現代ヨーガアシュラム・赤根彰子 / ヨーガ大学留学記

赤根彰子のインドのマハラシュートラ州立カイヴァラヤダーマ・ヨーガ大学留学記
「そうして扉は開いていく」


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インドの弓楽器エスラジ奏者&electro-acoustic musisian・向後 隆のstudio Yatrah


1 そうして扉は開いていく

 いつもそうなのです。決断は扉が開いた瞬間には、もうすでに一歩を踏み出しているのです。それは何か見えない力に引き寄せられるように「こちらへいらっしゃい」とまるで声が聞こえるかのように、道がつながっていくのでした。私が決めているように見える事柄も、すべては仕組まれていた、あるいはもう決まっていたのではないかと、後になると思えてくるのです。

 今回もそうでした。突然決まったかに見えた私のインド留学も、そこへの道程(みちのり)はもうずっーと前から始まっていたのかも知れません。ある日、ヨーガの生徒さんが、あるお寺の本堂で、ヨーガのクラスが始まる前の時間に一冊の本を私に見せてくれました。それはインドのヨーガ大学のテキストとして使われているという本で、ヨーガ大学というものが存在することを、そのとき知ったのです。
 それまでインドには3回ほどヨーガの修行に行っていた私ですが、ヨーガ大学があるというのは知りませんでした。そして私は「そうだ。今度行くべきところはそこかもしれない」と直感し、そこで即、留学することを決断したのでした。あっと言う間の出来事でした。しかし決めたと言っても自分で勝手に決めただけで、果たしてどうすれば留学できるのかそのときはすべては謎だったのです。

 そこで日本では今2人しかいないそこに留学した1人に連絡をとり、留学にはどんな資格が必要なのか電話で尋ねました。
「4年生大学を一定の成績以上で卒業していること。英語で授業を理解出来て、筆記試験は英語で行われる。授業はヒンディ語と英語でおこなわれ、ヒンディ語とサンスクリット語が出来ることが望ましい。」
と言うことは、私は大学院を出ていたのでそこは問題なし。ヒンディ語とサンスクリット語は大学院のとき勉強したけれど、それはもう15年も昔のこと。「んんーーー」とうなったものの、即ヒンディ語の勉強を再び始めることに決めたのでした。まずは、ヒンディ語の講座を見つけることーけれど日本のヒンディ語を学ぶ人の人口は極めて少なく、それでも5つ程、ヒンディ語クラスを見つけました。しかしどれも私の受け持つヨーガのクラスと重なっていて通えそうにありません。あきらめかけた私でしたが、友人がある人を紹介してくれ、その人に電話すると、その人が私にヒンディ語を教えたい人が一人いるから、家庭教師で良ければ紹介出来ると言ったのでした。

 すると、その本人から電話が入り、当時私は逗子の森の中に住んでいたのですが、鎌倉に住んでいるその人は、すぐに私の前に姿を現したのでした。その日は大雨でしたが、「ではこれから伺います」と電話を切り、やがて現れたその人はジーパンに下駄を履いた昔の大学生のような人でした。

 なぜかすぐにヒンディ語の勉強が始められた私は「これはもうインドへの留学の扉が開いている」と嬉しくなりました。いつだってそうなのです。「扉はそのときが来れば自然に開く」と。けれどインドから取り寄せたヨーガ大学の入学要項には「年齢制限30歳以下」と太い文字で書いてあったのです。4捨5入40の私は・・・
「あれ?目の前で扉が突然しまってしまい、おかしいなぁ・・」と唖然。そのときは「私の運命やいかに・・・つづく」といったところだったのです。

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2 それでも扉はインドに開く!

 年齢制限で扉が閉ざされた私は、そのときはインド留学をあきらめたかに思えました。けれどヒンディ語の勉強はなぜかやめませんでした。ヒンディ語の家庭教師は、やる気満々で相変わらず下駄の音を響かせながら、坂のずっーと上の家まで来てくれていました。 彼は発音には厳しく、ヒンディ語の場合、破裂音(発音したときに息が強く出る)がたくさんあって、それを発音するときに、ティッシュペーパーを顔の前にたらして、発音したときにティッシュペーパーが、息でひるがえるのをチェックするのでした。森の中の家で非常に真剣に2人、ティッシュペーパーを顔の前にたらして、発音を繰り返す様子は、客観的に見るとかなり変な感じではありましたが、そのときは2人共やけにまじめだったのです。

 ところが順調に見えたその「お勉強」も突然終わりを告げたのでした。ある日その家庭教師はお酒を飲んだ後に、ヒンディ語を教えに来たのでした。私はすぐに異変に気づきました。彼の頬がかなり赤くなっていたし、顔付きもいつもと違う様子、何よりつらかったのは、破裂音の発音のときに、お酒臭い空気が私の顔面にかかることでした。一切お酒を飲まない私はそれにはびっくり。その後すぐに「留学出来そうにないので」と言う理由でその人が来るのを断ったのでした。

 家庭教師もいなくなった私は「やはり留学への扉は閉まってしまったのかもしれない。留学するなということなのかも」と肩を落としたのでした。
 それなのに私はすぐに他のヒンディ語のクラスを見つけてしまったのです。土曜日は朝は横浜のヨーガのクラスを指導し、夕方は品川でもう一つクラスがあります。なんと横浜の朝日カルチャーセンターのヒンディ語のクラスはその丁度午後のあいている時間に開講されていたのでした。私はまたしても「ああ、この偶然の一致は何か意味するのではないだろうか。とりあえず勉強は続けていましょう」と思ってしまうのでした。夏から始めた勉強ももう冬になろうとしていました。年齢制限は絶対的なものに思えたので、留学はもう無理だろうと頭ではわかっていたのです。

 そしてその冬、私は突然インドに旅だったのでした。南インドにでも行って見ようと思い立ち「インドの最南端にあるコモリン岬に行って、アラビア海とインド洋の合流する聖なる地で、その水平線に沈む夕陽をお祈りしながら見るのもいいなぁ、そして南インドの水郷地帯の奥地にあるヨーガのアシュラム(道場)でクリスマスを迎えるのもいいかもしれない」と考えたのです。そのときはもう完全に留学のことはあきらめていたかのように思えました。

 その頃インドでは、テング熱という伝染病が急に発生して、インドへの旅行を見合わせる人も多いようでしたが、乗り込んだエアーインディアは満席状態でした。私はボンベイ行きの飛行機の中で、ガイドブックを見ながら「さぁて、とりあえずはどこへ行きましょう」とページをめくっていたのでした。そんなのんびりしたことが暮れの忙しい旅行シーズンに通用しないことを忘れていた私は、そのときはそれからインドで苛酷な目に合おうとは思っても見なかったのでした。

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3 どこにも行けない?!

