言葉の訳を理解しました。インド人は牛を神聖な動物とし、神様と思っていますが、インド人でもカウダンバスをする人はとても少ないようなのです。
 
 翌日、クティに行くと、その清めの儀式の段取りが説明されました。牛の糞は出来たてが牛の尿で溶かれ用意されている。まずは裸でそれを頭からかけて全身に塗り浄める。そして水で流し、その後、ヨーグルトで全身浄められる。それも水で流し、終わる。その間、外では皆がお祈りを唱えている、と。
 と言う訳で、私はとてもインド的な儀式に身を投じる事となり、裸になり、目を閉じてお祈りの声を聞き、頭の上にそのものを「どかっ」とのせられた瞬間、私はもう恐いものはないなぁと、自分の運命の不思議な行方をどこかで俯瞰(ふかん)しているのでした。祈りの声の中、儀式は進み、あっという間に終わってしまうのでした。

 

70 カウダンバス
 
 火の儀式のための準備のカウダンバス(牛の糞による沐浴)が終わり、私はどうなったかと言うと、なかなかさっぱりしていました。スワミは陽の光の当たる所で少し静かに瞑想しなさい、と優しく言い、私はスマミ・クヴァラヤナンダ師の白くきれいな石でできているサマーディパダ(お墓)のところに座り、優しいインドの冬の光を浴びて目をつぶり座っていました。まるで体は光のベールに包まれているかのように、気持ちが良く、平和な気分でした。
 
 私のここでの特異な体験は、日本からしたら、随分異常で過激な考えられないものかも知れません。けれど私は何か目に見えない運命でここに導かれ、そしてここで、普通の人がしないような変な体験をしている訳で、けれども元来物書き志望の私にとって、人がしない体験をする事は、宝のようなものなのです。
 もちろん、この事が私の人生にとって、どんな意味を持つのか、その時は何もわかりませんでした。ともかく、ただ、何も恐れる事なく、生きていく事、これが、私にとってとても大切な事です。なぜなら恐怖は人を自由にしないからです。だからと言って、別にこんな体験をする必要も別にないのですが、これも乗りかかった舟と言う事で、若気のいたり(若くもないですが)と、許して下さい。
 
 この体験は、人々を非常に驚かせ、そんな事、インド人でもしないよと、皆に言われてしまいました。けれど、私はいい体験であったと言えると思うのです。私は浄められたかったし、単なる迷信と思われている事でさえ、あまりにも合理的になった人々の考え方の中にあって、時々、私は古代からの言い伝えのような、神話のような、忘れ去られていく原始的な儀式や祈りが、妙に懐かしく、心ひかれる瞬間があるのです。
 私は日常、特定の信条や儀式に縛られる事なく、自由に生きています。近代科学の発明による物質の恩恵を受けて日本で生活しています。ここインドに来たのも、飛行機でです。そして古代から伝わる火の儀式をこれから習おうとしています。別に何の目的もなく。
 近代社会に生きている人達は、目に見える事柄、成功、富などに心が奪わています。人間として成長する事は、この世で認められる事、お金持ちになる事、偉くなる事などです。それが幸福であると。けれど、そういう人達で自由な人を見た事がありません。皆、何かに縛られ、皆、何かに執着し、皆、何かを恐れています。何かを失うのではないかと。失いたくないとしがみついています。
 平和に自由になること。心を純粋にすること。日本の利益追求の社会の中では、実現不可能なことがここでは、日常で追求する事が出来る気がするのは不思議です。
 私も日本に帰れば、またいくつかのシステムの中で守らねばならないルールがあります。けれど、大切な事は何か、人類の為に必要な事は何か、普遍的な真理とは何なのかというような事を忘れずに生活したいと思うのです。
 
 ここ、インドで祈ったり、ヨーガをしたり、古代の教典を読んだり、瞑想したり、言ってみれば自らを純粋にしていく方法を学んだ事を日本でも日常に生かしていきたいのです。
「本当に大切なことは何か?あなたは本当は誰か?」日本では置き去りにされている問いをずっーと問い続けていきたいのです。だから、ここでの経験の一つ一つは私の中で十分貴重であると言えます。でもスワミは私に言いました。「日本人はこういう事は理解できないだろうから、このカウダンバスのことは黙っていた方がいいよ」と。

 

71 インド人もびっくり
 
 カウダンバスを終え、私は火の儀式の練習に入る事になりました。カウダンバスの日は、髪の毛を洗ってはいけないと言われたため、その日学校に行くとクラスメートから
「アキコ、髪の毛に何かついているよ」と言われてどっきり。それは草なのですが、牛は草しか食べない為に、その草の残存が髪の毛の中に残っていた訳です。私がカウダンバスをしたと言う噂は、あっと言う間に広まっていて、それはインド人もびっくりといった感じでした。
 スワミはすぐに火の儀式を実際に皆の前で、プージャ(お祈りの儀式)のときに実践させることにしたのです。それは緊張もので、なぜなら、なぜ、私がそこに座っているのか、プ−ジャに来たインド人は思うだろうし、クラスメートも来るのです。
 
 一番の難関は、火をおこし、運ぶ所でした。実際マントラや祈りの言葉に従って、事をすべて運ばせる訳で、だいたいにおいて、マイペース過ぎる私にできる訳がないのです。その儀式が始まった時、参加している人達の方が、緊張して心配しているのがわかりました。きちんと火がおこせるのか、固唾を飲んで見守っているという雰囲気の中、静かに儀式は始まりました。私は結構嬉しく、そこに座って、ゆっくりはじめましたが、何度も火を運ぶところで火が消えてしまい、その度に、皆が『あぁーー』と心の中で落胆のため息をついているのが感じられました。
 すぐにスワミがフォローしてくれ、他の人も火がついてからもそれを消えないように、手助けしてくれました。
 私はとくにクライマックスのお花を飾るシ−ンが好きでした。私は皆の緊張と不安と心配をよそに、炎に見とれていました。まるで炎は生き物のように動きと色を変え、思いもよらない色と動きを見せ、私はその度に心の中で『おおーー』と叫んでいたのです。けれど実は私はそんな立場ではなく、儀式を滞りなく、取り仕切り、遂行する重要な立場にあったのです。ところが、元来のお気楽気質と言うか芸術家気質と言うか、事の重要さをあまり深刻に捉えない為、そのときにおこっていたことに対して、ただ感動していただけで、客観的観察に欠けていたと言う訳で、後でそれを見ていた日本人のみなこさんに、忠告されるまで、何も気がついてはいないのでした。
 
 一連の儀式が終わり、失敗だらけではあったけれど、感動し、落ち着いて出来たと思っていると、その日遠くから来られたインド人に、すばらしいプ−ジャだったと誉められるし、私も嬉しかったのです。スワミも何も注意しませんでした。
 けれど、部屋に戻って、みなこさんと話していたら、彼女は笑い転げ、私のプージャがいかに傑作だったかを話すのを聞いて、『あれまぁ』状態でした。つまり彼女の話によると、スワミが「こうだよ」と助け舟を出しているのに対して、私はうなずいているのにも関わらず、何も改善されていなくて、そのなんども続く同じ光景がすごくおかしかったというのです。『なるほど』そう言われてみれば、同じ事を何度もくり返していたような気がする、と思っても後の祭りです。
 クラスメートの間でも、私が火の儀式をしたことに対する羨望というか嫉妬というか、『インド人もびっくり』の驚きなのか、何かの感情が渦巻いたらしく、すぐに何人かの生徒がスワミに自分も火の儀式を教えて欲しいと申し出があり、スワミも困ったと言う事でした。
 私はと言うと次の日も白い服を着て、皆の前で火の儀式を執り行っていたのでした。
 

72 冬のインド
 
 冬のインドは過ごしやすく、移動も楽なので、ここロナワラにもたくさんの外国人旅行者がやって来ます。日本人も何人かヨーガを学ぶ為、短期滞在していました。みなこさんはヨーガの先生で、私の部屋でよく話をしました。インドは初めての為、つねに体調を崩していて、ふらふらしていました。人はみかけによらないもので、とても明るく社交的な性格に見受けられる彼女も、実は子供の頃の親から受けたトラウマ(心理的外傷)により、いつもどこかに不安や不安定さがあると言っていました。
 
 神戸から来た三浦さんと言う女性は、実は10年前に、北インド・リシュケーシュのアシュラム(道場)にいた時に、同時期滞在していた人で、時を経て再開してしまい、驚いてしまいました。けれどここインドでは、日本で会えない人と出会ったり、再開する事はよくある事なのです。
 彼女はロナワラから南インドに行く為に出発し、お別れを言いましたが、なぜかその日の夕方にはまたここに戻っていました。なんとプーネの飛行場に行くつもりが、タクシーの運転手さんは、どこをどう間違ったのか、まるきり反対方向にあるムンバイの飛行場に彼女達を運んだのでした。もちろん予約していた飛行機には乗れず、予約済みのホテル、ガイドもすべてパー、彼女は全ての予定が狂いカンカンに怒っていました。インドでは考えられないことがしばしば起こります。油断は禁物であります。
 
 若い女性、けいこさんはインド人男性と結婚する予定でインドに来て、彼の嘘に混乱していると言っていました。彼はボンベイの高級住宅地に住んでいて、お金持ちだと言っていたけれど、行ってみると、一部屋に家族全部が住んでいて、ろくに泊まれる部屋もなくてびっくりしたと。彼が言うにはムンバイは世界一住宅が高い所で、これでも金持ちなのだと言ったと言うのです。確かにムンバイはオフィスを借りる値段は世界一高いとインド人から聞いた事がありますが。彼女は私に「インド人って嘘つきなのですか?」と聞きました。私は言葉につまりました。
 
 北海道から来た、私と同じ名前のアキコさんは、若く可愛い人でした。南インドからサイババのアシュラムを経てここに来たと言いました。そして彼女の隣に滞在しているインド人青年の様子がおかしいと私に訴えました。私もその青年とはキッチンで何度か話していましたが、いかにもインテリ、そして物静かな人でした。けれどここはヨーガ病院で、ヨーガを学びに来ている外国人を除いては、インド人は何らかの病気の治療に来ていることを私達は忘れがちでした。
 彼は優しくアキコさんの世話を焼いていたのですが、それがだんだんエスカレートし、変なことを言い出していると言うのです。気を付けていると、ある日、彼はキッチンで私に
「彼女は何かをとても怖がっている。彼女は世界を怖がっている」
と言い捨てるように言い、その言い方が異常だったため、心配していると、その夜、彼は部屋で異常興奮し、泣け叫びその声が病院中に響き渡りました。翌日、瞑想者で心理学者のボガール先生が彼と話し、その時は彼も落ち着いていて、プーネから迎えにきた父親と帰って行きました。何かを怖がっているのは彼自身のようで、彼は精神分裂病と診断されていました。
 アキコさんはその混乱からも解放され、私の部屋にお茶を飲みに来たとき言いました。
「私はここインドで自分の運命を知ってしまいました」と。

 

73 アガスティアの葉
 
 アキコさんの話によると、彼女の今回の旅の目的は、アガスティアの葉(予言書)により、自分の運命、人生を知る事にあったと言いました。私もその葉の事は、本で読んで知っていましたし、その葉を読んだと言う人にも一人あった事があり、またその葉を読んで仕事を止めた人の話も身近に聞いていました。
 その一人はインド人で、マリーンさんというその人は日本に住んでいましたが、マドラスの出身で、そのアガスティアの葉がある場所が比較的近い為、親戚の人と見に行き、その人は若くして死ぬことが、その葉に書かれていてショックを受け、見た事をとても後悔したと。そして事実彼女は交通事故で若くして亡くなったと。
 
 もう一人の人は日本人で彼は、精神世界の関係の本を出版していて、その葉の取材でインドに来て、自分の葉を見つけ、自分の運命、人生を知り、帰国してすぐに会社をやめてしまいました。それが彼の運命だったのか、それとも葉に書いてある運命に従ったのか、それは誰にもわかりません。
 なんとも不思議な葉で、その葉の存在を信じるのであれば、この人生はもうすでにシナリオは決まっていて、その見えないシナリオに沿って生きていると言う事になります。つまり自分でその時その時、決断しているように見えた事も、もうすでにそう決められていると。
 
 アキコさんは落ち着いて、興奮する事もなく、その事を話しはじめました。私の方が、ワクワクしていたかも知れません。
「で、見てどういう感じだった?」
と聞くと
「あぁーー。知ってしまった、という感じ」
『ふーーん、そんなものかぁ』
「それって、本当だと思えた? つまり、その葉のこと。それが自分の人生で、これからの運命だと。どういう事になっているの?」
「思えましたね。と言うのは、自分の両親の名前も合っていたし、私の母親の名前は珍しい名前だから。その名前も葉に記されていたし、それから私しか知らない事も書いてあったんです。たとえば、私、高校生のとき、子供を降ろしているんです。その事まで書いてあって」
 私は結構、驚いていました。彼女が作り話をしているとも思えませんでした。そんなことをする必要など何もなかったからです。ただここでたまたま会ったこの私に。でも、彼女の過去の事をさらっと話してくれるそのことにも少し驚いていました。
「で、どんなことが記されているの?」
と私も興味津々。
「全てです。聞きたい事を選べるのだけど、私は全部聞きたかったので、聞ける事全部聞きました」
「どういうこと?たとえば」
「結婚、仕事、親の死ぬ時期、子供は何人か。子供の職業まで分かちゃいました」
「へえーー。知ってよかった?」
「まあ、そうですね。一番知りたかったのは親の事なんです。実は父親がガンになって、手術は成功したんですけれど、私は海外で仕事をしたいと思っていたので、親が病気だったり、早く死ぬ事があったら、日本にいてあげたほうがいいと思ったし、けれど、一応普通に長生きするようなので、安心しました」
「親が何歳で死ぬかも書いてある訳ね。と言う事は自分の死ぬ歳も?」
「はい、私も普通に長生きと言えるんでしょうね」
「納得できる人生が書かれていた?」
私は次々に質問してしまいました。

 

74 運命はすでに決められているのか
 
 予言書を見て来た人を目の前にして、それは真実味を帯びて来て、私も一瞬その葉を見てみたい衝動にかられました。
 彼女は自分の運命を知り、結婚相手は何月にあらわれ、それは首に大きなほくろがあるからすぐにわかると言われたそうです。職業も納得できるもので、かなり努力が必要なものだから、がんばるつもりだと、肯定的にすべてを捉えていました。
 しかし不思議なことです。私はそのことについて、南インド出身のクラスでスワミ(精神的指導者)と呼ばれているスバーシュに質問してみました。彼は信頼できる人物でそのあたりのことについては、詳しいし、彼の実家のそばでもあるからです。予想通り、彼はそのことについて、よく知っていました。その話の内容はアキコさんから聞いたものと一致していました。つまりこうです。
 アガスティアという名の聖者が古代に存在し、その人は予言者だったため、そこに運命を読み取りに来る人の分の運命をすべて葉に書き記したというのです。そしてその葉をどうやって見分けるかと言うと、人間の指紋は皆違っていて、けれどいくつかの傾向に別れる。それで該当する指紋のグループに属する葉の束を一つずつ調べていく。その候補の葉の中から質問をしていき該当するのを見つけだす。けれど日本人の場合は名前も珍しいから比較的見つけやすいはずだとスバーシュは言いました。
 