 冬の寒い日本を離れ、暖かいインドに行くのは嬉しい気がしていました。冬の青空にくっきり富士山が見えました。デリーそしてボンベイに向かう飛行機の中で、機内食(インド・ベジタリアンミール)を食べながら、数日前に会った奇妙な友人の言葉を思い出していました。その人は私の前世が見えると言い、戦国時代に武将であった話やタイの宮殿で踊っていたときのことなどをいろいろはなしてくれました。「あなたは魂がきれいだからあなたの人生は大丈夫でしょう」と言いました。ヨーガは魂を磨く法でもありますから、その言葉を聴いて、ヨーガのおかげかもしれないと嬉しくなりました。

 ひとりにやにやしながら、インド食を食べ、もう気分はすっかりインドになって来たところで、ボンベイに着いてどこに泊まるか決めていないことに少し不安になってきました。すると隣の人が話しかけて来てくれて、その人はボンベイで一泊して、次の日にプーナにある有名な和尚(バグワンシュリ・ラジニーシ)のアシュラム(道場)に行くのだと言いました。泊まるところが決まってない私を心配して、その人が予約してあるホテルに行って見てはどうかと誘ってくれました。私はすっかり安心しました。

 飛行機は日本を発って12時間後に無事にボンベイに到着し、飛行場の近くのホテルに一泊しました。次の日飛行場から南インドに行くべく、飛行機の手配をしようとしたら、南インド行きの飛行機はキャンセル待ちが100人以上いると言われ頭がクラクラしてしまいました。「さすがにインドは人が多い」なんて感心している場合ではありません。色々聞いて全部ダメで「ゴア行きならキヤンセル待ちが少ないから大丈夫」というその言葉を信じた私がバカでした。インド人はいいかげんなことを言うということを忘れていたのです。空港で「待つ・待つ・待つ」レストランでドーサなど食べながら、3時間半・・・・で結局席はありませんでした。

 がっくりして飛行機はあきらめ、バスで飛行場から鉄道の駅に行くことにしました。バスを降りてすぐだと言われた駅は歩いて25分もかかりました。インド人はいつもそうなのです。適当に言うのです。で、駅に着いてまたびっくり、駅は人・人・人・人であふれていました。切符予約の窓口は長蛇の列「とても列車に乗れそうもない」というのは一目で分かりました。「なんて人が多いのだろう」とまたしても感心している場合ではありません。

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4 とりあえずは夕日でも見よう!

 鉄道もダメだとなると、次に思いつくのはバスなのです。バスで南インドまで行くのは遠すぎるので(2日以上かかる)、とりあえずアジャンタ・エローラの石窟に行くことに急遽行き先を変更、州政府観光案内所に電話して、アジャンタとエローラの観光の拠点となるアウランガバード行きのバスツアーの席があるか尋ねました。そこのオフィスの人は「あるある問題ない(ノープロブレム)」と軽く言いました。「あー、よかった。ではこれから申し込みに行きます」と電話を切ってタクシーに乗りました。

 ところがタクシーの運転手さんがその場所を知らないのと、英語とヒンディ語が通じず、マラティ語しか話せないのでさあ、大変。やっとのことでオフィスについて「アウランガバード行きのバスを」と電話予約したことを告げると、お兄さんはどこかに電話して
 「ああ、ごめん、ごめん。。今、確認したらもう満席になっていた」と言う始末。「ひぇー、これがインドだぁ。ああ、どうしよう」わたしはどっと疲れるのでした。オフィスの人々は「ああでもない、こうでもない」とワーワー話だし「鉄道なら行けるはずだから駅に行け」と言うのです。「あのねぇー」私はその駅から来たのです。

 トボトボとオフィスを出て「とりあえず、夕日でも見よう!」とアラビア海に沈む夕日が美しく見えるというオベロイホテルに行きました。海岸に赤い夕日が沈もうとしていて、あたりはオレンジ色に染まりとてもきれいでした。ロビーでゆっくり夕日が沈むのを見ようとしたのですが、私はそんなこと言っていられないのです。今日泊まるところも行くところも決まっていないのです。夕日が落ちたら、悲しくこわい夜になってしまいます。で、ホテルのフロントでアウランガバードに行くのはどうしたらいいのかと聞くと、クロフォードマーケットに行くといい、たくさんの旅行代理店があるからアウランガバード行きのバスも手配出来るとおしえてくれました。

 タクシーに乗り、行き先を告げ、運転手さんと話していると、そのおじさんがバスの切符を手に入れてあげるからと言いました。おじさんは「ノープロブレム、心配ないよ」と言いましたが、私はその日一日何度その言葉を聞き、何度問題ありだったか、数えるのも恐ろしく、ただバスの席があることだけをお祈りしていました。
 おじさんは本当にバスの切符を買って来てくれました。そしてバスが来るまでチャイ(ミルクティー)を飲みながら、一緒に待っていて、バスが来ると席まで連れて行ってくれたのです。おじさんは握手して「ボンベイに戻ったら市内観光の案内するから、オベロイホテルあたりにいつもいるから来るように」と言ってバスから降りて行きました。

 5分後にバスはアウランガバードに向けて走りだしました。「何という一日だ。インド的な一日だった。まったくインド的で、インドの洗礼を今日一日ですべて受けてしまった気がする」と、バスのシートに身体を沈めました。「ふーーー」 窓を開け、涼しい夕べの風を受けながら、ボンベイの街は暗くなっていきました。オレンジ色の不気味な明かりに照らし出されてボンベイの街がボーーと闇の中に浮かび上がってきます。

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5 インドでお風呂は天国なのだ!