 そこにはすべてが書かれていたと、アキコさんも言っていました。生年月日から親の名前、兄弟の運命まで。もちろん、知りたい事だけ聞く事も出来ると。そして悪い運命を回避する為、プージャ(祈りの儀式)をする必要があるとも言われたと言います。書いてある運命はプージャによって変える事が可能と言う事なのか。私は常々、この人生は決められている運命か、それとも自分が作り上げていく自由意志の世界なのか、不思議に思う事がありました。けれども結論からすると考えても分からない、と言うものでした。けれど、ときに後ろを振り返る時、道はつながっていて、何か決まっていたかのように、常に道先き案内人が現れ、道を示してくれたようにも思えるのです。もう最初から来るべき道は決まっていて、それは仕組まれていたかのようだと。けれども何も証明できないし確信がある訳でもなく、単なる思い込みなのかもしれないと思う事もあります。
 でもどちらかと言うと私は運命論者に近いと言えるでしょう。でもだからと言って、人生を諦めたりはしません。自分で人生を力強く切り開いて行く姿勢をとってはいます。でもどこかで安心しているのです。のんびりしているのです。運命は決まっているのだからと。それは自然に切り開けていくと。
 
 私はボガール先生にも聞いてみました。あなたは運命についてどう考えているかと。アガスティアの葉についてどう考えるかと。あなたは自分の運命を知りたいかと。するとボガール先生は言いました。「見る必要はない。運命のおおまかな枠組みは確かに決まっている。アガスティアの葉もインチキではないと思う。けれど、運命は変えられる。自分の意志で。自分自身も変えられる。瞑想によって。あなたも葉を見る必要はない。あなたに必要なのは瞑想だ」
と。その頃クティには、インド全土を巡礼しているヨーガ行者が滞在していて、その人はこの大学の元教授で、ハタヨーガをマスターし、たくさんの本を書き記し、私が質問すると、即座に適格な答えをくれるすばらしい人でした。そして私が質問するといつも笑い転げていました。

 

75 私の運命
 
 その時の私の運命は、ヨーガ大学でヨーガの理論と実践を学び、クティで精神的な教えを学ぶ事でした。クティに滞在していたヨーガ行者は、その一生をヨーガに捧げて来た人で、持ち物もとても少なく、年令を感じさせる事なく、さっそうとしていました。体がまっすぐで、何か質問すると喜んで答えてくれる愛に満ちていました。その人は、巡礼の長い旅を続け、今も巡礼の途中だと言っていました。インドの興味深いところは、今なおそういう精神世界に生き、修行している人がいる事です。日本ではもうそんなことは相手にもされず、マイナスのイメージしかありませんが、私にとっては、この世の利益追従の世界から離れたところで、自分の所有物も持たず、ただ真実を追求している人達がいること、哲学の世界に身を置いている人達が存在している事が、大きな喜びであり、憧れでした。日本でそんな世界に生きる事はほとんど不可能です。それに変な誤解が渦巻いているために、もう日本人は哲学を持たないし、精神性を高める事にも興味を失ってしまったようです。
 ただ働いてお金を稼ぎ、食べて、寝て、遊んでということでしょうか。それは目に見える安全な真っ当な生き方なのかも知れません。それが日本人のスタンダードです。
 
 そのヨーガ行者は私が質問すると、いつも笑って「それはいい質問だ」と言ってから答えをくれました。「純粋で真剣な質問をしてくれて、私はあなたに深く感謝する」とも言ってくれます。私の質問は、結構トンチンカンなのかも知れないのに、「そうだね。君が理解できるように努めて答えてみよう」ととても質問しやすく対処して下さっていました。私も感謝し、そして多くのことを学ぼうと、いつも質問を用意していました。
 
 クティである日、運命について話していました。そしてそれを巡って大笑いになりました。私はふざけて言いました。
「今日、本当は試験勉強のために遅くまで勉強しなければならないのに、しないで寝てしまうのは、それは私の決まっている運命によるものなのです。という言い訳も簡単に出来ますよね。もし運命がすべてフィックス(定まっている)なのであれば」
すると皆は呆れて笑い、ヨーガ行者は言いました。「そんな風には決まっていないから、安心して勉強しなさい。大きな枠組みは決まっていても、あなたはより良くなるために、運命を変える事ができる」
 結局、運命を巡っては結論は出せませんでした。それで良いとも思えました。その方が先が楽しみです。何が起こるか分からない方が。 
 
 そんなとき、日本からファクスが届き、私の代わりの先生であるインド人サンジェさんが、遅刻ばかりで生徒さんが、カンカンになって怒っていると、日産スポーツプラザでも、とても困り果てていると書いてありました。
「それも運命よ」
などと軽く言ってのけるのは、ちと問題な気がしましたが、インドからどうする事も出来ず、では代わりの日本人のヨーガの先生を頼んで見ますと連絡しました。
 おおいに問題ありのサンジェさんだったようですが、彼がいなければ私の運命はインドにつながらなかった訳で、それを思うと、彼に感謝しなければならない私でした。ともかく、今回私はどうしてもここに来る運命だったのですから。その頃、私を留学に導いてくれたもう一人の日本人ヒロシさんからはがきが届き、一度プーネに遊びにいらっしゃいと誘われました。彼もインドに居る事を運命づけられた人と言っていいかもしれません。

 

76 インドでの暮らし
 
 私は外出許可をもらって、プーネに出かける事にしました。ヒロシさんとヒデコさん御夫婦の招待を受けたからです。チャンさんもその日、プーネに買い物に行くと言うので、タクシーで行く事にし、ククさんに車を頼みました。すると、クラスメートのジョージと同じ南インド出身でキリスト教徒でもあるインド人男性もプーネに行くと言うので、同乗することとなり、それに加えて、バビタマダム(大学の先生)もプーネに行くから、ついでにと結局五人とドライバーでプーネに向かう事になりました。その日なぜか、チャンさんもバビタマダムも機嫌が悪く、ほとんど無言でした。
 
 けれど、前の席に座っている気の良い南インド出身の二人のインド人男性は、そんなことにも気がつかず、陽気に優しく後部座席の私達に話し掛けるのですが、女性二人は、ほとんど知らん振り、その2人に挟まれた私は、どうしたものかと考えあぐねていました。
 チャンさんは、いつもはいたって陽気なのですが、突然沈んでいることもあります。バビタマダムはかなり気分にむらがあるようでした。前の二人は影が全くない人達で、そのさわやかさは、眩しい程でした。二人とも熱心なクリスチャンで、毎週欠かさず、教会に行き、毎日聖書を読む善良な人達でした。
 プーネにつくとまず駅の近くで、バビタマダムが降り、ニコリともしないで行ってしまいました。それからインド人二人が降り、笑顔で握手までして、さよならを言いました。
 チャンさんはやっと元気が出て来たようで、何しろ彼女は買い物と美味しいものが食べられることが、喜びなのですから。元気にプーネの繁華街に消えて行きました。私はヒロシさん宅へ向かいました。
 
 ヒロシさん達は「思っていた通りの時間に到着しましたね。いいタイミングです」と私を迎えてくれました。それから一緒にヒロシさんの先生の家に行き、そこで食事をごちそうになり、インド哲学の話をしました。
 彼はプーネ大学の大学院博士課程で、インド哲学を学んでいますが、今、進路を決めかねていると言いましたそれから長い道のりを歩いて帰り、夕食は質素に済ませました。
 彼等のアパートは一間で、私はバルコニーにテントをはってそこで眠る事になりました。インドに来る前にアメリカで長いキャンプ生活をしてきたので、その時のことなど思い出し、どんな状況にも対処できる自分になっていることを見い出すことは喜びでした。私は過酷な状況にも耐えられるような気がしていました。
 
 テントでしかもランプのインドの一夜は、すばらしい体験でした。私はそういうことが好きなのです。ヒロシさん達とも色々な話が出来て有意義な夜でした。彼は参考になる資料なども貸してくれました。翌日は皆で瞑想しヨーガをして、ヒデコさんとインド人のお宅に遊びに行き、お昼をごちそうになりました。私がヒンディー語で話すと、その家の女の人達は英語があまり出来ない為、とても嬉しそうでした。そこの息子さんは日本語を習ったため、日本語が話せました。私はヒロシさんから勧められたアーユルヴェーディク(インド伝承医学)の薬やクリームなどを買う為、その息子さんのバイクの後ろに乗り、プーネの街に買い物に行きました。
 インドにいるとよく、先生や知り合いの男の人達は、バイクや自転車の後ろに乗せてくれます。それは男性が女性に対してするべきエチケットなのだそうです。最初慣れない私は、違和感がありましたが、だんだんインドの習慣にも慣れて来ていました。
 

77 プレイボーイの波紋
 
 その頃、ヨーガ病院にも何人かの外国人が滞在し、色々な噂が飛び交っていました。私は睡眠時間も少なく、大学とクティでの生活で忙しい毎日を送っていましたし、迫り来る最終試験に向けての勉強も始まっていました。
 みなこさんはアイルランドから来たブルーノと親しくなり、しばらくは私の部屋にも来ませんでした。ところが、久しぶりに現れた彼女は、私に愚痴を漏らしました。
「ブルーノの知り合いの女性が、アイルランドから来て、そのとたん彼は私と口もきかなくなったの。どうやら昔の彼女かなんからしい」
 それからしばらくすると彼女の言う事は変わっていて
「今、ミタが猛烈にブルーノにアタックしていて、ブルーノもミタにタジタジって感じ」
 そう言われると最近クラスメートのミタがやけにヨーガ病院をうろついていて、夜ともなれば、彼女は白いフリフリのネグリジェのまま、バルコニーでブルーノと話しているのをよく見かけていました。
 
 インド人の習慣は変わっていて、足を出す事はしないのですが、パジャマ、ネグリジェ姿で出歩くのは平気で、寝巻き姿で散歩している人を、よく学校構内の庭で見かけました。彼等は食後、散歩する習慣があるのです。夜になればぞろぞろみんな散歩しています。暗闇の中をぞろぞろ人々が歩いているのを見ると、私は不思議な気がしました。
 それにもまして驚いたのは、ネグリジェ姿で、やって来て、他の人と話していることです。他の国では誤解を生むのではないでしょうか。私ですら、ミタの白いフリルのネグリジェ姿を見て、その隣に男性が座っているのを見た時はドキッとしました。
 私がスパッツをはいていたり、胸の前をドパタというショールでおおってないと注意する国民が、なぜ寝巻きでうろうろしているのか、理解に苦しみます。
 ある夕方、私がクティに向かって歩いていると、ミタが突然私の手をとり、一緒にしばらく歩いていい?と尋ねました。彼女はひと一番気が強く、しかも強度のロマンチストで有名でした。彼女は私と手をつなぎながら「私はブルーノが好きなの」と告白しました。そのロマンティクな思いを胸の内にとどめてはいられないという感じでした。私は
『ブルーノのどこがいいの?あんなプレイボーイ』
と言いそうになりましたが、ミタがひと一番気の強いことを思い出し、コメントは避けました。
 クティに行くと、ジョセフがカンカンになって言いました。
「病院にプレイボーイが滞在しているだろう」
と。私はまたブルーノの話かとうんざりしましたが、違う人物のことでした。その人はスペインから来た医者で、優しそうな人でしたが、今日ジョゼフと話しているとき、テ−ブルの下では、スイスから来た若い美人に足でちょっかいを出していたと、彼等は今恋に落ちていて、けれど彼には癌で苦しんでいる奥さんがいる、ジョゼフは同じスペイン人で、彼女のことも知っているし、ジョゼフは看護士なのです。私はため息をつきました。
 
 そしてその後、そのスペイン人は、彼女とゴアにバカンスに行き、その彼女が国に帰り、再びヨーガ病院に現れた時には、違うスペイン女性(彼女はスペインでの恋人)と一緒だったため、ジョゼフの怒りは頂点に達し、私も彼をなだめるすべがなく、人々の関係性は複雑に入り組んでいると思うのでした。けれども当の本人達は意外にケロッとしているのかもしれません。
 

78 5メートルの長い布
 
 私はダンダ・ダウティの練習を一人重ねていました。これはクリヤ(浄化法)の一種で、試験の時には10分以内に布を飲み込み、腹部を動かして布で胃の内部を浄化し、布を口から取り出すというやり方でした。一日10センチぐらい飲み込み、それを毎日増やしていき、最後は10cmだけ口からたらした状態までもっていきます。飲み込むと言うか食べるように食堂から胃まで入れていくのです。最初はなかなか飲み込めず、途中で無意識に吐き出してしまうのですが、その吐き出そうとする感覚をコントロールしていくのです。一週間で、やっとマスターできました。
 ヨーガ行者になることを決めているヨギータは地元の大学でそれを習ったとき、先生がまだ初めて説明している最中に自分で布を飲み込んでいき、先生が気付いたときには、口から5センチ布が垂れ下がっている状態で、先生は驚き、彼女を叱ったのだと言いました。けれど練習もなしにマスターしてしまう、その才能はさすがにその名の通り、ヨギータ、ヨーガ行者になるべく生まれて来た人に相応しいエピソードで、私をうならせるのに十分でした。
 
 学校の授業はどんどん進み、ヨーガ教授法も何回か発表をくり返し、皆真剣に取り組んでいました。ほんの一部の生徒を除いては。私はバンダの発表のとき、チャンさんに協力してもらい、画期的な発表をして、皆の拍手を得る事が出来ました。それというのもウデヤーナ・バンダという行法で、腹部を凹ませて内臓を刺激するのですが、腹部の内臓を説明する必要があり、図にしてその内臓の形と位置、名称を記しましたが、実際にチャンさんのお腹を使って、そこに内臓をポスターカラーで書いておき、お腹を見せてバンダをしたとき、内臓の形と位置が分かるようにしたのです。チャンさんもノリノリで協力してくれました。皆、美人のお腹に見とれ、発表は大成功でした。
 
 それから、教育実習の時期が来て、私達はそれぞれ指定の学校に送り込まれました。私はインドの小学校にヨーガを教えに派遣されました。私のクラスは女の子のクラスで、だいたいヨーガは男女別れてする所が多く、シルビアのクラスは男の子達でした。生徒は皆お下げ髪と赤い毛糸のベストを着て、お行儀もよく、とても愛らしい少女達でした。私がヨーガの説明をしている模造紙を持っているように頼んだりすると、彼女達は本当に嬉しそうに前に出て来て、その模造紙を持ってくれます。
 質問して指したりすると、はにかみながらも嬉しそうに答えるし、全員に向かって質問すると皆声を揃えて、きちんと答えてくれます。
「なんてかわいらしい子供達なの」
と言うのが、私の印象でした。彼女達は生意気ではなく、とてもお行儀がいいのです。インドでは先生を尊敬する慣習が力強く生きていて、異国の先生である私でさえ彼等はとてもやさしく受け入れてくれたのでした。私はとても感動していました。
 
 彼女達にさよならを言う頃には、彼女達も慣れて、私の近くに駆け寄って来て
「今度はいつ来るのか。明日も来るでしょう」
と英語で聞くのでした。そこの学校は英語で授業をしている学校で、インドでもレベルの高い小学校です。試験官のデシパンデ先生も満足げで、とてもよい教育実習だったと言ってくれました。
 一方シルビアは、試験官が嫌いなバビタマダムだったため、またしてもうまくいかなかったとブツブツ言っていました。運の良いチャンさんは、まったく違う事を教えたけれど、ウケテいたから、と満足げでした。未だかつてチャンさんの口から失敗したというのを聞いた事がありませんでした。

 

79 ムンバイ研修
 
 ムンバイにあるカイヴァリヤダームの支部のセンターでヨーガ学会があるため、ヨーガ大学の生徒達も招待され、研究発表を聞く事になりました。研修所に1泊し、翌日ムンバイ市内観光をして帰ることになりました。まず早朝、ロナワラを出て、汽車でムンバイに向かいます。その日は、まず支部に荷物を置く為に向かいます。皆バスで行くのですが、チャンさんは、さっさとタクシーに乗り込んで行ってしまい、皆も唖然。それから、支部の近くを見て回り、その夜はムンバイのミタの家で、生徒全員が食事に招待され、ミタの家の屋上で、パーティーが行なわれました。料理人を雇ったようで、さすがにムンバイのブラフマン(最上級カースト)、お金持ちは違うと驚きました。彼女のおじさんが生徒ひとりひとりに、ビデオカメラの前で自己紹介させ、それを収録していました。
 
 ミタの家は、お父さんはエンジニアで、ほとんどの親戚が学者や先生で、代々恵まれた家庭と言えるでしょう。インドではお客さまは神様の使い、吉祥の印と丁重に扱われ喜ばれます。その夜、ミタの一家は上機嫌で、4人家族がディスコダンスをはじめた時は、さすがの私も、家族揃ってノリがいいのと、その家族愛にびっくり。家族全員がロマンチストなのだと納得の一夜でした。
 料理も菜食ながら豪華でした。でも他の二人のブラフマンであるヨギータとスバーシュはあの料理は、たまねぎも使っていて、精神的にはいいとは言えないと言っていました。
 パーティーはかなり盛り上がり、生徒達も踊りはじめました。先生が支部に戻ると言ったときには、夜も結構ふけていました。
 
 鉄道の駅まで歩いて、電車に乗ったとき、チャンさんだけが、乗っていないことが分かり、大騒ぎとなり、私達は急きょ、次の駅で降りて、次の電車を待つ事になりました。その間も色々な憶測が飛び交い、彼女はタクシーで帰ったのだとか、ムンバイの違う所に泊まりに行ったはずだ、というような。私は別に心配していませんでした。今までもチャンさんは、ムンバイにひとりで来ているし、ムンバイからひとりで真夜中にロナワラに帰って来た事もありました。けれどインド人にしたら、女性がひとり夜、出歩くなんて考えられない事でした。
 
 一部の生徒は「またかよ」という気持ちで、ホームに座り込んでいました。しばらくすると次の電車が来て、それを見ていた一人の男子生徒が、突然「チャンがいた」と叫んで走り出し、チャンさんをつかまえて、戻って来ました。先生も安心し、私達は次の電車に乗る事になりましたが、またしても突然、その走り出して行った男子生徒が、今度はうずくまり、動けなくなってしまったのです。急に全速力で走った為なのか、足をくじいたらしく、うめき声を発し、とても痛そうです。ところが、チャンさんは、それが彼女のせいだと、気付かない様子で、別に彼に手を差し伸べるのでもなく、疲れた様子で立っているだけでした。
 駅から支部まで歩いていくのは、その男子生徒にとってはとても苦痛で、他の男の子達に抱きかかえられるようにして、戻りました。
 チャンさんは、なんと化粧を落とさないでその日は寝ました。女の子達は彼女の素顔を見るチャンスと思っていた様でしたが、あてがはずれたという感じでした。翌日の朝、前日の化粧をしたまま起きて来た彼女を見て、そこまで素顔を見せないのは、なぜなのだろうと、私はその訳を知りたい衝動にかられました。彼女は天真爛漫のようでいて、どこか閉ざしたところがあるのかも知れません。
 

80 スバ−シュとヨギータ
 
 ヨーガ学会が始まるのは、その日の午後でしたので、生徒達はエレファンタ島の遺跡を見に行きました。私は去年すでにそこには行っていたし、いまさら修学旅行という気分でもないので、研修所でヨーガと瞑想をし、研修所の周辺を散歩することにしました。そこは海岸の近くで、景色もよく静かに時を過ごせそうでした。なにしろ生徒達はどこかに出かけるとなるととても興奮するらしく、とても騒がしいのです。
 私がエレファンタ島に行かないと知るとヨギータも私と一緒に残ると言い、そして一番落ち着いているスバーシュも出かけないと言いました。私達は皆を送りだし静かになったところで、ヨーガを実践し散歩しながら話しました。スバ−シュもプージャ(祈りの儀式)を終えて散歩に出たところで一緒になりました。
 
 スバ−シュとヨギータは二人ともサニヤシン(放棄者・ヨーガ行者)になることを決めている為、他の年頃の生徒達と距離を置こうとしているようでした。私とヨギータは海岸を散歩し、青いココナッツの実そのものをジュースとして売っている物を買い、飲みながら色々な話をしました。海岸のレストランで簡単な食事をし、ヨギータは、他の男子生徒とは話さないけれど、さっきアキコがスバーシュと話しているのを聞いて、彼はとても聡明だと思うし、サニヤシンになることを決めているし、私のグル(先生)にも会いたがっているから、話してもいいかなぁと思う、と言いました。
 
 学会が始まり、真面目にすべてをノートして聞いていたのは、スバーシュとヨギータぐらいだったかも知れません。他の生徒達はお祭り気分でした。学会では、インド各地から、大学教授や医者や心理カウンセラー、セラピストなどが、ヨーガについて発表を行ない、興味深いものでは、ヨーガを情緒不安定な子供や勉強に集中できない子供、心理的ダメージを受けている子供などに実験的に行なうと集中力ややる気、根気、忍耐力、基礎体力などを養うのに、大きな効果があったと述べた医者で心理学者のインド人女性の発表がありました。彼女は南インドの出身で、流暢な英語を話し、明るいサリーを身にまとい、髪にはパーマをあてていて、現代社会の洗練された知的女性という感じで、すべての人々の羨望を集めていました。インドでも裕福な家の高い教育を受けた女性は、かなり良いポストで活躍しています。
 
 それから、マントラ(真言)を唱えて瞑想していくに伴う、生理的変化について研究発表した、ヨーガセンターの研究員は、データと皆を巻き込んだ実践、デモンストレ−ションにより、より効果的な理解を深めていました。
 ヨーガの歴史的意義や医療現場で役立っているヨーガによる治療法、他の医学やマッサージや薬草などとの併用による相乗効果についてなど、科学的なデータや資料に基づいて、ヨーガの現代的意義、役割を認識できたのではないかと思います。
 
 何人かの生徒を除いては、ムンバイ観光に出かけ、私達はバスで一足先に学校に戻りました。私はシャワーを浴びて休もうとしていると、ドアがノックされ、開けてみるとニーラジが立っていました。彼はこの病院でヨーガを教えている人です。
「アキコ、申し訳ないけれど、ニヴェディタが学生寮に戻ったのだけれど、生徒がまだ誰も帰っていないので、一人で寝られないと恐怖心で震えている。今晩、ここに泊めてもらえないだろうか」
「皆、今日中には戻るでしょう」
「戻るまで耐えられないと思うから」
私はびっくりしましたが、毛布を持ってやって来た彼女を見ると断る理由もなく・・・部屋に招き入れました。
 

81 人間の自立
 
 私の中には男性、女性の区別というものはほどんどなく、人々を人間として捉える傾向があります。だから女性だから、とか男性だから、という考え方をほとんどの場合していません。ただ皆が自由で幸福で平等であることが重要だと考えます。その為には自分のために誰かを利用してはいけないし、搾取してもいけない、理想的にはそれぞれが自立した状態で共存していく、ということが必要だと思うのです。その為には選択の自由が誰にでも平等に開かれている事が条件になります。
 
 ヨーガ大学の心理学の教授であるボガール先生と話していた時、彼は言いました。
「問題なのは人は一人でいられないから、結婚する事にある。一人前でない人間、自立していない者同志が依存するために結婚するから、それはうまくいくはずがない。自立した者同志が一緒になることで、はじめて対等なパートナーシップが成立する」
 インドでは昔の教典に
「女性は結婚するまでは親に従い、結婚したら夫に従い、老いたら子に従う」
という有名な言葉があります。現代インドでもこの状況が続いていると言っていいと思います。しかしいったい誰が親が完全に正しいと言えるでしょうか。夫の考え方に絶対誤りがないと言い切れるでしょうか。子供が間違った道を示さないと確信できるでしょうか。
 人はあらゆるものに、意識的に、無意識に依存して生きています。人に、組織に、たばこに、お酒に、ひとかけらのチョコレートに、一杯のコーヒーに、情報に、テレビに、というように知らない間に、それらに依存症になっているのです。
 
 日本ではテレビを見るのは当たり前です。ほとんどの人が新聞に目を通し、情報を得ています。電話は今や持ち歩いてまで話す時代です。けれど私はインドに来てから一度もテレビを見ていないし、新聞も読んでいません。電話も必要がなく・・・という状況です。
 今、私の部屋の隣のベッドに寝ている、インド人二十代後半の女性は、一人の部屋で眠れないと言い、私に泊めて欲しいと頼みました。彼女はきっと、学校を卒業すれば、すぐに結婚し、子供をもうけ、死ぬまで一人になることなく、暮らしていくのでしょう。それで安全、安心、寂しくなく生きていけるのです。それはそれで守られた人生なのです。それでいいのかも知れません。
 けれど、本当の意味での個人としての人生を思う時、自立していることの意味は重要性を持つと思います。本当の意味での自由、平等、幸福はどこから来るのでしょう。不安定な関係性からだけに、それを求めるのは危険性があります。
「自分を生きる」
ことの本来の意味を見い出す事。納得のいく人生。
 
 世界で人々は他の人々の犠牲になっています。自由で幸福な人々は意外に少ないのです。ヨーガにおける愛の定義は何ですか。人々の関係性をヨーガではどのように捉えるのですか、とヨーガ哲学のシャルマ先生に質問したとき、彼は言いました。
「それは自我が消滅したときである。あなたは私であり、私はあなただと思える時、実感できる時、そこに対立はなく、問題は消滅する。愛がある時そこにけっして苦しみはない。苦しみがある時、そこに愛はない。それは自己愛に過ぎない」
 インドで愛を示したマザーテレサが東インド・カルカッタでその生涯を閉じました。過酷な状況にいても彼女には、真実の愛があったから、おそらくそこに苦しみはなかったのでしょう。

 

82 インドはお祭りがいっぱい
 
 インドに滞在して気がつく事は、神様に関係したお祭りが多く、その時は学校も休みになったりします。ヒンドゥー教だけでも神様がたくさんいるので、その神様の誕生日やそれに関したお祭り、それに季節の到来を告げるお祭りや、他の宗教の神様や開祖の誕生日やら、独立記念日、インド建国の父・マハトマ.ガンディーの生誕を祝う日など、なんだかいつもどこかで誰かかお祝し、お祭りを催しているという印象を受けます。
 
 1月26日には共和国記念日があり、共和国憲法発布を記念し、大都市ではパレードが行なわれます。2月には、シヴァラートリー(シヴァ神の祭り)3月にはホーリー、春の到来を祝って、皆が色水や色粉を掛け合い、皆、凄まじい色に染まってしまいます。8月にはガネーシャ・チャトゥルティー、象の頭をもつ神様ガネーシャの誕生を祝うお祭りがあります。8月に独立記念日、イギリスからの独立(1947年)を祝います。10月はダシェラー、そしてガンディー・ジャヤンティー(ガンディーの誕生日)があり、インドの新年を祝うディーワーリー(光りの祭り)など、代表的なのをあげた以外にも、無数のお祭りがあります。お祭りの日ともなると、生徒達は朝から興奮気味で、着飾りお寺にプージャ(お祈りの儀式)に出かけます。私もそのつど誘われ、そのお祭りによっては、歌や踊りお芝居、大仕掛けの神様の像や飾り付けがなされていて、娯楽性が高いと言えるでしょう。日本からしてみれば、どれも子供だましのような精密さに欠けるはりぼてという感じではありますが、どれも手作りの素朴さと洗練されていない派手さがあります。
 
 私達外国人にとっては、そのお祭り、神様にまつわるストーリー(物語)を知らないので、どのお祭りを見ても同じようで、訳が分からないのですが、インド人の説明を聞くとそれぞれ物語、神話があり、ときにそれはインド人の哲学、宇宙観などを示していて、興味深くもあります。
 3月の春の到来を祝うホーリーの時は町中が大騒ぎでした。その日は誰彼構わず、色水や色粉を人々にかけていいと言う事になっていて、皆かなりエキサイティングしています。一歩外に出ようものなら、その人がどんなにいい服を着ていてもおかまいなし。「来襲」とばかりに、色攻めです。町中にはピンクに染まった人達が溢れ、異様な光景です。それは留まる所を知らず、叫び声と共に最後には皆、ピンクに染まりながら踊り出すという状態です。インド人はいたって無邪気な人達です。その日は大学の先生達も襲撃され(色の粉の)踊っていました。
 
 そうかと思うと一日中プージャ(お祈りの儀式)をしている日もあります。人々は朝からハワン(火の儀式)を途切れる事なく行ない、祈りの声は一日中つづきます。そうして幸福を願うのです。
 インドでは、まだまだ貧しい人達が多く、彼等は神に祈りを捧げ、来世はもっと良い状況に生まれかわれる事を真剣に祈ります。
 その頃、一人の日本人がヨーガ大学に現れ、またしても私は校長先生に呼ばれる事になります。その日本人男性は来年この大学に留学するため、許可をもらいに来たらしいのですが、なぜか様子がおかしいらしく、校長先生の英語も分からなくて困っているようでした。校長先生は私に言いました。
「彼に言いなさい。留学するには語学力が足りないから、大学に入るのは無理だけれど短期のコースなら受け入れられると」
 実は校長先生はチャンさんのことで懲りた為、みなこさんが入学したいと申し出た時も却下していたのです。けれど彼の口からでた言葉は意外でした。
「私は入学をためらっています」

 

83 カルチャー・ショック
 
 私は彼の言葉に『はあ?』と大きな声をあげてしまいました。何か話が見えていません。つまりこうです。彼は書類を揃えて、校長先生に入学許可をもらう為に日本から来ました。けれど校長先生は許可は出来ないと言いました。けれど短いコースなら来てもいいと。するとその人はここに来る事を迷っていると。私は通訳し
「彼はここに来る事を迷っているそうです」
と言うと、校長先生は『なにぃ?』と訳わからんという仕草をし
「ともかく彼は何か混乱しているようだから、あなたがよく話を聞いて、この学校のことも説明し、チャンのことなどもあるから、来るのだったら、規則は守り、語学の勉強はして来て欲しい、と伝えてくれ」
と校長先生は早口で言いました。校長先生はかなりせっかちな性格ですから、ババーーと言いたい事を言うと
「じゃ、ナマステ(さよなら)」
と退室を促すのです。
 私も訳が分からないまま、その人と校長室を後にして歩き始めました。その人は
「少し、いいですか?時間をとらせて申し訳ないんですが、実はまいっているんです」
「はぁ・・」
「私は精神病院で看護士をしています。その他に詩を書いて発表しています。治療の面で西洋医学の行き詰まりを感じてヨーガを学びはじめ、それでこれは本格的に勉強してみる価値があると思い、数年前から計画して、今回下見に来たのです。これは仕事も休むので私には大きな賭けなのですが。私には養わなくてはならない家族があり、子供3人はまだ小さいのです。だから病院からの派遣として給料はもらいながら、ここで研修できないかと思っている訳です。けれど参りました。私は大きなショックを受けたんです。昨日ムンバイについて、今日タクシーでここまで来たんですが、そのときスラム街を抜けたんです。もう声も出ませんでした。すごい光景でした」
 
 その人はうなだれていました。ムンバイからタクシーに乗るとスラム街を通り抜ける事になります。それは車の中から見ていても、衝撃的な光景で、例えば娼婦街などもあり、あきらかに成人に満たない、小さな少女が娼婦として道端や店の前に立っているのです。別に何かの表示が読める訳でもないのですが、外国人の私達でさえその町並みがかもし出す異様な雰囲気にそこは通常ではない裏の世界ということが感じ取れるのです。それは車の窓から無造作に突然飛び込んでくる異様な裏社会で、まるで映画のセットか何かのように、作り物であって欲しい、現実にはあってはならない悲惨な光景でした。そこの空気は嗅ぐ事が出来ないような、そんな強烈さで思わず息を止めてしまうという感じです。
 