 10時間のバスの旅はとても苛酷でありました。最後部座席だったので、バスは途中すごく揺れて、足が疲れるので伸ばしたり、その足の具合の良い置き場所を狭いシートで見いだすのにも疲れ、閉める窓がバスが揺れるたびに開いてしまい、冬の寒い夜気が入り込んできてけっこう冷たい思いをしてしまいました。

 「満月はどうやら明日のようですね」
とボンベイの街中を過ぎ、郊外を走る窓の外に黄色い月が出ているのを見ました。そんな静かな私の気持ちをかきむしるように、バスの中ではヒンディ語のビデオがものすごい音量で流れています。そんな中で乗客のナイロビ人とインド人が話しかけ色々質問するけれど、私の声はビデオの音量にかき消されて届かないのです。それでもそのうちみんな眠りにつき、バスは静かになりました。

 朝6:00、まだ暗い中、バスはアウランガバードに着きました。バスの中も冷えていて、降り立った田舎町も寒いのでした。
 「いったいここはどこなのでしょう」
インドでも寒いなんて。オートリキシャに乗ってアショカホテルに朝食を食べに行きました。リキシャマンは10ルピーで行くと言い、それを7ルピーに値切りましたが、アショカホテルはすぐ近くで、2ルピーはボラれてしまいました。
 ホテルでトイレに行き、顔を洗いましたが、髪はボサボサ、バサバサで顔は疲れ、お腹はペコペコでした。朝食はプーリー。
 「ああーインド的な朝だぁー、おいしいー」
  ウェイターが何かと話しかけて来るのです。ヒンディ語を使うと「オオ−.ヒンディ語が話せるの  か?」
 「インド料理は好きか」
質問は永遠に続いて行くかに思えるのです。高級レストランはチャイ(インドミルクティー)はなく、セパレイトティー(紅茶)なので残念なのですが、バスでは断食状態でしたので、生き返るという感じです。

 とても疲れていて寒いので、熱いシャワーを浴びるためにアショカホテルに泊まることにしました。
フロントで値段を聞いてつい日本語で
 「ゲー、高い」
と言ったら、なぜか
 「値引きしてあげるからぜひ泊まりなさい」
と言います。部屋を見せてもらい、お湯が出るのを確認しました。
 「確かにお湯ですーー」
と、インドでは熱いお湯だけで感動できるのです。しかもバスタブ付きなのです。

 泊まることに決め、お風呂に入り、もうすごくリラックス。そのあと疲れをとるためにヨーガをして、最後のシャバアーサナで眠ってしまいました。「インドでお風呂は天国なのだ!」

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6 どこへ行くのだろう?

 午後のまどろみの後で、オートリキシャで、エア・インディアのオフィスまで行きましたが、南インド行きの飛行機はやはりとれませんでした。アジャンタホテルで昼食を食べた後、タクシーで鉄道の駅へ。ボンベイまでは夜行がとれましたが、南へ行くカニヤクマリ特急はボンベイでないと予約はとれないと言われ、「あー、何の予定もたてられないし、行くところも決まらない」ふーーーとため息。

 なので、アウランガバード観光へと出掛けるのでした。タージマハルをモデルにしたビービーカマクバラーに行きます。でもタージマハルは100倍美しく、その日はもう何もすることがなく、「ああ、インドでは一日一つしか出来ないのです。今日は鉄道予約だけ」と、ふーーとまたため息。ああ、赤い夕日が沈んで行きます。暗くなって来たら、黄色い巨大な満月が出て来ました。すばらしく美しいのです。で、開き直ってタージホテルへ。今日はクリスマス・イブでした。クリスマスブュッフェを美しいホテルで食べて「ああ、今日はすてきな一日でした」と、インド的に楽観的になりつつあるのでした。 
 次の日、アジャンタに行きます。バスに乗り込み、田舎道をバスは行き、ブーゲンビリヤの花が咲き誇っています。ほとんど建物も無く遠くに丘が連なっています。いい気分の所で、バスが故障。「またぁー」と言う感じ。インド人は気にすることもなく、なぜか歌を歌っているのです。手拍子までうちながらみんなで歌を歌っているのです。

 アジャンタに着いたときは、12時を回っていました。日差しがとても暑く、汗をぬぐいながら石窟寺院を見て廻ります。菩薩の壁画、ブッダの像、石窟の中でインド人のおじさんがパーリー語のお経を唱え、それが壁にこだまして響いて響いて行くのです。私は第26屈で思わず小さいころから好きでいつも絵に描いていた、ブッダの涅槃像を目にし、流れる涙を止めることは出来ませんでした。古代、ここは深く静かな仏教徒の修行の場所であったに違いありません。なぜ人は紀元前から瞑想していたのでしょう。瞑想が私の人生の鍵を握ると深く思うのです。

 翌日はエローラ観光へ。途中ダウラタバードに寄り、それは1187年のヤータヴァ朝の首都、その城は敵が侵入出来ないように掘りで巡らされ、内部に行くには皮を掘りの上に渡し、すぐにそれをとってしまうことで、外部との隔絶を作るというすごい方法をとっていたのです。城の中は完全に真っ暗で明かりなしには歩けない状態でそれも外的から城の内部を守るためだったのです。エローラは200年かけて岩山を掘ったといわれるカイラーサ寺院がそびえ立ち、圧倒されて声も出ないのです。そこには仏教寺院とヒンドゥー寺院とジャイナ教寺院跡が残っていて、インドの宗教の移り変わりや長い歴史を感じました。石の小さな部屋、僧はその硬い石のベットに寝ていたようです。真っ暗なその部屋で何を思っていたのでしょう。

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7 なんかカーストってつらいのです

 結局アウランガバードから夜行でボンベイまで行くことだけが決まっていた私の運命はあるヒラメキによって、方向をぐっと変えていくのでした。どこにも行けそうにない私は
「あっ、そうだ。あきらめた留学先に行って見るのはどうだろう。そこはヨーガ病院もあって見学はできるかもしれないし、うまくすればヨーガセラピーなど学べるかもしれない」
と思ったのです。と言うよりそれより他に道はなかったのでした。
 
 夜行に乗るとコンパートメントにはインド人のおじさんが二人居て、召し使いが甲斐甲斐しく食事の世話をやいていました。そのおじさんたちは英語が通じず、おそらくマラティ語を話しているようでした。私にも食事を一緒にしろと召し使いに私の食事も用意するように言い付けています。その召し使いのおじさんはとても人相がよく優しそうな笑顔で、立ち居ふるまいも上品で、しかもとても気が利くのです。トランクからローティー(インド風パン)やサブジ(野菜のカレー煮)アチャール(インドのマンゴやレモンの辛い漬物)など出し私に勧めます。私はインドで乗り物に乗るときは、断食と決めているのでインド人の勧めたがりには、親切心からなのでかなり困ってしまうのでした。少し口にしただけで火が吹くほど辛いので、「バスバス(もう十分です)」とヒンディ語で言うと、おじさんたちは嬉しそうに笑うのです。
 
 感じの良い召し使いのおじさんは、私たちが食べ終わってから、列車の床に座って隅の方で食事を済ませました。そのあと私たちが寝台で寝る支度をして横になると、インド人のおじさん達はすぐに高いびきをたて始めました。そして召し使いの優しいおじさんは、寝台ではなく床に敷物を敷いてそこに横たわりました。夜になると冷えて来るし、床では列車の車輪の軋みや振動で体がきついだろうと私はとてもつらくなりました。インドではカーストの違いはまだ歴然と残っていて、慣れない私は心を痛める場面に良く遭遇します。人は平等ではないのだろうか。すくなくとも平等の機会は与えられるべきであると思うのです。生まれながらの差別はつらすぎます。
 
 列車がガタガタ揺れるたびに「眠りづらいだろうなぁ」と私は思っていると、その召し使いのおじさんは、さっき主人からウイスキーを少しもらっていたからか、すぐにすごく大きなイビキをかいて寝てしまいました。私の心配は無用だったようで、そのイビキの音がうるさくて私の方が眠れませんでした。トホホ。
 
 夜行は寒くそれでもそのうち私もぐっすり眠っていました。目が覚めたときはもうすぐボンベイ。朝8時には列車はボンベイの駅に着き、それから朝食をとり、鉄道でヨーガ大学のあるロナワラへの切符を買いました。なぜかその窓口は誰も並んでいなくて、切符はとてもすんなり買えてしまいました。それは拍子抜けするほどでした。やはり私の運命はその学校へつながっているのかもとも思えたのです。でもそのときは留学のことはもうすっかりあきらめてはいたのでした。ただそこにしか今、扉が開いていないという事実だけが目の前にあったのです。乗り込んだ列車は座れるほど珍しくすいていました。

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8 なぜか来てしまいました

 と言う訳で、私はロナワラ行きの列車に座り、やがて窓の外に広がって行くデカン高原の雄大な景色を眺めていました。だんだん列車は高度をあげて高原へと登って行きます。ゆっくりとしたリズムで3〜4時間はゴトゴト走ったでしょうか。途中、目の前には深い巨大な谷が広がり、それはかつて目にしたこともない広大な風景でした。避暑地として知られているロナワラはボンベイ(ムンバイ)のお金持ちが暑い夏を逃れて過ごすリゾート地で、「どこに行くのか?」と質問して来るインド人に「ロナワラ」と答えると、皆が「オオ!ロナワラは美しいいい所だ」とうらやましそうに言うのでした。高原を登って行くので、12月のインドは鼻がぐすぐすして来るぐらい寒いのでした。もちろん私は熱い南インドに行く予定でしたから、成田の飛行場に暖かいダウンジャケットは預けてきてしまったのでした。
 
 そうして運命は私をロナワラに降り立たせることになります。オートリキシャでヨーガ大学のあるカイヴァリヤダーマまで行きます。小さな田舎街という感じがします。大きなビルもなく、小さな店が軒を連ねて、果物や野菜、日常品などを売っている様子が見えます。リキシャマンは外国人と見て25ルピー(約80円)とったけれど、そこは15ルピーの距離だったと後から知りました。「またしてもやられたぁーー」という状態でした。

 まずはヨーガ病院に行き、見学できるか尋ねました。「明日7時にクリヤヨーガがあるから来なさい」と言われ、近くのホテルに部屋をとりました。ホテルで夕食をとり、疲れていたので7時には眠ってしまいました。翌日、6時に起きて、ヨーガ病院へ。洗面所のところでクリヤが始まっていました。水で鼻を洗い、次に細いチューブ(ひも)を鼻から入れ、口から出してゆっくりそのチューブで鼻腔をしごいています。「あらーー」とびっくり。そして水をたくさん飲んで、それをゲーゲー吐き出しています。人によっては、口の中に手を入れてゲーゲーやっています。「あらー、気持ち悪そうで、気持ち良さそう」という複雑な状態なのです。鼻を浄化する方法と胃と食道を浄化する方法が行われていました。

 7時30分からアーサナ(ポーズ)が始まりました。男女別れて実践しています。数人のインド人と外国人が5人ぐらいいます。一人日本人かと思い声をかけるとその人は韓国人でした。ヨーガの後で今、病院に部屋の空きがあるから滞在しないかと勧められました。3食付くしインドのサトヴィック(刺激の少ない)なヨーガ食が食べられるからと言われ、1日6ドルで8日分払いました。インドにしては破格に高い値段で、それは外国人値段でした。朝はインドのトーストとショウガ入りミルクとぶどうでした。昼は、ダール(豆のカレースープ)とニンジン・トマト・ジャガイモのカレー煮、大根サラダ、ライス、チャパティ(インド風パン)ヨーグルト、ココナッツチャツネでした。夜は、ダールとキャベツのカレー炒め、ライス、チャパティ、大根とにんじんのサラダ、ヨーグルトでした。病院のヨーガ食なので、スパイスがひかえてあり、辛くない食事でした。

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9 留学できるのかもしれない

 昼食が終わると、自由時間なので敷地内を散歩しました。広い敷地内に大学、研究所、図書館、病院などがポツンポツンと点在しています。しかもひっそりしています。夕方、夕日を見ながら散歩していると、インド人が「そこを真っすぐ行くとクティ(小さな小屋)があって、スワミジ(ヨーガのマスター)がいるから行ってご覧なさい」と言いました。その人は頭にターバンを巻いていました。シーク教徒の人です。私は牛小屋の脇を通り、小さな階段を上がって行きました。みんながヒンディ語で話していました。6時からプージャ(お祈り)が始まり、皆、サンスクリットのスローカ(お経)を唱えています。護摩炊きのような火の儀式です。意味もわからないまま、そこに1時間ほど座って居ました。そのあと甘い果物のプラサード(お供物)を頂いて、暗闇の中を病院に戻りました。星が夜空に美しく輝いていました。

 夕食が始まると新顔の私に、そこに滞在している人達が自己紹介を始め、スペイン人のカップル、フランス人の女性、韓国人女性1人と夫婦1組、そしてインド人の家族や男性など14人ぐらいいたでしょうか。皆この病院に滞在しているのですが、韓国人の夫婦だけは、ヨーガ大学の留学生だと言うのです。