 彼はインドは初めてで、着いたとたん目にした光景がそれですから、まいったのかもしれません。
「私は、精神病院という一般的には悲惨な場所にいて、若い頃から詩を書き続けてきて、でもそれがいかに甘ちょろいものだったか、足下からすくわれた感じです。私はここでは暮らせない。この守られた学校と言う場所に身を置いていてはいけないと思うんです。一週間のつもりで来ましたけれど、飛行機のチケットを変更してすぐに日本に帰ります。ここにはなぜかいられないんです」
 随分早急に答えを出してしまうのだなぁ、と思いました。これがカルチャ−・ショックというものでしょうか。インドは人によって、あるいはどこに焦点を当てるかによって、その人それぞれの反応は極端に違います。飛行場に降りた途端にその独特な臭いに耐えられず、ホテルから一歩も外に出ずに帰国してしまう人さえいます。

 

84 詩人は羊羹(ようかん)を残して
 
 デリケートなその人は、その夜も突然に彼を襲った色々な悩みを私に告白しました。私はクティに行く時間なので、彼を誘って行きました。スワミと話せばいいアドヴァイスがもらえるかも知れないし、気持ちが落ち着くかも知れません。彼はクティについてもとても緊張していて、私がスワミに紹介すると言うと
「しないでください。私は99%ここに来る事はないと思うので、かえって話して混乱したくないし、迷惑もかけたくないのです。どうか何も言わないで下さい」
と、彼の態度はかなり頑なでした。スワミも新しい顔に気がついたようですが、何か変な様子を感じたらしく、私達を遠くから見ていました。
 
 私は彼の動揺を見て、私はもうインドに麻痺しているのかも知れないと思いました。確かに最初にインドに来た事を思い出せば、カルチャー・ショックはありました。けれどそれは意外にも肯定的なものです。インドに居たいと。もちろん自分のそれまで持っていた常識は全て覆され、まるで光と影がガシャンと音をたてて反転したような感じでした。それでもそれが心地よかったのです。痛みを伴い、ショックを伴っていましたが、それで何か目が覚めたのです。重い荷物を降ろしたような、肩の力が抜けたような。気持ちがハイになったような。
 しかし、目の前の人は非常に沈み、疲れ切っていました。エネルギーを吸い取られ、もぬけの殻のようで、一刻も早く日本に帰り、自分を取り戻したいと言うような感じを受けました。
 もちろん、人の心の中まではわかりません。インドは呼ばれないと来れない所だと言った人がいます。運命論者として言えば、ここに来る運命だったのならば・・というところでしょうか。
 
 翌日私が学校から戻ると、チャンさんが
「アキコさん、日本人の男の人がこれをアキコさんに渡して下さい、と言って預かりました」
と、私に袋を渡しました。中を見ると羊羹(ようかん)と手紙でした。手紙には飛行機のチケットの変更が出来たので、帰ります。色々有り難うございました。ヨーガの勉強がんばって下さい。これは日本から持って来た羊羹です。召し上がって下さい。さようなら。と書かれていました。
『羊羹だぁ』
と思う自分が情けなく、日本で羊羹を食べる事などないのに、『やはり、日本茶で羊羹ですかね』などと思うのは、日本人DNAというものでしょうか。
 デリケートな詩人は羊羹を残してここから姿を消しました。彼にとってインドは何だったのでしょう。また、ムンバイの貧民窟/スラムを目にしなければならないかも知れません。それもまぎれもない現実なのです。日本で目にしなくてもよいものを、ここインドでは突き付けられます。けれど私はそんなインドで詩を書く事が出来ます。詩人魂を揺すぶられ、刺激されるのです。
 
 彼もインドで一遍の詩を書けるといいなぁと願いつつ、羊羹を持ってクティにいきました。皆でジャパニーズスイート(日本の甘いもの)を味わい、スワミは「あの男はどうしたのだ」
と私に質問しました。
「インドでスラムを目にし、ショックを受けた様で、もう日本に帰ってしまいました」
私は何の気なしにただ正直に言いましたが、それはインド社会の痛い所をついてしまったらしく、そこに居合わせたインド人達の顔色がさあーと変わりました。まあ、彼等は色が黒い為、顔色が変わったというより、表情が変わったと言う方が正しいかもしれません。
「その事に関しては、私達にはどうすることも出来ないのだ」と彼等は訴えました。
 

85 春が来ているのです
 
 3月に入ると急激に暖かくなり、4月になると暑くなります。もう春が来て、そしてすぐに夏が来ます。3月ともなると、最終試験を4月に控え、皆、すべての実践課題と勉強、研究を完成させる為、真剣に取り組み始めました。ヨーガの実践も朝6時からというように、時間が繰り上がったり、呼吸法や瞑想法など本格的になってきました。実践課題も増え、個人指導など最終段階に入ってきているのがわかりました。
 
 チャンさんは学校が終われば、ロマンスの相手であるグジャラートのスワミに会いにいけるため、嬉しそうでした。校長先生は、チャンさんの態度が我慢できないらしく、彼女の謹慎はときましたが、最終試験は受けさせないからと言い渡したようで、チャンさんは学校で二番目に偉いとされている秘書のディワリさんのところに、校長先生の決定を取り消して欲しいと言いに行きました。この学校で一番偉いのはスワミで次がディワリさんなのです。けれどスワミは学校の事に対しては、タッチしないため、チャンさんは、適切なところに行ったと言えます。彼女はそういう点は、のんびりしているようでいて、とても勘がいいのです。運もいいので私は彼女がそれらをうまくなんとか切り抜けると確信していました。
 
 チャンさんはディワリさんの所から帰って来ると報告に来ました。
「アキコさん、ディワリさんのところに頼みに行ったら、君は創立始まって以来の悪い生徒だと校長が言っていたよ、と言われてしまったから。うふふ。ノーノー、私はとても良い生徒です、と言っておきました。校長が言っているから、試験はだめだ。でも来年も受けられるのだから、来年来たらいいよ、と言うので、それは困ると言いました。でもだめだったら来年も来ます。そうすれば来年もスワミに会えるし、うふふ」
 
と、笑っています。『さすがの余裕だ』と思っていると、突然チャンさんは
「アキコさん、手芸は得意ですか?」
と聞かれ、その理由を聞くと
「うふふ。スワミの誕生日がもうすぐで、誕生日プレゼントをあげたいのだけど、ティディベアを作る事にしたんです。めちゃ可愛いでしょ。だけど私、昔から手芸をした事がなくて、学校の家庭科も母親や先生にやってもらっていたから、針を持ったことがありましぇん。でも自分で作りたくなったんです。アキコさん、わからないところが出て来たら聞いていい?」
と、はにかみながら言いました。生徒達はラストスパートの勉強に入ったところなのに、勉強の事を聞くならいざ知らず、突然のティデイベア制作宣言とは、あっぱれ恐れ入りました、という状況でした。
「それは可愛いと思うけど試験勉強はどうするの?」と聞くと
「一夜漬けしかしたことないから、試験が近付いたらまた先生の所に行って、質問と答えを聞いてくるから。ねえ、アキコさんティディベアの服はどんなにしたら良いと思う?」
と、もう意識はティデイベア制作に夢中です。
「そりゃ、衣装はスワミのオレンジ色の衣と帽子じゃない?」
と言うと突然大きな声で体をよじらせながら、顔を両手で被って
「きゃー、めちゃ可愛い、きゃーアキコさんてすごい。それしかない。さっそく明日マーケットでオレンジ色の布を見つけてこよう」
と有頂天。
「アキコさん、試験前にテディベア作っている人なんて居ません。まったく何やってんだか」
と自分でつっこみを入れて部屋に帰って行きました。

 

86 なぜにテディベアなのか
 
 私はチャンさんが、突然テディベアを作りはじめたことに、新鮮な驚きを感じていました。なぜ、今、テディベアなのか?そしてなぜこの試験前にそれに没頭するのか。急に部屋にこもり、テディベアを制作しだしたことは、すぐに皆に知れ渡りましたが、その頃には皆、人のことどころではなく、自分の勉強、研究で忙しく、誰もチャンさんを尋ねて来る人もいませんでした。
 
 チャンさんを見かけるのは、テディベア制作に必要な物をマーケットに買いに走るときだけでした。それでも私の部屋には日に何度も現れ、ここはどう縫ったらいいかとか、この布とこの布のどちらが衣装に適しているか、という質問をしていました。その姿は、中学生の頃、初恋の人か何かに、手作りのマスコット人形を作って渡す少女を思い出させ、チャンさんは、結構純粋で可愛い人だと感心したりしていました。その制作に関しては、とても熱心に朝から晩まで机に向かっています。
 ただ、本当は今、集中すべき対象が違っているということに気付くべきなのですが、ロマンスに走る人に何を言っても無駄です。
 
 不思議なことに、チャンさんはテディベアの作り方の本を持っていました。それにそってまず第一号をかなり苦労して、作り上げました。チャンさんは私の部屋に走ってやって来て喜びの声をあげました。
「アキコさん、とうとう出来ました。イヤー−、めちゃ可愛い」
と頬ずりしています。私はそのテディベアを見たとき
『ねずみみたい』と言いそうになる言葉を飲み込みました。『かわいいかなぁ』というのが率直な印象でしたが「これはスワミにあげるベアちゃんの兄弟として私の手許に置く事にします。スワミと同じものを持っていたいから」
とチャンさんが言ったので『その方が良いと思う』と私はこっくりうなずきました。掃除にきたバワンにも見せびらかし
「良いでしょう。かわいいでしょう。ベアちゃん」と言っている声が聞こえます。チャンさんの部屋の掃除を終えて私の部屋に来た掃除人バワンは、私に向かって隣の人はクルクルパーと手振りで示しました。
 掃除人でさえ、ヨーガ大学の過酷な試験がもうすぐで勉強しなければいけないと言う事を知っているようでした。確かチャンさんが犬を引き連れていたときも、病院中が犬の排せつ物で汚れ掃除人の彼は大迷惑で、私の部屋に来て同じように、隣の人はクルクルパーと手振りしました。
 
 私はそんなこともあったなぁと思い出し笑いしてしまいました。もちろん今もチャンさんの部屋の前には親犬は寝そべっています。
「なぜにテディベアなのか?」の問いに答えるとすれば、チャンさんは動物好きなのです。意外に簡単な答えでした。でも本人に確かめた訳ではありません。彼女曰く、恋をするといままで考えもしなかった世界が開け、詩を書いたり、手芸したり、つまり自分の思いのこもった手作りのものをあげたくなるのだということです。絵を書いたり、まめに手紙を書いたり、そしてオレンジ色(スワミ色)のものを見ると買ってあげたくなるのだということです。
 
 二つ目のテディベアの制作に入り、集中力はすごく高まっている様でした。そして二つ目は完璧な出来栄えで、とても可愛く出来ていました。スワミの衣装と帽子も作って被せ、ポシェットまでさげていました。
「アキコさん、スワミに送る前に写真をとって欲しいの。スワミからもらったピンクのパンジャビに着替えるから」
と言って、着替えてお姫様のようにきれいなチャンさんとスワミの格好のテディベアのツーショットをカメラに収めました。
 

87 クティでの出来事
 
 クティでは何の問題もなく、私は楽しい日々を送っていました。皆がとても親切で、気分屋のアンジェリカとさえ私はぶつかる事はなく、ジョゼフは試験や研究発表についていつも適格なよいアドヴァイスをくれました。ときどき滞在するお客様や先生やヨーガ行者の人達、召し使いの人達でさえ、私に色々な事を学ばせてくれました。皆がとても親切で穏やかで、学校とはまた違う雰囲気がありました。
 得に食後のお茶を私が皆に入れて、ゆったりお茶を飲みながら話をしているときが、平和で家族的な雰囲気でした。私はアンジェリカとスワミのお布団を敷き、お茶のあとかたづけを終えればその日のクティでのお仕事は終わりです。
 
 アンジェリカはドイツ人でもと弁護士、ジョゼフはスペイン人で看護士です。ある日アンジェリカはジョゼフが留守の時に、私に耳打ちしました。
「アキコ、クティにスパゲッティがあるのだけれど、作って食べましょう。オリーブオイルもあるから、本格的なおいしいスパゲッティが出来るわよ」
私は驚いて
「どうしてあるの?」
と聞くと
「スワミとヨーロッパツアーに行ったとき、頂いたの。問題はソースだけど、何かいいアイデアはある?」
とアンジェリカがきくので
「和風はどうですか。トマトをベースで味はおしょうゆと梅干しで調えてのりをいっぱいかけるの。おいしいと思うけど試してみる勇気ある?」と答えると
「うーーん、おいしそう。梅干しとのり大好き」
と賛成しました。アンジェリカもジョゼフも日本食が大好きで、私がクティでときどき梅干しのおにぎりや和風サラダを作るととても喜びます。食後のお茶の時間にはよく日本茶にしました。
「ジョゼフもこのスパゲッティ食べたいんじゃないかしら。彼はいつ戻るの?」
私は彼も一緒に食べる方がいいのではと思ったのですが、アンジェリカはその言葉を遮って
「いいのよ、彼はスペインに戻ればいつでも食べれるのだから。明日のお昼に作って食べる事、約束ね。私が用意するのはトマトと・・」
と決めています。私は和風スパゲッティを食べる機会はジョゼフにもないし、彼の妹は自然食品店をしていて、のりや梅干し、しょうゆなどもスペインのそこで手に入ると言っていたから、作り方を教えてあげたかったのです。けれどアンジェリカに逆らうのは得策ではありません。おそらく、二人の間には見えない確執があるのかもしれません。ここは触らぬ神にたたりなしというところでしょうか。スワミの態度もいつもそうです。
 
 次の日早速実行にうつし、私達はとてもうまく出来た和風スパゲッティを食べました。スパゲッティが本格的イタリアのおいしいスパゲッティなのとオリーブオイルが上等で、茹で加減をアンジェリカがきびしくチェックしたため、完璧なものとなり、自分でもそのおいしさにびっくりしてしまいました。
 何日かしてジョゼフがボガール先生とデリーから戻ってきました。ボガール先生がスペインにヨーガを教えるツアーに行く為に、ヴィザをとりに行ったのです。インド人が外国に出るのは結構難しく、相手国に受け入れの保証人、知人、友人がいないとまず不可能だと言っていました。ボガール先生は去年すべてのスケジュールを決めて、さあ出発と言う所で、ヴィザが降りず、全ての計画を断念せざる負えなくなった苦い経験があるために、今回は慎重に受け入れ先の保証人としてジョゼフを同行したのです。今回はヴィザが降りて、クティの誰もが幸せそうでした。

 

88 反イギリス感情
 
 インドは長い間イギリスに支配を受けていました。そのはじまりは1600年に遡ります。イギリスが東インド会社を設立してインドに商業目的で進出したのです。1877年にはインドを完全征服し、英国の王がインド皇帝を兼ねる事になります。それから1947年にイギリスから独立するまでの長いイギリス支配の歴史があるのです。
 
ヨーガ大学では、たびたびゲストの講師を招いてレクチャーを行ないます。けれどそのときにいつも言葉の問題が起こります。たとえば、アメリカ人の講師の場合、私にとっては問題ないのですが、インド人の生徒達は数人を除いては不満を漏らします。ただしアメリカ人だからしょうがないと諦めも早いのです。全体的な講師の数にしたら年間二人ぐらいです。あとはインド人の講師になりますから、誰もがヒンディー語で話す事を期待します。でも良心的な人になると、私達少数の留学生の事を考慮して、少しの英語を混ぜて話してくれます。
 けれど、何人かの年輩の人になると、反イギリス感情丸出しで、彼等は英語が話せるのにも関わらず、きっぱりと
「私は英語で話すつもりはない」
と、前置きしてから話しはじめます。私は英国人ではありませんが、英語で授業を受ける事を前提としてそこに座っているので、いい気持ちはしません。つまり留学生の事は最初から考慮しないという頑な姿勢をとるのです。それは長い英国支配が落とした暗い影と言えるでしょう。
 ここにアメリカやイギリスに留学することより困難な事情があります。なによりも残念なのが、重要なレクチャーを語学の為によく理解できないということです。
 