 『あれーーー、どう見てもこの二人は私よりも年上に見える。一体どういうことだろうか。確か年齢  制限30歳以下、独身というのが条件に入っていたけれど』

 私はそこですっかり忘れていた留学のことを思い出したのでした。そのときはもう完全に留学のことはあきらめていたのですから。でもそこで突然、その人達だけに「いくつですか?」と聞くのも失礼なので、その場では黙っていたのでした。ただ「学校はどうですか?」とだけ聞いてみました。するとその韓国人の旦那さんの方が「いいコースだと思うけど、すごくきつい。インドの生徒達は若いし、言葉の問題もないからね。僕たちは40を越えているから体力的に非常にハードだ。なぜなら食事が違う。韓国では焼き肉をいつも食べていたから、ここに来て10キロ痩せてしまった」と言いました。『40を越えている』私は『?』マークの顔になっていたのだと思います。奥さんの方も「すごくきつい、勉強も大変だし、生活の習慣が違い過ぎるから」と言いました。二人は私が留学に興味を持っていると感じたのか「もし、留学したいなら、十分準備をして来るべきだ。とくに英語、そしてサンスクリット語、そしてヒンディ語。授業はよくヒンディ語だけになり、僕たちは困り果ててしまう。先生にはいつもそれで抗議していてとても疲れるんだ。でも留学生は僕らだけだから、立場が弱いんだ」と旦那さんの方が強い口調で言いました。韓国人の感情的な面を見た気がしましたが、私はついに核心に触れ「年齢制限はないのですか?」と質問しました。すると「留学生は大丈夫。ただ最低4年生大学を出ていることと、語学ができることは問われる。あと試験が出来るかだね」「私は中間試験は落とされたのよ。だから期末試験のプレシャーでいっぱい」と奥さんはとても不安げでした。私は「あらら」とずっこけてしまいました。「留学生は年齢は問われない。ならばなぜ、入学要項にそう書かないのだろう。まあ、それがインドなのだ。ということは私は留学できそう・・」

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10 さぁて、どうしよう!

 決断すれば留学は可能なのかもしれないと言うところに来て、私は「さぁて、どうするの?」と自問するのでした。『それは決まりでしょう。ここに導かれて来た理由はそれしか考えられないではないですか。長い一生のほんの一時期、留学してヨーガの勉強ができることはとても恵まれたことなのだから』と自答する私なのです。ヨーガ病院の一室で私はベットに横たわり天井を眺めながら、私の運命はインドでしばらく暮らすことになりそうだと、方向を変えて行くのでした。 

 翌日、クティ(精神的指導者・スワミの住居)にプージャ(お祈りの儀式)に行くとスワミが日本語で「こんにちわ」と私に声をかけました。私がここに来た理由を英語で聞きました。私が留学したい希望があることを告げると「明日、日本人でここを卒業し、今はプーナで大学院に行っているヒロシが来るから、その人とよく相談し決めなさい」とアドバイスしてくださいました。

 私は留学するとなれば色々考えなければならないこともあるのだけれど、するかしないかはもう運命で決まっていることだから、自然に事は運んで行くのだろうと、なんだかのんびり構えていました。ヨーガでは必要な物は必要なときに来るという考え方があって、純粋な気持ちで欲を出さずに事を運んで行けば、本当に必要な人・道先案内人、必要な物はその必要なときに向こうからやってくると考えるのです。
『とりあえず、明日その人に会ってみましょう』とだけ決めて、お祈りの儀式に参加しました。

 祈りは、人の心を純粋にする効果があります。意味の分からない言葉・マントラを繰り返し唱えます。古代インド語・サンスクリット語の不思議な響きは、火の儀式の炎の火の粉を踊らせるように宙に舞います。

 私は祈りの声の中で、ここに導かれて来たことに、その偶然に、あるいはその必然に気分が何か少し高揚しているのを感じました。
『なぜ、私はここに居るのだろう。そしてサンスクリット語をインド人達と一緒に唱えているのだろう。そしてなぜ唱えられるのだろうか?』 
不思議な感じです。10年前にもインドのヨーガのアシュラムで唱えていたマントラが記憶に残っています。それが唇に自然に蘇ります。サンスクリット語のお祈りを聞いているとなぜか嬉しいのです。見知らぬ国の古代の言葉に心がひかれるのはなぜなのでしょう。お祈りの儀式が終わり、カイバラヤダーマ(悟りの里)の中を散歩してヨーガ病院に戻ります。

 私の人生での役割がヨーガを深めて行くことであれば、私はここで勉強することが必要かもしれない。ヨーガ発祥の地・インドにいると古代からインドで培われた精神性・霊性を感じるのです。もちろんんそれはもうインドでも目にすることは難しくなっていますが。なぜならインドも近代化が進んでいるからです。けれどその人々の祈りの中に、手を合わせる行為の中に何か目に見えない力を感じるのです。人は大切なものを失いつつあります。目先のこと自分のことだけにとらわれて、何か普遍的なもの、全体的なことを忘れつつあるのです。祈りの中に魂のレベルに還るそんなひとときを感じられるインドの瞬間なのでした。

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11 日本人、来る

 翌日、またクティ(精神的指導者・スワミの住まい)に行くとヒロシさんがスワミの隣に座って居ました。なんとも姿勢のいい人で、腰も背中も首も真っすぐ、頭も真っすぐで「ヤーヤー・・・・ハッハッハッハッ」と手をあげて私に挨拶してくれましたが、頭から尾てい骨まで真っすぐなまま、腰のところで前に折れてお辞儀しました。「わぁー、まっすぐな人だぁ」と言うのが私の第一印象でした。
「ヤーヤー、留学したいとお聞きしましたが、それは結構結構。ハッハッハッハッ」
ヒロシさんは7年前にヨーガ大学に留学し、その後もインドに住み、現在はプーナ大学院でインド哲学の博士課程在学中とのこと。
「ヤーヤー、インド滞在も長くなりました。今年で7年目です。インドに来てすぐに帰れる人とインドでの長い療養が必要な人と色々ですから。私は長く療養の必要な組だったんですねぇ。ハッハッハッハッ」
「はぁ」
 私はそれがどういう意味なのかよくはわかりませんでしたが、実際インドにはまってしまう人は、インドから離れられないということはよく聞きます。けれどヒロシさんが言っているのは、何かインドで癒される必要がある人たちは、そのリハビリが長くかかり、日本にすぐには社会復帰出来ないと言うようなニュアンスでした。
「ヤーヤー、私は今は日本に所属する場所がありませんからハッハッハッハッ」
『ふぅーん』

 私にはその事情はよくはわかりませんでしたが、わかったことはヒロシさんが話すときは最初が「ヤーヤー」で最後が「ハッハッハッハッ」であるということでした。そしてその「ハッハッハッハッ」のときも頭から尾てい骨まで真っすぐなままなことです。
 やはり長くインドでヨーガをしている人はからだが真っすぐなのだと感心するものの、その隣にいるスワミ(精神的指導者)が腰が曲がって居ることに気が付いた私は、精神的指導者はそんなことも超越しているのかと「ふぅーん」と複雑に感心し、それでも姿勢はいい方がいいよねと姿勢を正すのでありました。
「ヤーヤー、ところで留学するにあたってはいくつかのアドバイスがあります。まぁ、日本で修士を出ておられるのなら、ヨーガ大学を卒業後、プーナ大学の博士課程にぜひ留学なさい。大学院の留学なら奨学金ももらえますから。ハッハッハッハッ」 
「そんな先のことは何も考えていませんので・・・」
と私が言うと
「ヤーヤー日本ではヨーガが健康体操のように誤解されていますから、きちんとした指導者が必要なのです。ヨーガの先生を養成できる指導者が必要です。それには基本的なことをこの学校でおさえておくといいでしょう。そのあとはぜひともプーナ大学でヴェーダを学ばれることをお勧めします。しかし日本ではヴェーダに関しては需要はないでしょうなぁ。ハッハッハッハッ」「はぁ」
と私。それからヒロシさんのインド哲学の講義が永遠と続いて行くのでした。それはなかなか興味深いものでした。

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12 昼寝でもしよう!

 日本人の卒業生であるヒロシさんとの長〜い話を終えて部屋に戻った私はランチをすませて、インド的に昼寝でもしよう!とベッドに横になりました。
「留学するのも悪くはなさそうだ」
という感じでしたが、インドに長く居る人もいるものだと感心しつつ、またしても私はなぜここにいるのか、どうしてインドなのかと首をひねる思いもありました。そしていつもインドに導かれていくのです。一時アメリカに留学することを考えたこともありました。けれどそのときはなぜか周りの人達は皆
「なんでアメリカ?」という反応で、しかもどこからのサポートもなく、事もスムーズには運ばず、という状態で、わたしの父などは
「君〜、アメリカに留学する人なんていっぱいいるんだよ。君が留学するとしたら僕はインドだと思うけどね。そうだよインドだインドだ」
などど申す次第で、そのときはインド留学のイの字もないときで、そのときは『変なおやじ』と思ったものの、彼は予知能力があるなかなかのすごものなのかも知れないと見直し、
「なぜインドなのだ?」
と自分に問いかけてみます。その答えは簡単でした。
「それはヨーガの地だからなのです」
明確な答えが出たところで
「昼寝でもしよう!」
と食べた後ですぐに寝るのは良くないのではともう一人の私がささやくのを無視して『インドにあってはインドに従え』と目を静かに閉じるのでありました。
 目が覚めて私はヨーガの本を買うために、構内にある本屋さんに行くことにしました。ヒロシさんはヨーガ大学で使われるテキストが本屋さんにあるから、予習しておいたほうがいいですよ、とアドバイスしてくれていたのでした。
 
 部屋を出て歩いて行くと、向こうから日本人らしき人達が歩いて来ます。その中の一人の女性に見覚えがあるのですが、名前が出て来ません。その人は日本で有名なヨーガの先生で、一度ある会合でお話ししたことがある方でした。その先生も私のことは覚えていて
「あらあら、まあまあ」
とこんな所で再会するとはお互いびっくり。その方はヨーガの研究機関の調査で、福井大学の教授とカメラマンとインド人のガイドの4人でインド全土をまわり、ヨーガの実態を調べているということでした。けれどその福井大学の先生がインドは初めてで、インドやヨーガに対しても偏見があるため、彼女は同行していることにぐったり疲れているようでした。
「これからこの研究所の中を案内していただくので、あかねさんもご一緒にいかがですか」
と誘ってくださいました。それで4人と一緒に中を見学し、このヨーガ研究所の様子を知ることが出来ました。科学的にヨーガの効果を研究しデータとして残しています。ヨーガのアシュラム(道場)と違ったヨーガの捉え方がここにありました。医学的、心理学的、生理的にヨーガを分析していました。「ヨーガは科学である」という一面を見た思いがしました。

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13 それではインドに留学しよう!

 一週間の滞在の内に、色々なことが起こり決まって行きました。留学には2人の推薦が必要で、それはその学校に関わりのある人で、そして私の事も知っていることが条件でした。そこで2人捜さなければなりません。滞在中にヨーガ病院に滞在している韓国人の女性と親しくなっていて、その人は韓国でも有名なヨーガの先生で、今もここで本を執筆中、このカイバリヤダーマとも古い付き合いなので、私がお願いすると私を推薦してくれると言いました。もう一人はヒロシさんです。「ヤーヤー、それは問題ないですよ。ハッハッハッハッ」とすぐに推薦欄に署名してくれました。
スワミは
「留学することに決めたのか」
と私に聞きました。私が
「はい」
と答えると
「今回はここにいつまで滞在するのか?」
と聞くので
「明日、ボンベイに戻る予定です」
と言うと、スワミは急にあわてて
「それなら、今日、校長に会っておく必要がある。留学したいことを告げて、校長面接を済ませてしまい、留学許可をもらってから日本に帰りなさい。それがいい、それがいい。アンジェリカ、今、校長に電話するから」と、そこにいるドイツ人の女性、アンジェリカに電話を校長先生の家に繋ぐように言いました。アンジェリカはドイツで弁護士をしていましたが、あまりの忙しさに嫌気がさし、ある日旅に出ることに決めて、他の国に船で旅する予定が、急にキャンセルになり、変更した船の先がインド経由でいくことになり、2、3日インドに停泊する船で、このカイバリヤダーマにあるインド人に連れてこられ、ヨーガのヨの字も知らなかったのに、なぜかすべてを捨てることをここで決心し、旅も止め、ここに滞在し、弁護士もやめ、ヨーガの修行をすることになったのです。
「あのとき、船がインドに立ち寄らなかったら‥‥」
運命は彼女の人生をインドへと導いたのでした。
「それからは180度違う生活。ドイツでは弁護士はエリートで、事務所を持ち、スーツにハイヒール。お酒に煙草、おいしいレストランでのぜいたくな食事。電話ではいつも怒って居て、休みもない忙しさ。ボーイフレンドも弁護士だったけれど、結婚の段階で、彼のお父さんが弁護士の奥さんは困る。弁護士はやめてもらいなさい、と保守的なことを言ったのよ。で、破綻。いつもストレスをかかえていたわね。今は、スワミについて火の儀式のやり方を学んでいるの」
 彼女もインドにはまった人でしょう。今年でインド5年目になると言っていました。スワミは電話で校長先生に
「今、日本人の留学希望者が面接に行くから」
と告げました。スワミは校長はベンガルの出身で日本人が好きだから問題ないとニッコリしました。
校長先生の自宅に面接に行き、私がベンガル語で
「ノモシュカール(こんにちわ)」と挨拶すると校長先生はひどく喜んで「おーおー留学OK,OK」と叫びました。