 若い人達には反イギリス感情はあまり見られません。大都会では西洋式ファションを身につける事がカッコイイとされ、お金持ちの人達はジ−パンやTシャツを着て大学に通ったりします。この学校でも男の子達のほとんどが、シャツとズボンを身に付けています。女の子達は、たいていインドの民俗衣装パンジャビドレスを着ていますが、ときどきジーパンをはいて出かける姿を目にする事もあります。
 食に対しては、インドの人達はとても保守的で、インド食以外の物は食べる習慣がありません。ほとんどカレー味の食べ物です。大都会には、中華料理店や西洋料理のレストランもありますが、大体が高級で、でも味の方はあまり洗練されているとは言えず、本場の物とはかけ離れた状態です。おそらくまだまだインド人達は、外国に行く機会も少なく、本場の味を知らないし、また外国人のコックを招くような環境にもなく、インド料理がやはり一番美味しいということになるのでしょう。外国人の旅行者が多い観光地では5つ星ホテルなどでは、美味しい西洋料理を出す所もありますが。
 
 私はクティで毎日インド料理を習って作っていました。それは簡単な物が多く、大体はサブジ(野菜のスパイスを使ったおかず)です。まずは鍋に辛子油をひいてマスタードシードを入れ、弾けて来たら、ターメリック、レッドチリ、コリアンダーを入れ、そこに切った野菜(何でもOK、あるときはジャガイモ、またはナス、あるいはオクラ、またはかぼちゃ、などなど)を入れ、炒め、水を足し塩を入れ、ふたをしてやわらかくなるまで煮るだけです。あとでガラムマサラを加えて味を調えます。
 

89 泥パック
 
 学校も終わりに近付いて来ると、インドで経験できる事は、何でもしておきたいという感じです。けれど試験勉強もあるし、クティでのするべきこともあるしで、寝不足になると疲れて来ます。そこでの避難場所はナチュロパシーというここの敷地内にある、マッサージやパックやスチームバス(サウナのようなもの)があるところです。
 そこでは、ココナッツオイルの全身マッサージや泥パックなどがあり、体験してみると、エステと呼ぶにはあまりにも原始的というか、自然というか、それでも結構気持ちいいので、ついつい足がそちらに向きます。
 驚いたのが、泥パックで、全身パックになると、パンツだけはいた状態で、泥を全身に塗られ、そのまま囲いのある場所で放置され、天日干し。泥が板チョコのように固くなり、自然にはがれ落ちるような状態になったら、水で洗い流して終わりです。
 
 屋根のないただの囲いの中に、目と口だけ残して顔も全身も泥を塗られ、それがやがてパリパリに乾いて来るまで、ただ立ちすくんでいる私は、青空を眺める事ぐらいしかない訳で、自分のその姿を想像するだけで、かなり間抜けで阿呆−な状態で、自分でも笑ってしまうのですが、その状態で一人笑って居ると言うのも、なんか不気味と言うか、のどか過ぎる時間であるのです。けれどそういう何とも馬鹿げた時の流れが愛おしく、「これでいいのだぁー」などと思っているのですから、開いた口は塞がりません。
 目とお腹の泥パックは、目の疲れを癒し、お腹の不調を治すものですが、布に泥を包んで、目とお腹の上におきます。ひんやりとして気持ちよく、そのうち寝てしまいます。
 マッサージは、ココナッツオイルで全身をマッサージしてくれます。頭もマッサージしてもらえて、勉強で疲れた頭にとっては極楽です。顔のスチームは、ユーカリの入ったお湯の蒸気で、鼻が通り、顔もピカピカ、頭もスッキリします。
 
 マッサージのあとがスチームバスで、小さな戸棚のような扉を開けると、その中に腰掛けられるような台があり、そこに腰かけると、顔だけが戸棚の上に出るようになっていて、扉を閉めてそのまま座っています。するとだんだん中が蒸気で満ちてきて、熱いのなんのって、何度叫ぼうかと思いましたが、さすがに汗はすごく出て、終わって水シャワーを浴びたときは全身スッキリ、ツルツルスベスベでした。
 全部体験して100ルピーぐらい、日本円にすると350円ぐらいです。インドにしたら安くはありませんが。
 帰るとき自分の頭から湯気が出ているのではないかと疑ったほどです。リフレッシュしてまた勉強と実践の日々に戻るのです。
 
 試験も近付き、勉強に必要なのは、集中力と根気です。諦めないでどこまでやれるかにかかっています。得に他の言語を使っての試験ですから、忍耐が要求されます。でも、もう忍耐に関しては、インドに暮らしている事で、随分慣らされ「何でも耐えられます。何でも受け入れられるでしょう」という感じになりつつありました。忍耐を身につける事は過酷な修行でした。日々が忍耐の連続で、私の常識は彼等の常識ではなかったからです。
 まあ、私の常識が日本人の一般の常識とも言い切れないので、私は私のペースで生きていくということに尽きるのですが。
 

90 チャンさんと試験
 
 明日から最終試験という日曜日、皆はどこでも勉強、あるいはヨーガの実践の練習に余念がありませんでした。一人を除いては。その日の朝、チャンさんは、私の部屋に来て
「アキコさん、プーネに買い物に行って来るけど、何か買って来るものある?また美味しいクッキーを買って来ましょうか?」
と出かける支度で言いました。私は
「明日から試験よ」
と忘れているのかと思い一応言ってみました。すると「アキコさん。私、まだ校長先生から試験を受ける許しをもらってないのよ。多分来年、また受けに来るとおもいまーす。皆、勉強してるみたい。私だけがプーネなんかに行って遊んでるのね。美味しいものも食べて来ちゃおう。じゃぁ、いってきまーす。アキコさん。試験が終わったら一緒にボンベイに買い物に行きましょうね。買い物の場所は私に任せて下さい。いいお店をいろいろ知っているから。そんなもんだけ知っててどうすんのよね。すいません」
と、まるでひとり漫才をしているように、ひとりで落ちをつけて、笑って行ってしまいました。私はチャンさんが試験を受けられないのを忘れていました。でも明日になれば、受けさせてもらえるような気がしたのです。なにしろ彼女は運がいいのですから。
 
 明日から2日は、実技の試験で、そのあと5日間筆記試験があります。4月に入ったためにどんどん気温があがり、天井についている扇風機を回さないといられない状態です。夜も暑く寝苦しくなって来ました。昼間は暑いのであまり動かないようにして、外には出ず、エネルギーを消耗しないようにします。
 にもかかわらず、元気に買い物に出かける人がいるというのは、おどろきです。まあ、もちろんプーネには、冷房のガンガンに効いたホテルやレストランがありますから。
 夜になって、部屋で勉強していると、ドアがノックされ、開けてみるとバラトシン先生が焦った様子で立っています。
「アキコ、勉強中に失礼する。チャンはどこだ?」
と早口で聞き、いかにも緊急という感じなので、本当はプーネに行ったと言うと不味いのですが、バラトシン先生はチャンさんが好きなので問題ないと思い
「プーネに買い物に」
と言うと
「アキコ、明日チャンは試験を受けられる。帰って来たらすぐに校長の所に行くように言ってくれ」
と言いました。門限が9時なのでそれまでに戻ってくればいいのですが、だいたい夜中に帰ってきたりするチャンさんです。私はドキドキしていました。するとそこは運のよいチャンさん。8時55分に帰ってきました。
「アキコさん。クッキー買ってきた。めちゃおいしいもの食べて来ちゃた。アキコさん。あのね、可愛いパンジャビドレスも買いました。来て見せ・・」
と言う言葉を遮って
「チャンさん、試験受けられるって。校長先生が許可したから、校長先生の所にすぐに行って」
と言うと
「やぁだぁ−−。なんでぇ−。もう疲れる」
とブリブリ。
「とりあえず、行かないと」
「えぇーーー。勉強一行もしてないのに。まあ、どっちでもしないけど」と走っていきました。
 

91 試験初日
 
 朝が来て、結局全員が試験を受けられる事になり、一件落着、皆、喜んでいるようでした。チャンさんは試験当日の朝6時半に始まる実技試験にばっちりお化粧して現れました。試験官はよそから来るので、まずその方達の紹介があり、それからクリア(浄化法)の試験が始まりました。
 ジャーラネーティ(水による鼻の浄化法)、スートラネーティ(チューブを使った鼻の浄化法)、ダンダダウティ(チューブによる胃の浄化法)、バストラダウティ(布による胃の浄化法)です。
 バストラダウティのときは、40人の生徒が並んで、ヨーイスタートで一斉に五メートルの包帯状の布を飲み込んでいき、五cmだけ残して、試験官の前に行き、ナウリ(腹部を動かす)をして、終わります。全てを10分以内に行なわなければなりません。皆必死でした。出来なかったのは3人だけで、チャンさんは一度も挑戦したことがなく、最初からやってみる気がないようでしたし、その朝口紅を付けている生徒も彼女だけで、試験官も注目していました。それでも彼女は試験官ににこにこ愛想よくすることは忘れていませんでした。
 
 それから瞑想の試験があり、30分間、パドマアーサナ(蓮華坐)で座り、体を動かさない事、閉じている目の玉を動かさない事、寝てしまわない事などチェックされます。
 一日目の試験は練習していれば、簡単です。というのも試験で試されるものの予想はおおかたつくし、全ては習ったことだからです。
 試験は午前中に終わり、朝食を食べにキッチンに行くと、チャンさんは
「今日初めてやったものもあった。あの布を飲み込むのは一度もやったことがなかったし、でも試験は受ければ受かるらしいから、私も今年卒業できそう」
と相変わらずの余裕です。そして
「明日の試験は何ですか?試験のスケジュールも知らないんだから、どうしようもない。アハハハハ」
と笑っています。
「明日は、アーサナ。実技は予習はいらないからいつも通りにやればいいから、大丈夫」
と私が言うと
「じゃ、今日は昼寝して、午後に先生に試験に何が出るか聞いてこよ」
と言いました。
 私は夕方クティにお祈りに行き、ジョゼフに全員試験を受けられる事になってよかった。チャンさんも卒業できるって、と言うと彼は
「人生でチャンのような美人は、得のように思うけど、一つの道を突き進むには障害が多い。なぜなら周りが放っておいてくれないために、自分のするべきことに集中出来ずにやりとげられない。彼女のここでの生活を見てご覧。常にどこかに出かけている。意識が集中していない。それにいつでも鏡を見ている。人にどう見られるかに意識と時間をかけ過ぎている。僕達はそんなに見かけ上美しく生まれなかったことに感謝すべきだね。皆に注目されない分、自分の本当にやるべきことに集中できる時間と静けさがたっぷり確保できるんだ。そう思うでしょう。アキコ」
と言いました。言われてみるとそうかもしれないと思いました。つまり外野がうるさくないのです。チャンさんはいつも外野がうるさく、しかも皆が手を差し伸べてくれる為、自分で努力する、拾得するということが欠けてしまうのかもしれません。
 

92 マスター(達人)への道
 
 人が何かを達成する為には、修練が必要です。チャンさんは自分を美しく見せる為の修練を積んでいる為、その方面では達人と言えるかも知れません。けれどジョゼフは言いました。
「でもそれは皮一枚の事でしょう」
言って見ればヨーガの世界では、その皮(表面)一枚のことにこだわることをしないのです。ただ自然でいること。精神をきれいにすること。それが重要です。何かを拾得する為には、努力は必要です。けれどそこに苦しみがあったりゴールを設定しては、それは本当の道(タオ)とは言えません。つまり目標の為に努力するのではなく、その実践そのものがそのつどそのつど目標であり、実践する事が喜びでなくてはなりません。ヨーガにはすぐに達成できるゴールなどないのです。毎日の実践、練習そのものがヨーガなのです。
 何かを達成しようとするとき、ミーハーであっては達成できません。あれもこれもなんて出来ないからです。熱しやすく冷めやすくても上達は見込めません。だらだらいい加減、自分に出来ない事を言い訳するタイプもダメです。
 
 常に一貫性を持って、実践、練習して行く事が必要不可欠なのです。ヨーガも同じ事の繰り返しを、繰り返しと思わずに、1回1回新たな気分で、楽しみ味わう事の連続です。その行為自体を好きで居る事が重要なのです。いつも目標を定めてそれに到達する為にあるいはそうすることで何かを得ようとすると、未来のその時点に焦点を合わせてしまう為に、今現在を生きる事が出来ません。その課程自体を楽しむ事がマスターへの道です。
 私にとって幸せな事は、生活の手段と目的と日々行なっていくべき事が同一であることです。ヨーガが私の人生の手段であり、目的であり、していくべきことです。そして何よりそれに興味があり、その興味は尽きず、喜んでその実践を行える事です。
 ここでの実践と学びも、それが私の基礎を作り、しかも成長させ、より深く探究していくための準備となるのです。そしてこの多く強いられる忍耐でさえ、そのときは苦痛の様相を見せていても、それは私の大切な財産として必要な試練だといえるのです。
 
 誰しも、どんな人でも、それぞれの人生のそれぞれの分野におけるマスター(達人)への道を歩いているのだと思います。ただ日本のように選択肢が多すぎ、情報が氾濫していると、一貫性を持って一つの事に精進していくのが難しい状況を生み出しているかも知れません。ここインドでその道のマスター(達人)を目にするとき、ここの精神世界の豊かさ、深さを感じます。子供の頃からその道を運命づけられているかのごとくに選びとり、そして一生をそのことに捧げている人達がいます。その道で生きている人々です。
 私達は表面的な生き方をしてしまいます。どれもこれもそこそこにこなして。しかし気がついたときに、何も成就していない、何も行なっていないことに気がつくのです。
 ヨーガ大学の試験は別に重要ではありません。それは単なる一つの結果です。そんなことにかかわらず、今日も明日も実践し研究し探究していくことが、喜びなのです。それは誰に頼まれたのでもない、何かの役に立つ為でもなく、何かをそれによって得る為でもありません。それ自体が生活であり、生きる事なのです。それは競争ではないのです。私はスバーシュの言葉を思い出しました。「試験?ビューティフルだよ」つまり人生は美しいということです。

93 食べない事の選択
 
 その頃クティでは、スワミが断食に入っていてミルクとフルーツしか口にしないため、私の料理係と言う役目もなくなり、試験のために勉強しなさいとクティでの日課もお休みと言う事になりました。
 インド人というのは日常的に断食をよくする人達で、それは宗教的な意味と体の為と2通りあるようですが、そのときスワミは1ヶ月の断食に入っていました。さすがに意志が強いと驚きましたが、季節的に夏を迎える為に体を浄化させておくという意味もあるようでした。インドの夏は過酷です。
 
 インドでは食べないということが精神性の高さを同時に示すと言う風に考えられていて、高いカーストの人程ものを食べません。ブラフミンという最上級カーストの人達は、僧侶あるいは祭祀階層といわれ、精神性を重んじます。厳格な菜食主義者が多いのです。
 食べない事を選ぶとどういうことが起きるかというと、ひとつにはそれら食べないものたちから解放されます。たとえば、菜食の人達は肉屋も魚屋も行く必要がないのです。けれどもう一方で食べない為に、食べないものが含まれていないものやそういう食べ物屋を探す必要が出て来ます。けれどインドでは、菜食の食べ物やレストランを見つけるのは、そんなに難しくありません。
 
 けれど自由化経済政策が推進されるインドでは、最近はテレビも普及しつつ、衛生放送も見る事ができるため、西洋化が進みつつあると言っていいでしょう。大都会ににはマクドナルド1号点も進出し、ハンバーガーは通常牛肉を含んでいますから、昔のインドでは考えられないことです。ヒンドゥー教徒80%の国で、彼等にとって牛は神様、牛肉を食べる事はありません。よくマクドナルドが進出できたなぁーと思ったら、そこではどうやら牛肉のハンバーガーは扱っていないで、マトンや野菜カツレツのバーガーを売っているとのことでした。
 私が10年以上前に滞在していた北インドのリシュケーシというヨーガの聖地は、ムニキリティという街のエリア(範囲)は肉、卵、魚をいれない所でした。そこに暮らす人達は基本的に皆菜食で、そうすると街が臭くないのです。それはそこを出て、普通の街に出た時に感じます。魚の生臭い匂いや肉汁の焦げる匂いなどが街からしてきます。
 