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14 8月にいらっしゃい

 ヨーガ大学の校長先生は、私がベンガル語を話したことで、すごく気を良くしたようでした。「大学と大学院を出ている証明書と成績証明書、健康診断書、エイズ検査、推薦状などすべての書類を送れば、問題なく留学出来る。こちらから入学許可書を発行するから、それをインド大使館に持って行って、学生ヴィザをとって、8月にいらっしゃい。仏教学の修士号を持っているなら問題ない、問題ない。ようこそ、ようこそ」と上機嫌でした。
インド人は出身地をとても重んじる傾向があって、たとえばベンガル出身の人はベンガル出身の人をとても重要視します。その出身に誇りを持っていて、いわゆる同郷の人を大切にします。だから私がヒンディー語ではなくベンガル語で挨拶したので、ひどく喜んだと言う訳です。日本人でベンガル語を知っているなんて信じられなかったのかもしれません。
「どうしてベンガル語を知っているのか」
と嬉しそうに私に尋ねました。
「3年前にインドのカルカッタ(ベンガル地方)にホームステイしてヨーガと音楽を学んで居たことがあります。そのとき、下宿のおばさんはベンガル語を話していたので、単語だけいくつか知っているのです」
と言うと、
「私の家はカルカッタのそばにある。カルカッタに来たときは私の家に寄りなさい。私は実は今日カルカッタから戻ったところなのです。これはカルカッタのお菓子だ。さあどうぞ、どうぞ」
と言いました。私は留学を許可され、書類を送ることを約束しました。それを聞いてスワミもとても喜んでくれました。韓国人の留学生は
「とてもハードな学校だから、準備をよくして体調を調えて来るべきだ。タフじゃないとやっていけないから。あと語学をしっかり準備して来ること。解剖学の講義は複雑だから、日本語の解剖学の本を持って来た方がいい。でもあなたはもうここの様子がわかったし、インドに何回も来て滞在も経験して居るのだから、問題は何もないように見える。冬は寒くなるから、毛布を持って来た方がいいかもしれない」
とアドバイスしてくれました。

 その日ヨーガ病院のキッチンでは、インド人の子供の誕生会が行われました。その子のおばあさんがヨーガ病院に療養に来て居て、おかあさんも付き添って居るため、誕生会を病院でやることになったのです。インドでは、誕生日を迎える当事者が人々に食事やお菓子を振る舞う習慣があって、その子はまだ12歳なので、その家族が食事やお菓子を用意し、パーティーとなりました。私達外国人も招かれました。色々な国の人が集まって40人ぐらい、みんなおしゃれしていて華やかでした。ゲームが始まり、音楽に合わせてボールを回していき、音楽が止んだときそのボールを手にしていた人は負けで、その輪から外れて行きます。40人が興奮してそのゲームに興じ、私はそういうゲームが苦手なので、割合冷めた感じでボールを隣の人にさっさと渡していたら、結局最後まで私が残ってそのゲームで勝者になってしまいました。賞品はそのボールで、なんとそのボールの中にストロベリージャムが入っているというのです。オドロキ!

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15 オムロンの血圧計が欲しいのだ

 ヨーガ大学の本屋で、ヨーガの本を買い求め、一番難しいとされるヨーガと解剖学・生理学の関係を扱った本を買おうとすると、その本はここには置いていないと言うのです。困っていると、本屋さんのおじさんが、その本を書いた本人がこの研究所にいるから、その人に直接会えば、本を売ってくれるかもしれないと言うので、さっそくヨーガ研究所に行ってみました。

 ヨーガ研究所でそこの入り口に丁度立っている人に
「ゴーレ博士に会いたいのですが、どうしたらよいでしょうか?」
と聞くと、その人はニヤッと笑い
「どうもしなくていい。私がドクター・ゴーレだ」
と言いました。
「はぁ」
と私は驚いて
「ナマステ(ヒンディー語でこんにちわ)」
と言って手を合わせました。
「オケー、私のオフィスにいらっしゃい」
とゴーレ博士は彼の部屋に私を招きました。
「で? 私にどうして欲しいのかね?」
と尋ねました。
「解剖学と生理学の本が欲しいのですが」
と私が言うと、察しはもうついていたようで、その本をすぐに出して売ってくれました。そしてしばらく私のことやゴーレ博士のことなど話しているうちに、突然ドクター・ゴーレは
「オムロンの血圧計が欲しいのだが、留学する8月に買って来てくれないだろうか。ヨーガの研究には血圧計は欠かせない。どんなアーサナ(ポーズ)のとき、どのような変化がおき、リラクゼーションでの血圧の変化、瞑想後の変化など記録している。でも何と言っても工業製品の品質は日本製が一番すぐれている。ぜひともオムロンの血圧計が必要なのだ」
と力強く言いました。私は
「はぁ」
と少し驚きました。なぜなら私は前回の引っ越しのとき、使わないものとして血圧計をどう処分するかで悩み、でもまだ使っていない新しいものだったので、捨てることも出来ず、あげる人も見つからず、まだ持っていたのでした。それはオムロンの人からもらったもので、以前、オムロンのヒューマン・ルネッサンス研究所の人が、体と心の健康についての取材で、私のヨーガを体験し取材したそのお礼に、指で計れる最新式の血圧計をくれたのでした。しかし私は血圧を計る習慣がなく、宝の持ち腐れだったと言う訳です。私は
「私はオムロンの新しい血圧計を持っています。それを私は使わないので、あなたに差し上げます。私はオムロンの人を知っていてその人にもらったのです」
と言いました。すると今度はゴーレ博士が驚きました。そしてニヤッと笑いました。
「で、いつくれるのだ」
とたたみこむように問いただします。
「日本からすぐに送ります」
と私が答えると安心したように満足した様子で、そして言いました。
すばらしい。今日ぜひとも私の家にお茶を飲みに来て欲しい。あなたに見せたいものがある」