 インドでは今でも鉄道の駅には菜食と肉食のレストランが隣同士別れて存在しています。結婚するときにもその人の食習慣は大きな問題となります。昔はほとんどが同じカースト(階級)内で結婚していたために、ほとんど食生活も同じでした。けれど現在この学校のようにインド全土から生徒が来ていて、違う土地の人、違うカースト、違う宗教同士で恋愛し結婚を決めた場合、問題はおこります。今現在も、ベンガル地方から来ている男子生徒とデリーから来ている女子生徒がつきあい、結婚をしようとしていますが、彼はヒンドゥ−教徒、彼女はジャイナ教徒。彼は肉食、彼女は厳格な菜食で根である野菜、種類も食べません。彼等はこれからどう言う事を選択して行くのでしょうか。 私のインド人の友だちサンジェさんは日本人と結婚し、その人が目の前で牛肉を食べたのを見たときひどくショックだったと言いました。また私の日本人の友人はインド人と結婚し子供がいますが、その子に「何が食べ物で一番好き?」と聞いたとき「僕、本当はビーフカレーが一番好きだけど、これはパパにはないしょなの」と五歳なのに気を使っていました。 

94 おしん
 
 インドでテレビが普及するにつれ、衛生放送で日本の番組も流されるので、インド人の中には『おしん』を見ている人もいて
「日本はトヨタ、ソニーとお金持ちのドリームランドだと思っていたけれど、日本も貧しいんだね。おしん
はなんて貧乏なのだろう。可哀想」
とインド人に同情されてしまいました。
 他の国に対する知識というのは、かなりいい加減なもので、メディアや書物を通して知っているような気になりますが、それはかなり偏見や間違った、あるいは古い情報かも知れないのです。かなりの誤解が生じています。
 
 私は日本人だから金持ちと思い込まれたり、日本人=おしん=貧しいと思われても、どちらも違う訳なのです。日本人がインドに抱いているイメージもとてもいい加減なもので、この多様な国を一言で表現し、片付けてしまうことは、危険ですし、不可能です。一番いいのは行って自分の目で確かめることですが、観光旅行では本当のインドは見えてこないかも知れません。私が生活している今回のインドも言って見れば、特殊なインドの一面に過ぎず、町中に暮らしていたら全然違う世界が展開するでしょうし、インド人と結婚して生活している日本人女性の目から見るインドとはまた全然別のものでしょう。
 本当の姿を理解すると言う事は、どんなものにしても容易くはないと言う事が言えます。私達は片寄った見方による誤解の中で、推測により暮しています。本当に理解する、本質を見るということが欠けています。私達はこの目に見える世界をどのように認識したらよいのでしょか。
 
 インドに来ると、何が貧しくて、何が豊かなのかの常識も覆される思いがします。お金を持っていることが豊かというのが日本の常識です。けれどヨーガの世界では、お金に重きを置いたりはしません。物を持っていることが豊かと彼等は思っていません。自由なことが、一番豊かなのです。物を持たない事が幸せです。彼等は自分から物を捨て、物から離れます。それは彼等にとって忍耐を要するものではないのです。
 おしんは貧しさから這い上がっていきます。貧しい=不幸という常識が日本にあるからです。努力して獲得して行く人生が、日本では感動を呼びます。
 けれどインドでは、精神が自由な人が尊ばれます。人々は色々なものに縛られています。仕事、社会、お金、人間関係、彼等はそれらから離れ、孤独の内に自分自身の本質に出会って行く事を選択しています。それはそんなに簡単なことではありません。得る事より、与えることの方が難しいし、持ち続けることより、捨てることの方が困難です。なぜなら人間は安全欲求があるからです。
 
 日本人は善良で保守的で安全を好む国民性を持っています。だからインドのような得体の知れない国に行くことを好みません。貧しさを見るもの好まないしインドは汚い国という印象も多くの人がもっています。
 日本人は合理的になり、清潔を好み、急激な変化を望みません。日本人の幸せって何でしょう。最近、日本人は行くべき方向性を失っているのではないでしょうか。理想や希望を口にする人が少なくなりました。外国人に「私はこれこれこういう人間です」と自分の本質を語れる人はとても少ないように思います。
 私達は「おしん」でもなくトヨタでもないのです。「自分は誰か」これがヨーガの問いかけです。
 

95 Love Live Laugh
 
 試験2日目は、アーサナ(ポーズ)です。25のポーズを試験します。それから呼吸法とバンダです。実技の試験は問題なく終わりました。
 3日目から筆記試験に入り、1課目ずつ3時間英語またはヒンディー語で書き続けます。皆、チャンさんの姿を連日見るのが珍しいようで、気になる様ですが、ほとんどの人は試験直前までノートを読んでいて、雑談をしているのは、ジョ−ジとシルビア、余裕のスバーシュぐらいなものです。
 
 私は試験が始まってもしばらくは目を閉じて瞑想していました。3時間という時間はたっぷりあるし、まずは心を落ち着けて、と言う事です。問題は7問ぐらいの中から5問ぐらい選んで、それについて論文形式で書きます。私にとって試験は、いかに美しくその論理を展開し、わかりやすく表現するかでした。コンセプトとしては、試験官が一目見て私の言いたい事のヴィジョンがはっきりわかると言う事にしました。
 ですから私の答案は皆とは違い、図とイラストが多く描かれ、そこに補足説明が文章でされているというものでした。ですから皆がカリカリ必死で書きまくっているときに、私は楽しい答案を作っていたのです。答案を読む人が楽しめるようにと考えたのです。
 なぜなら、私はこの試験を楽しみたかったし、美しいものにしたかった、そして40人もの同じ答案を読む試験官はいい加減飽きるだろうから、彼等も楽しんで読めるようにと工夫したのです。ときどき見回りの試験官も立ち止まって、私の答案を見ていました。
 
 皆がまたしても驚いたのは、チャンさんです。20分程で試験場を出ていきました。その提出した答案をチェックした先生はニヤリとして首を横に振っています。中間試験の時は詩を書いていましたが、今度は何を書いたのでしょう。お昼にキッチンで会い、チャイ(インドミルクティー)を目を覚ます為に、2人で頼んでおしゃべりしていました。
「アキコさん、明日は何のテストですか?私全部一夜漬け。私の人生はこれまでずっーとそうだから」
「チャンさん。今日、試験終わるの早かったですね。ちゃんと書きましたか?」
と聞くと
「ぜんぜん、でも私自身の可愛い絵をイラストで描いて、私のキャッチフレーズ、Love Live Laughと大きく書いておいたからばっちり。留学生とわかれば、きっと大目に見てくれると思うので」
とにっこりしました。
 そのLove Live Laugh(愛、生きる、笑う)というキャチフレーズはチャンさんにぴったりだと私は思いました。そのあとチャンさんは、試験も早く終わったから買物に行って、買って来た美味しいチョコレートケーキがあるから、部屋で食べましょう、と誘ってくれました。
 彼女の部屋には、彼女自身を描いたイラストとそのLove Live Laughの文字が大きく壁に貼られていました。彼女の部屋はピンクピンクしていて、窓と棚にはピンクの花柄のカーテンと布がかけられていました。彼女は明るいピンクの色が大好きなのです。病院の1室も彼女の手によって特別な感じに模様替えされていました。
「美味しいチョコレートケーキでも食べてないと、やっていられません。でも一日で覚えるのも2日目は、昨日覚えたのを放出しなければならないから、だんだん難しいですね。あーー、頭使うのほんとに久しぶりです」と頭を掻きました。
 

96 学校修了
 
 試験週間が終わると学校も修了です。私の試験の答案は美しく書けたので満足でした。学校はすみやかに終わり、試験結果と修了証は後日自宅に送られて来るとのことでした。生徒達は学校が終わったのを喜び、それぞれの予定で自分の家へと帰っていきます。
 私は10日間ほどそこに滞在し、そして飛行機で戻る予定でした。本当は五月いっぱいインドにいて、もう一度ヴィパサナ瞑想に行き、それから呼ばれていたヨギータの家にも遊びに行き、ヨギータの先生にもお会いしたいと思っていたのです。
 
 けれども日本からファクスが届き、五月より仕事に復帰して下さいと書かれていた為に、のんびりインドを楽しむ事も出来ずに、5月2日の便で戻る事が決定してしまいました。
 10日の間にクラスメートにさようならを言い、学校に残っているのはチャンさんと私ぐらいでした。チャンさんはロマンスの相手であるグジャラートのスワミからの連絡をひたすら待っている日々でした。
 立場上、女性から頻繁に電話がかかって来るのは、まずいらしく、この前の電話で、電話するから待っていて欲しいと言われたらしいのです。その夜私は学校も終わり、本当にのんびりとベランダで涼んでいました。すると外から帰ってきたチャンさんは私に言いました。
「アキコさん。スワミは私のことバカだと思ったかも知れない。あ−−ん、どうしよう」
と珍しくしょげています。
「どうして」
と聞くと
「今、電話で話したんだけれど、私が帰国しないでスワミのところへ行きたい、と言ったんです。するとこれからアメリカに行くかもしれないから、その前にボンベイで会えると思うと言ったのね。そしてスワミも私の国に行ってみたいから、インド関係のお寺が私の国にあるかというから、インドのレストランならある、って言ったんです。そうしたら、会話が一旦途切れて、インドのお寺とレストランを同じにしちゃって、スワミはぜったい私のことバカだと思ったぁー。きゃぁーー」
と身悶えています。私は思わず吹き出してしまいました。天真爛漫というか無邪気と言いましょうか。つまり、スワミはインドのお寺がある国であれば、そこから招待されて講議をしに行く事もできるし、そこに滞在する事もできる。公務としての目的でもない限り、遊びで出かけることは難しいでしょうし、飛行機代宿泊代などもあります。インド人がいて、お寺があればお布施などもあるからという意味ではなかったのでしょうか。それなのにチャンさんは、さすがに食べる事が好きですから、思い浮かんだのはインドレストランだったと言う訳です。そして
「電話をしてはいけないって、向こうからかけるって、でもいつかかってくるかわからないし、予定もたてられない。学校があったときは学校を抜け出していたのに、学校が終わったらただじっとここに滞在している私って、皆、変だと思うでしょうね。もしかして、あのテディベアが皆に見つかって、スワミのテディベアとは怪しいということになったのかなぁ。学校が終わったらすぐにグジャラートにいけると思ったんだけど・・・」
と言い、ともかく学校から解放されて自由になった私達は、街のレストランにアイスクリームを食べに行く事にしました。
 

97 それぞれの未来
 
 クラスメート達もそれぞれに去り、仲良しのヨギータとは、さよならの朝、二人で散歩に行きました。彼女もここで成長し、グジャラートに戻り、また大学の先生として立派な仕事をし、恵まれた暮しをするでしょう。彼女は五年後にサニヤシン(放棄者)としてヨーガの道場に入るつもりだけど、その前に世界を見てみたいと言いました。彼女はヨーガの指導者としてすぐれた資質をもっています。600ものあらゆるヨーガのポーズができ、人々に対して情にあつく世話好きです。そして親しみやすいいい性格をしています。負けず嫌いな激しい面も持っていますが、まだ若いから、これからどんどん成長していくでしょう。
 
 インドに生まれた事、ヨーガのできる家に生まれた事、いい指導者がいること、など彼女はとても恵まれています。これからの成長が楽しみです。
「アキコ、私の課題は執着心。でもここで大分大人になった気がする。執着心をなくさないとサニヤシンにはなれないことがわかっているから」
 私達は丘に登り散歩しながら、この大切な瞬間を心深く味わっていました。ボガール先生が授業の最初に言った言葉を思い出していました。
「ヨーガを学ぶ意味をそれぞれよく考えなさい。そうでなければ、あなた達は卒業の日に卒業証書以外に何も得られないだろう。大切なのはあなた方の個々の成長だ。紙切れではない」
 私達はなにを学んだのでしょうか、どう成長したのでしょうか、その時点ではまだ何も実感はありませんでしたが、けれどこの貴重な経験はやがて私達の基礎を築くのに大いに役立つのではないでしょうか。ヨーガのことだけ考え、自分を見つめられたこの期間、そして自分がどういう人間で、まだまだほんの未熟なヨーガ実践者に過ぎないということがわかりました。けれどそれでもヨーガに集中できた実感は大きな財産です。
 
 ヨギータはその日、グジャラートに旅立ちました。もう一人のサニヤシンを目指すスワミことスバーシュにもたくさんのことを学びました。彼はいつも一人研究に取り組んでいました。そして常にプージャ(祈りの儀式)を欠かさずに執り行い、とても静かに落ち着いていました。人からの質問にはていねいに答え、そしてそれはいつも的確でした。ほんとうにまぶしい人でした。彼もまたすばらしい精神的指導者となり、平和で自由な境地へと達していくのでしょう。彼はマスター(達人)の資質を供えています。
 他のクラスメート達は、何人かはこの大学で知り合った人と結婚し子供をもうけ、普通の生活に入っていくでしょう。ブラジル人のシルビアは、国に帰りヨーガの先生として、センターを大きくし活躍するのでしょう。南インドのジョージは最後までシルビアはただの友だちだと言って、一緒に彼の家に行く事も皆には隠していましたが、周りの人達は皆知っていました。
 
 プレイボ−イのブルーノ(アイルランド人)とミタは、二人で彼女の家に行きました。ニヴェディタと病院でヨーガを教えているニーラジは、ニヴェディタの方が年上なのが問題でもめていました。
 私は日本に帰り、また元の平和な暮しに戻るでしょう。そしてしばらくはここで学んだことの復習に時間を費やす事になるでしょう。そしていつも謎なのがチャンさんです。皆にとっては彼女がどうしてここに留まっているのかも不思議でした。そして彼女自身もその時点では、明日のことも何もわからなかったのでした。ただ電話を待つ事以外には。

 

98 楽しい日々、苦しい日々
 
 私はチャンさんと日本に帰国するまでの日々をほとんど共に過ごしていました。まずはプーネに行き、食事をしたり買い物をしたりして、それからチャンさんの仲良しである韓国人のキムさんの家で、食事をごちそうになりました。キムさんは夫婦でヨーガ大学を卒業し、今はプ−ネ大学の大学院で奥さんは心理学を学んでいます。旦那さんはなぜか入学出来ずに、今は韓国に帰っていて、もうすぐまたここに戻ると言っていました。
 韓国も経済不況に見舞われて大変な事態になっているらしいのです。キムさん夫婦がインドに来たときは、韓国経済はバブル期で、どんどん韓国人が海外旅行をする時代になっていました。けれど突然のアジア恐慌、いったいいつ何が起きるか予想がつきません。
 日本人のみなこさんもインドに来たら突然山一証券が倒産し、彼女はかなり山一にお金を預けていたので、慌てたと言っていました。
 
 キムさんの家では、なんと韓国料理を作って出してくれました。インドでキムチや韓国風の焼き豆腐や野菜を韓国のコチジャンにつけて、食べられる喜びに感動しました。しかも韓国風の炊き方の豆御飯のおいしいこと、私とチャンさんはとても幸せでした。
 それから3人でプ−ネにある和尚(バグワンシュリ・ラジニーシ)のアシュラムを見に行きました。そこではそこの見学ツアーがあります。広大な美しいセンターでした。
 そこではたくさんのヨーガや瞑想、ダンスのコースが開催されていて、そこにいる人達は皆エンジ色のローブのような服を身に付けています。インドとは思えない西洋風な雰囲気で、見かける人達もインド人より圧倒的に西洋人、インド以外のアジア人が多いのです。私達はツアーを終えて、喫茶店で西洋風のケーキを食べました。ここの一体は完全に西洋化しています。
 そこのオシャレな雰囲気がチャンさんはとても気に入ったらしく、ここにしばらくいるのもいいかもと思いながらも、その一方で、電話を待つ身としては、あそこを動けないという気持もあって、楽しいのと苦しいのが入り交じっているようでした。
 
 私たちはキムさんをプ−ネ大学まで送り、またプーネの街に行きました。チャンさんに勧められ、いくつかパンジャビドレスを選び試着します。するとズボンが異常に長くて
「チャンさん、これズボンが不良品みたい。だからバ−ゲンしているのかなぁ」
と試着室から叫ぶと、チャンさんがやって来て笑い転げています。その笑い声に店員もやって来て事情を察したのか、一緒にニヤニヤ笑っています。
「アキコさん。やぁーだぁー。これは今の流行のパンジャビでパンツはひざ下でひだがいっぱいよってたぐませたままではくタイプなんですよ。アキコさんもそうとうボケが入っていてやぁーだぁー。もうロナワラの田舎者。生徒のおしゃれな女の子達も着ていたわよ。気がつかない。アキコさんは気がつきません」
と一人でしゃべっています。さすがに私も
「失礼しました」
と言って恥ずかしながら笑ってしまいました。そう言えば何度かチャンさんと道を歩いているときに
「ねえ、今の人のドレス可愛かったですねぇ」
とチャンさんに言われても
「えっ、気がつかなかった」
と言うのが私なのです。正反対の2人でも仲良く日々を送っていました。

 

99 電話に飛びつく
 
 その日はチャンさんの勧めで、美しい谷あいを見降ろす場所に立っている5つ星ホテルのサロンと食事に行きました。美容サロンでは ヘナという自然の草木染料による髪染めがあってトリートメント効果もあると言う事で試しました。チャンさんはもうそこの常連で顔なじみでした。そこは5つ星ホテルですから、来ている人達も皆モデルか女優、普通の人でもお金持ちのマダムやお嬢様と言う感じで、私だけが全く異質でした。
 髪を染められてそのまま1時間ぐらい放置されます。けれどそれは学校のナチュロパシーセンターとは違い、ふかふかのソファに座って、インドの高級なファション雑誌などをめくっていればいいのです。
 
 そのあと、テラスでアイスクリームを食べて谷を眺めていると、その美しさにため息が出ます。はるか遠くの彼方にカイヴァリヤダーマ(悟りの里)が見えます。私はおもわず
「こんな優雅な時間もインドにはあったんですねぇー。あの学校で学生していたなんて、遠い昔の様ですね」
と言うとチャンさんは
「ホント。でもアキコさん。私はいつもここに来ていたから。ああ、今頃アキコさんは授業に出ているんだろうなぁ、ってアイスクリームを食べながら思っていたものです。アハハ」
言いました。
『なんて優雅なお人』
と私は思いましたが、私は私で今、あの学生生活を懐かしく思い描くことが出来るのですから、いいのです。チャンさんは楽しそうにしていながら、ときどき何かを思い出したようにため息をもらします。おそらくそれが、恋する人の思いを寄せる人のことを思うときのしるしなのでしょう。ときどき遠くを見るような気持がトリップしているような感じになります。
 チャンさんにしたら、本当は今頃、この私とアイスクリームなど食べてる場合じゃなく、その彼とこの美しい谷を見ていたはずなのかも知れません。
 
 病院の部屋に戻ると、チャンさんの部屋のドアに伝言ノートが挟まっていて、チャンさんは飛び上がりました。私もついに連絡が来たのかと喜びましたが次の瞬間、喜びに輝いたチャンさんの顔が曇り
「あーーー。これアキコさん宛てです。もうまぎらわしいーー。がっくり」
私もなぜかがっくりしました。
「私に誰から?」
と聞くと
「もう−ー。知らないーー」
人のことには興味がないチャンさんは私にメモを渡し、崩れるように自分の部屋のベッドに横たわりました。見るとそのメモはアンジェリカからで
「アキコサン。クティに姿を現わしてください」
と書いてありました。私は『シマッタ』とすかっり試験が終わって、チャンさんと遊んでいて、クティでのお仕事を忘れていたのでした。なんてことでしょう。そんなとき、病院の呼び出しベルが鳴り響き、チャンさんがそれに反応するのがわかりました。するとサーバントが階段を駆け上がって来て、チャンさんの部屋を覗き「電話」と言いました。これで決定です。そしてチャンさんは飛び上がって、階段を走り降りて行きました。そしてサーバントは立ちすくんでいる私にも「あなたにも電話」と言いました。私は「なんで?」と意味がわかりませんでした。
 

100 待ちわびのブルース
 
 電話だと言われて走って出た電話口でチャンさんは、何か要領を得ないような受け答えをしていました。そして電話の所から私に向かって
「アキコさん。ジェンさんから電話。あぁーー」
と落胆しています。ジェンさんというのは、この学校にしばらく聴講生として滞在していたヨーガ教師夫婦で、デリーに戻っていましたが、私達が卒業し帰国する前に「さよなら」をわざわざ言う為に電話をかけてくれたのでした。どうも私にも電話と言われたときにどうしてだろうと思ったのは、相手がチャンさんのロマンスの相手ではなく、2人共通のクラスメートだったからです。そのあとは、もうチャンさんは上の空、彼等が電話口で「試験はどうだったとか、自分達のことは忘れないで、とかデリーに遊びに来るように」と言うことにもほとんど無関心でした。
 
 電話を切って2人は、部屋に戻りました。チャンさんは元気がありませんでしたが、電話がかかるとしても夜なので
「アキコさん、明日はムンバイに行きましょう」
と気を取り直して言いました。私も電話のことには触れずに
「そうですね。じゃ、明日」
と答えて、シャワーを浴びてクティに行きました。断食中のスワミはスッキリした顔で私を迎えてくれました。学校の生徒もほとんど故郷に帰ったためにプージャ(お祈りの儀式)の人もまばらでした。
 スワミは私に聞きました。
「帰りの飛行機はいつか」
と。私は
「5月2日です」
と答えました。スワミは言いました。
「それではそれまで、夕食後はここに来なさい。これからあなたが日本でどうするか、私達がどうあなたに協力できるか、考えるから」
と私の将来を心配してくれている様でした。そして
「チャンは帰る日を決めたのか、知っているかね?」と聞いたので
「まだ決めてない様ですし、まだしばらくインドにいるみたいです」
と言うと『ほーー』という顔をしました。
 それからインド最後の日まではあっというまでした。そして暑くなるのもあっという間で、日増しに日中の気温は上昇し、昼間歩くとすぐに汗ばみフーフーします。私はチャンさんとムンバイに行き、楽しい時間を過ごし、先生方にさよならを言い、暖かい言葉で励まされました。
 
 ヨーガスートラのシャルマ先生は
「よく忍耐強く私の授業につきあってくれて深く感謝している。今度は日本であなた自身がヨーガスートラの注釈書をあなたの言葉、考えで書きなさい」
と言って下さいました。解剖学のバグワット先生は
「私達が手伝えることがあったら言ってくれ。教えながら経験を積んでいくことが重要だよ」
と言って握手しました。心理学のボガール先生は
「重要なのは瞑想だ。何かが人生に起きても、瞑想が助けてくれる。あなたの人生に5年後に家族に何かが起きるかもしれない。けれど瞑想していれば乗り越えられるから」
と言いました。研究所のボンデ先生は
「あなたのように真剣に取り組めば成功するだろう。何年か後にまたインドにいらしゃい」
と笑顔でさよならを言いました。

 

101 さよならインド
 
 最後の日、クティではスワミがわたしのために、キール(甘いミルク粥)を作ってくれていました。私がそれを好きだと知っているからです。そしてそれを食べながらスワミのお話を聞いていました。
「日本に戻ったら、家族を大切にして仲良く暮らしなさい。あなたはいい人達に恵まれているから。自分のことだけに走らないように気を付けて、ね。そして私達の仲間としてお互いに支えあえるいい関係を保てるだろう。インドに来たときはここに滞在すればいいし、またここで勉強もできる。気を付けて日本に帰りなさい」
とスワミは親身になって話をしてくれていました。私は感動し涙がこぼれそうでした。私はここで親切にされ、多くのことを学ばせていただいたと、深く感謝して私はスワミに「ナマステ」さよならを言いました。
 
 クティから病院への道を一人戻りながら、ここでこの道を何度も歩き過ごして来た事、そのことを思いながら胸はいっぱいでした。そのとき夕闇がインドの空を包もうとしていました。白い服でお祈りに通ってたことが、懐かしく心清まる純粋な時間だったと心のそこから思う事が出来ました。
 荷物をまとめて、飛行場まで行くタクシーを待っていると、サーバントのバワンが呼びに来て、荷物をタクシーに運んでくれました。チャンさんが
「アキコさん、アキコさんがいなかったら、ここに最後まで滞在できなかった気がします。最後に抱き締めてもいいですか?」
と言って私達はしかっりハグしました。
「チャンさん。私の方こそ、チャンさんのおかげで楽しく日々過ごせたし、色々とても助けてもらって本当にありがとうございました。元気でインドでの生活を続けてね。どうなったか進展の状況もファクスしてね。楽しみにしています。電話が早く来るといいね」
と私も感動して言いました。
「電話が来るまでここにいます。皆にいつ帰国するんだと毎日のように聞かれて、答えようもなくて『まだ、わからない』とか『決まっていない』とか言うと『まったく』と笑われている。今日、学校の本屋に教科書買いに行ったら、『学校が終わってから買いに来る人は初めてだ』と大爆笑。私はいったい何をやっているんだい」
と自分で言って自分で笑っています。彼女の今後の展開が気になる所でしたが「ナマステ」を言ってタクシーに乗り込みました。
 
 手を振っているチャンさんとバワンの姿が小さくなり、やがて見えなくなりました。バワンは掃除人としていつも私の部屋を掃除し、ヒンディー語の練習相手でした。ときどき、お金を頂戴とやってくる困ったやつでもありましたが、本当に貧しく教育もなく、でもいつもにっこり笑って、「ごはんの時間」と呼びに来てくれました。
 ロナワラの見なれた町中をタクシーが走って行きます。そして町中を過ぎると谷にさしかかり、高原から下の街の明かりが美しく闇に浮かび上がります。タクシーは山道を回るように降りていき、ムンバイへと向かって行きます。
 これで留学生活も終わり、留学しようと決断した事は間違ってはいなかったと思えました。もちろん、すべてが納得できた訳ではありません。けれど人生におけるある時期こういう時を過ごせた事は、幸運だったと言えるでしょう。辛い事もあったはずなのに今はそれを思い出せないでいました。

 

102 ムンバイの飛行場についてみれば
 
 インドの思い出に浸っていると、すぐにインドの現実が私を目覚めさせるのです。まずはタクシー運転手。彼はククさんの所の運転手ですから、何度も顔を合わせヒンディー語でも会話し、家族の話などもかわし、私としては知り合いのつもりです。けれどインド人との付き合いには、そういう情が積み重なっていかない現実があります。最後だからいい関係で「さよなら」したいのに、最後だから少しでもお金をとろう、とする人達がいます。彼はタクシー代を100ルピー多く要求しました。私はショックでした。仲良しだと思っていたのに。インドは感傷になど浸っていようものなら、ガツンと1発やられます。
 私はもうここで彼と戦う気にもなれず、辛い思いでタクシーを降りました。貧乏な生活をしている彼にとって、遠いはるか彼方からヨーガの勉強に来る事が出来る日本人は、夢の世界のように信じられないことなのかも知れません。インドで一歩外の世界に出てみれば、そこは貧しさと貪欲の渦巻いている状態で、ヨーガ大学は守られた特殊な場所だったのかもしれません。
 
 タクシーを降りると、外人目当ての荷物運搬人が飛行場カウンターまで荷物を運ぶと駆け寄ってきます。そして平気で嘘を言い、「ここからは私達が荷物を飛行場まで運ぶ必要がある。飛行場のカウンターまでは距離があるから、ここに荷物を置くように」
と、「幾ら?」と聞くと「100ルピー」と法外な値段を言います。断って自分で運ぶと飛行場の建物の入り口は目と鼻の先、しかも荷物運搬人は中には入れないのですから、カウンターまで運べる訳がなく、五メートルの距離に100ルピーとられるところでした。
 もうどんな目にあっても、すぐに立ち直るすべを身に付けていました。ビ−マン・バングラデッシュ航空のカウンターに行くと、荷物重量オーバーで追加料金を払うように言われました。もうルピーも余っていなかったので、トラベラーズチェックを交換しなければいけないかと思ったところで、チャンさんからのアドヴァイスを思い出しました。
 
 私が帰国の荷造りをしていた時、チャンさんがいて
「これでは本が多くて重いから追加料金をとられるかもね」
と私が言うとチャンさんは
「だいじょうぶ。もし言われたら、私は45キロであの前の人は75キロじゃない。30キロ分は荷物は大目に見てと言えばいいんだから」
と自信満々に言いました。その時は笑っていましたが、確かにと納得し、その場面で私はとっさに
「私はルピーを持ってません。私は45キロで前の人は80キロはありますから。私の荷物の25キロオーバーは許して下さい」
とビ−マン職員に言ったら、彼は一瞬目が点になり、そしてしばらく言葉を失い
「私は頭が痛くなって来た。早く行ってしまってくれ」と手で行け行けと合図しました。私も成功するとはびっくりしました。『ラッキー』と荷物を全部預けて身軽になってチェックイン出来てしまいました。
 夜中にビ−マンはムンバイを飛び立ち、バングラデッシュのダッカへと向かいました。そこでなんと8時間のトランジット。つまり8時間何もない空港でひたすら次の飛行機に乗り換えるまで待たなければなりません。でももう待つ事の修行はたっぷり積んで来ているので、ソファに横になり6時間ぐっすり眠りました。我ながら大胆です。

103 慣れと言うものは恐るべし
 
 イスラム教国であるバングラデッシュの首都ダッカの飛行場は完全なる男性社会で、女の人達があまり外に出歩かないために、飛行場でもほとんど女性の姿を目にしませんでした。それはインドに今回来たときもここに立ち寄りましたから、もう分かっていました。最初の時は『ダッカは不気味じゃ』などと独り言を言っていたのに、今回はソファで寝てしまう大胆さ、慣れとは恐ろしいものです。
 私はそのときチャンさんのように美人でなかったことに感謝していました。チャンさんだったら危険だったかもしれません。人々の注目の的になってしまいますから。私は誰に邪魔される事なく、眠りにつき、目がさめた時はお昼の時間になっていました。空港職員が見るに見かねてか、心配したように私の所に来て
「もうお昼だから上のレストランでお昼を食べなさい。上にはラウンジもあってくつろげるから」
と教えてくれました。
 
 私は周りの人々の視線を感じ、枕にしていたバックを持って、レストランに行きました。この飛行場にはレストランは一つだけ、お店は三つしかありません。お店もお土産物屋とは呼べるような店ではなく、一つは革靴屋、一つは電気製品屋、一つはスナック菓子などを売っているキオスクみたいな小さな店です。それもいずれも小さなショウケースに10個ぐらいの商品が並べてあるだけで、一目でウインドウショッピングが終わってしまいます。つまりは何もすることがないのです。
 レストランは期待していなかったわりには、美しく広く、居心地もサービスもよく、しかもお客さんは私一人でした。ラウンジのソファも上等でお茶やジュースが用意されていました。私はバングラデッシュで最後のカレーのランチを食べ、デザートはフルーツヨーグルト。そして紅茶を飲んでゆったりした午後のひとときを過ごしました。
 
 何もないダッカの空港で8時間過ごした後で、私は再び飛行機に乗りました。そしてタイのバンコックへ。そこは一時間のトランジットですが、免税品店などたくさんありました。けれど元来買い物にあまり興味のない私なので、ただ腰や足が疲れないように、ふらふら歩き、 ヨーガのポーズなどしていました。それから飛行機はシガポ−ルに。そしてやっと成田へ向かうのです。さすがに疲れ、飛行機に飽きていました。その間何度機内食が出たかもわからず、時差のことなどもあり、時間がどのくらい経ったのか、朝なのか夜なのか、訳が分からなくなっていました。
 飛行機は空いていました。おそらく朝成田に着く予定だから、寝ておいて、日本時間に体を合わせる準備に入りました。そうして、日本が飛行機の窓からはるか下に見えた時、「ああ、帰って来た」と思いました。ビ−マン航空だとインドはとても遠くに感じます。「いったい何時間かかっているのだ」ともう数えるのにも疲れて、今日はいったい何日なのかもよくわかりませんでした。
 
 日本は五月に入っていました。成田に着いた時、最初に思った事はなんて清潔ということです。そしてシャトルバスに乗ったとき「手すりにおつかまりください」というアナウンスが流れ、私は「なんて親切」と感謝して思わずしっかり手すりにつかまってしまいました。そういう丁寧なアナウンスを聞くのが久しぶりだったのです。

 

104 そうして思う事
 
 成田にはKさんが迎えに来てくれていました。
「あきちゃん、御苦労さまでした。よくがんばったね」と言われ、握手したとき涙が出そうになりました。
私達はレストランで朝食を食べて、インドでの出来事、日本での出来事を話しました。
 電車に乗って帰る時、日本の風景、日本の人々の服装が地味に感じました。電車や駅がきれいで、ゴミひとつ落ちていないことに「ほーー、きれい」といちいち言ってしまうのでした。
 
 他の国で暮らしてみる事の良さは、日本のいい所に気がつけることにもあります。けれど日本では当たり前のことが異常な事に感じたりもします。私は留学中テレビも電話も自分の部屋にない生活をしていました。けれど日本で電車に乗ると、電車の中で小さなテレビで情報を流しているし、携帯電話で人々は電車の中でも話ています。私達は色々なものに依存して生活しているのです。
 洗濯機も掃除機もない生活から、便利な日本に帰って来ると、合理的な生活はとても便利で楽です。けれど人々は忙しく、この国の人達は生活のために生きています。生活の為の勉強をしています。それは外の世界で生きていくための技術、すべを身に付けているのです。心は置き去りです。自分がなく、それぞれの生が生き生きと感じられないのです。
 同じような無表情で人々が電車に座っています。人生の行くべき方向も定まらないまま、とりあえずの生活の糧を得る為の場所へと押しながされて行きます。羊達の群れは餌を得る為同じ方向へと流れて行きます。私だけが群れから離れて、それを見ているような錯角に陥ります。
 
 私はヨーガを通して「自分自身を生きる事」を学びました。忍耐し、沈黙し、喜びをもって、実践し学んでいく事、生活していく事を学んでいます。自分の生が輝くように、自分自身を理解できるように、そして肉体的、精神的に自立し自ら養っていけるように、自分を修練していく方法を学びました。
 インドは貧しく、日本は豊かです。けれど日本は内側からの輝きを失っています。表面的な一時的な快楽に身をゆだねています。誰も探究していません。自分自身を探究する事を忘れています。何かのラベルによって自分を価値付け位置付けようとしています。
 輝く太陽の光に感謝している人の姿を日本で目にする事は難しく、夕日に祈りを捧げる人、その美しさに心を奪われている人の姿を目にする事もありません。月の神秘的な光にインスピレ−ションを受ける人、星の輝きに音楽を感じる人が、この国に何人いるでしょうか。特に大都会では人々の心は渇いています。
 
 私達は自分自身につながっていないのかも知れません。どこかで自分自身から切り離されているのかもしれません。肉体と言う器だけが衣をまとってさまよっているのかもしれません。
「あなたは誰ですか?」
「あなたはどこへ行こうとしているのですか?」
私達は沈黙して考えた事がありません。でも本当は皆知りたいのです。私は何の為にここに今いるのか、ということを。そしてどこかで気がついているのです。それは誰に聞いても答えを得られないのだと。ヨーガで体と心を調えて、快適にシンプルになって、静かに呼吸を調えていると、何かに触れる気がします。自分の内部の何かに。

 

105 卒業
 
 日本に戻り、私はヨーガのクラスにも復帰し、留守の間にクラスを受け持ってもらっていたインド人の先生の困った行動を皆から耳にしました。彼はいい人でハンサムで熱心だったけれど、何しろ遅刻魔で、しかも常に携帯電話を持っていてそれが授業中に鳴って、それに出てしまい、長話をしていたと。
 私は驚いてしまいました。遅刻するのはとてもインド的です。そして携帯電話を使うのはとても日本的です。インド人は時間の考え方が違います。インドタイムと言うものがあって、日本人は何時から始まるとわかれば、その何分か前に来て始まるのを準備したり待ったりします。けれどインド人にそういう考えはないようです。そしてときどきインド人は嘘つきです。一度彼は授業中に電話が鳴り、話していてヨーガクラスが終わる時間になってしまったといいます。生徒の一人が怒って問いただした所、彼曰く
「緊急でした。インドの大統領からの電話だったので」
と。なんと言う大胆な言い訳。もちろんそれが絶対嘘とは言えません。けれど???
 生徒さんも思わず呆れて笑ってしまったといいます。私も聞いた時吹き出してしまいました。色々御迷惑をかけましたが、皆にはインドを少し味わってもらえたのではないかと思います。そして私がインドで勉強できたのも彼が私の代わりを引き受けてくれたからなのです。私は深く彼に感謝しています。
 
 しばらくインドの学校からは何の連絡もありませんでした。2〜3ヶ月した頃でしょうか。クラスメートから手紙をもらいました。3〜4人の生徒が「卒業おめでとう」と「ファ−ストクラスで2番おめでとう」と書いてきました。私は何のことか良くわかりませんでした。けれどどうやら彼等は試験結果と卒業証書を受け取ったらしいのです。それからしばらくしても何も届かないため、私は学校に電話してみました。すると私の名前を言っただけで
「オオ、アキコ、ファーストクラス、2番2番」
と誰だかわからない人が電話口で叫んでいます。女の人なのですが、誰だかわかりません。すると
「校長先生を出すから、ちょっとそのままそのまま」と言ったかと思うと、急に男の人のこれまた大きな声が、確かに校長先生の声です。
「オオ、アキコ? 良くやった。おめでとう。あなたは7人しかいないファーストクラスでしかもクラスで2番だった。女子で一番だ。通常ならあなたの成績は一番だけど、何しろ学校創立以来の秀才スバーシュ(スワミ)がいたからね。彼が一番だったけれど。留学生で2番というのは、私は誇りに思うよ」と矢継ぎ早に言い、私が何か言おうとするのも遮り
「オオ、ところで、元気かね。日本はどうだ。何をしている。家族は元気か。こちらは皆元気、新学期が始まろうとしている。今年は留学生はいないけれども。それでは元気で、叉インドに来るように。カルカッタに来るときは、私の親の家に滞在しなさい。それじゃね」
と一言も話さないまま切られようとしています。私は焦って
「私は何も受け取っていませんが」と言うと
「今、送ろうとしている所だ。2番の御褒美の本も届くから楽しみにね。ではまたナマステ」
「ハァ、ナマステ」ということで無事に卒業出来たようでした。 

106 インドは忘れた頃にやって来る
 
 それからしばらくして、インドから封筒と小包が届きました。手にするとインドの匂いがします。
「オオ、インドは忘れた頃にやって来る」
と言うのが私の率直な印象でした。その中には卒業証書と私の全科目の試験結果とクラス全員の試験の総合点と順位が書かれたものが入っていました。
 私が2番だったのは驚きです。言葉の問題があるからです。けれど通知表のようなものを見るのは、久しぶりなので新鮮でした。さすがにスワミと呼ばれていたスバーシュはダントツ一位です。日本だと大体上位には女子が並びますが五番までは私以外は男子でした。仲良しのヨギータは16番目でした、彼女はグジャラートではいつも一番で新聞にも名前が出る優秀者ですから、一番をとれなかったことは残念に思っているでしょう。彼女はとてもがんばり屋で負けず嫌いですから。
 
 インドではファーストクラスで卒業したかで、大きく就職に差が出る為、皆、勉強していました。余裕のスバ−シュだけが私に
「アキコ、成績や証明書など僕には関係ない。おそらく親に一度は見せるだろうけれど、それ以外に人に見せる事もないだろうし、自分で見る事もないからね」
と言っていました。つまりエリート会計士だった彼はもうヨーガ行者になると決めていますから、就職も成績も関係ないのです。この世の中は皮肉です。就職にいい成績がどうしても必要な人達が、ファーストクラスをとれずにいるのですから。
 インドは人口が多い為、就職は難しく、得にここに来ている人達は、大学で教えたい人達が多く、すでに何人かは学校の先生、クリニックで働いている人達です。インドも学歴社会なのだと思いました。全員の成績順を一覧表で発表するのですから。
 私はその表を見ても名前と顔が一致しない為に、数人の人の名前しかわかりませんでした。そこでチャンさんはどうだったかなと見てみると、名前がありません。そして一覧表の下には、受験生徒数39、卒業者38となっていました。私は意外でした。彼女は運がいいのですから。それになんでもアバウトなインドが落第させるとは、思えなかったのです。もちろん途中で止めた生徒は2人いました。でも彼女は最後までいたのですから。
 
 それで思い出しました。その後チャンさんはどうしただろうと、インドで別れてから4ヶ月以上経とうとしていました。あれからロマンスの相手から電話はあったのだろうか、今はどこにいるのだろうか。連絡してねとは言いましたが、とても連絡マメ、筆マメとは思えません。あのお相手以外に対しては。けれど私は確信していました。今年卒業できなくても、彼女はめげる事もなく、来年またインドに受けにいくのだろうと。なにしろ彼女は暇なのですから。
 クラスメートの何人かは手紙で近況を知らせてきました。けれど皆、まだ就職は見つかっていないようでした。ヨギータは再び大学でヨーガを教えはじめ、ヨーガの本のポ−ズのモデルになったり、外国にも教えに行くと活躍している様でした。ジョ−ジはシルビアを彼の家に連れて行き、彼女は今ブラジルでヨーガのセンターを大きくし、彼は福祉の方に進むということでした。  
 私はと言えば、ヨーガ大学で学んだことをノートし直し、まとめながら復習し、今後の研究の予定などたてていました。
 

107 チャンさんからの突然の電話
 
 その翌年の五月だったでしょうか。ロナワラのヨーガ大学のスワミ・マヘーシュワラナンダ師が来日しました。佐保田先生生誕100年の催しで、招聘され、講演をすると言う事でした。その後日本各地で講演、ワークショップなどをして、最後東京で集まりをするので、そこでインド音楽の演奏をしてもらえないかと頼まれ、参加する事になりました。
 
 そんな頃、突然電話があり、それは何とあのチャンさんでした。
「アキコさん。憶えていますか? 私の事」
と懐かしい声がしたとき、思わず私は笑ってしまいました。チャンさんも明るい声で笑っていました。
「わぁー、元気?久しぶりですね」
と私が言うと
「アキコさんは、超越してるから、もう過去の事は忘れて、私の事も憶えてないんじゃないかと心配してましたけど」
と言われてしまいました。確かにほとんどのクラスメートのことは忘れていましたが、チャンさんのことを忘れるのは難しいものがあります。
「あれからどうしましたか?」
と聞くとあの懐かしい『うふふ』の笑い声のあとで
「エーーー。キャー−ー。恥ずかしい」
と一人で興奮しています。
「あれからグジャラートのスワミ(ロマンスの相手)
から電話があって、ムンバイで会ったんだけど、すぐにアメリカに行く事になっていて時間がなかったの。だから私は帰国する事にしたんだけど,スワミはコレラになって結局アメリカにはいけなくなって、もう何が何だかよくわからなかった。そして私は今年も試験をロナワラに受けに行ってきた。皆、元気だった。私はまたもや、提出課題を今期のいちばんハンサムな男の子にやってもらって、なんとか切り抜けたと思います。スワミにも今回会いに行ったけど、今度日本に行きたいと行っていました」
とチャンさんは照れながらも嬉しそうでした。
「その時は家にも遊びに来てね。逗子の海岸を散歩するのはどうですか?」
と言うと
「わぁーー。嬉しいーーー」
と喜んでいます。しばらく留学中の思い出話しに花が咲き、時を忘れて笑い転げていました。
「あれからどこにいたの?ヨーガ教えてる」
と聞くと
「今、大阪にいるんです。何もしてませんでした。なんかインドから帰ってぼーーとしてて、それから試験受けに行って、またのんびりしていて。インドの皆はニーラジとニヴェディタが結婚し、バビタマダムとデシパンデ先生が結婚した。ミタはブルーノと別れてバビタマダムの代わりにヨーガを教えていた。後は皆パッとしないみたい。マヘーシュワラナンダさんが日本でのスケジュールはアキコに聞けと言っていたから、関西でも講演するんでしょう。ちょっと顔見せようかな、と思って」
と言いました。そしてまた連絡してねと約束して電話を切りました。
 その後スワミが東京にいらして再会すると
「今度はチャンは受かったようだ」
と言っていました。皆口々にチャンは京都の講演会場に全身ピンクで突然現れおおいに皆を驚かせたと言っていました。やはり彼女はなんとも目立つそして不可解なけれど愛すべき人です。

 

108 そうして扉は開いていく
 
 人はそれぞれの人生を懸命に生きています。純粋な気持で自分を調えていると、自然に扉が開いて「こっちですよ」と行き先を教えてくれるような、そんな気がします。間違った扉が開かないようにするのは、純粋でいることだと思います。人はときに自分勝手な欲望に突き動かされます。どこか不純な思いでいる時、間違った扉が開いて「こっちにおいで」と危ない声がします。
 日本にいると安全だし守られているので、扉に気がつかないかも知れません。けれどインドに行く時はいつでも、いろいろな条件がそろわないと行けないのです。いくらあがいても行けないときは行けないのですのです。自然に扉が開くのです。いつでも私達の人生は選択を迫られます。けれどそのとき、純粋な思いで静かに心を調えていると、自然に進むべき道は見えて来ます。
 
 私はインドに導かれる時、あるいはインドで生活している時、何か見えないものに導かれているような気がしました。人は祈る時、自分の欲望を叶えられるように祈ります。けれどそれは祈りではありません。自己を明け渡し、純粋になる事が祈りです。そのピュアーな状態になったとき、正しい扉が開くです。
 人生は渾沌とし、悩み、どうしたらいいのかわからなくなる事があります。けれど私達は過去を変える事も未来を心配することも出来ません。記憶の中であれこれ考えて生きている限り、心は定まる時を持ちません。ただこの瞬間に生きるしか過去の記憶、未来の不安から解放される方法はないのです。
 
 私達は傷だらけでこの人生の交差点に立ちすくんでいます。いつ、どちらの方向へ一歩を踏み出したらいいのか皆目見当がつきません。
けれどヨーガは私達は本当は傷付いてなどいない、本当は純粋な存在なのだと教えてくれます。
「あなたはあなたのままですでにすばらしいのだと、ただ気付きなさい、あなた自身に」
と言っています。
 インドに行くたびにいろんなことに遭遇します。それは未知との遭遇です。それが私の道でもあります。いろんな事、いろんな人に遭遇する時、私の心はどのように反応するのか、どのようにそれに対処し解決していくのか、それを観察しています。あるいは自然に解決されていくのか、どのような流れになっていくのか見ています。
 どんなときどんな直感が働くのか、どのように扉が開いていくのか。開いてない扉にドンドンとノックするとドアの向こうから声がします。
「あなたは誰ですか?」
私は答える事が出来ません。
「私は誰か?」
そうして扉は自分の内側へと開いていきます。自分自身に出会う為に。