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16 なんだかひとつすっきりした

 私は必要のないものを手元に置いて置くことが嫌いです。必要なものだけに囲まれて生活したいのです。と言うよりも本当は何物にも囲まれずに、ガラーンとしたすっきりした状態の中で、生活していたいのです。だから、たとえ戸棚の中にそれが入っていて、見えなくとも、もしそれが不必要なものだとすると、気になるのです。戸棚の中もすっきり整頓されている状態が好きなのです。そして物は少なければ少ないほど嬉しいのです。必要なものが少なくなってくることが喜びです。しかし、生活必需品というのは、日本で生活する限り、たくさんあります。けれど、前回半年インドでヨーガの修行をしたときも、リュック一つで事が足りたのを考えれば、本当に必要なものなど、そんなにないのかも知れません。
 私にとって不必要だったオムロンの血圧計が、戸棚の中にあって、私はそれが必要とされるところに移動出来ることで、
「あぁ、なんだかひとつすっきりした」
と思うのでした。

 その日、ドクター・ゴーレの家にお茶を飲みに行きました。博士であり、アーユルヴェーダ(インド伝承医学)の医者でもある彼の家は、すべての電化製品がそろっているようでした。インドも近代化が進み、西洋化されたライフスタイルに、生活は大きく変化しつつあります。博士のお嬢さんは、インド服ではなく、洋服を来ていました。まだまだインドではインドの民族衣装、既婚女性はサリー、未婚女性はパンジャビ・ドレスをほとんどの人が着ていますが、都会の近くや上流の人達は、ジーパンにTシャツがナウイとされ、洋服を好んで着る人も多くなっています。
 博士もオフィスで会ったときは、ワイシャツにズボンでした。家ではクルタシャツとパジャマズボンというインド服でくつろいでいる様子でした。
「さあ、これを見て欲しい」
と指さしたのは、ヨーガの象徴であるオームと言う、サンスクリットの文字の瞑想用に使う美しいデザイン画でした。彼は音楽も好きでインドの古典音楽を流し、インドのお茶を入れてくれました。そして
「これを試して欲しい」
と大きなビンから茶色い粘り気のあるものをスプーンで取り出し、私に食べるように勧めました。それは口に入れるとすごい密度で粘り気があり、飲み込むのも力が必要な感じで、薬草のエキスの固まりのようでした。それが胃に入ると
「オオオーーー」
と言う感じでエネルギーが吹き出し、私には刺激が強すぎる感じがします。私は刺激には弱いのです。
「アレェーーー。オオオーーー」
などと、騒いでいるとドクター・ゴーレは『どうだ、すごいだろう』と言うふうにニヤッとするのでした。
「これは何ですか」
と私がヒンディー語で尋ねると、ドクター・ゴーレは
「これはアーユルヴェーダの薬で私が作った強壮剤だ。パワーがすごいだろう。これで私は病気などしない。どうだ。どうだ。どうだ」
と得意げです。刺激に弱い私は「どうもまいりました」という状態でした。

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17 とりあえず、馬にでも乗ろう!

  留学することは、ほぼ決まりでロナワラを去ることにしました。留学することが決まったと言っても、考えなければならないことはいくつかありました。ひとつは仕事のことです。その当時私はいくつかの場所でヨーガを教えていて、私が留守の間、ヨーガのクラスをどうするかが問題になります。前回のインドヨーガ修行の時は代行の先生で大丈夫でしたが、今回は期間も長く、もし代行の先生では困ると言われれば、それらを完全に止めてインドに来なければならないかも知れません。代行の先生でもいいですと言うことになっても、代行の先生がうまく見つかるかもわかりません。また留学の間、大切な愛する人々と別れて過ごさなければなりません。考えなければならないことは、たくさんありましたが、
『留学することが正しい決断で、それが運命なら、事はスムーズに運んで行くだろう。それはそのとき考えよう。とりあえずは馬にでも乗ろう!』
とだけ決めてボンベイに向かいました。突然なぜ馬なのかというと 、私は人生でまだ一度も馬に乗ったことがなかったからでした。インドのガイドブックを見ていて、ボンベイで行くところを決めていたとき、ボンベイの近くにジェフビーチという観光地があって、そこでは砂浜で馬に乗れると出ていたのです。私は
『そうだ。馬だ!』
と直感的に
『そうだ。私は馬に乗りたかったのだ。馬なのだ!』
とヒラメイたのでした。
それには、実は訳があったのですが、そのときは気づかなかったのです。
ボンベイから車で30分程走り、ジェフビーチに着きました。浜辺のレストランでチャイを飲み、食事をして海を見ていると幸せな気分になって来ます。
『夕日を背にして馬に乗るのがよいかなぁー』
などと思いを巡らしながら、しばし海を眺めています。インドの海で馬に乗るというなんとも不思議な「なぜなの」という感じもあるのですが、浜辺に降りて行くと、私の馬への関心がすぐに伝わってしまったようで、馬引きの人達が自分の馬に乗れとしつこく群がって来ます。その中の一頭を選びます。馬を間近でよく見たことがなかった私は、ワクワク、ドキドキ、その馬の美しさに感動するのでした。その馬の謙虚な風情に驚かされました。と言うのも馬のまつげは下向きに生えていて、その長いまつげが瞳を覆い隠すように、控えめな感じが漂っているのです。
「なんて控えめで謙虚でおとなしく静かなの」
というのが私が抱いた馬の印象でした。いよいよ馬にまたがり、砂浜をかけて行きます。夕日はオレンジ色に海を染めて行きます。馬に乗って、私は馬に前にも乗ったことがあるように違和感を全く感じませんでした。そこで思い出したのです。インドに発つ前に、知り合いの人が「私の前世は戦国の武将だった」と言ったことを。それで私は納得しました。その言葉が私の中に知らない間にインプットされていて、それで突然馬に乗りたくなったのだと。馬の乗り心地は最高で、私は馬に乗ってヨーガを教えに行けたらいいのにと、そんな非現実的なことを考えているインドの浜辺なのでした。

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18 マハトマ・ガンディーのシンプル

 ボンベイに戻った私は、ボンベイ観光にでかけました。エレファンタ島やイスラム教のモスク(寺院)、ヒンドゥー教のお寺などを廻りました。私の夢はいつか巡礼の旅に出ることです。でも最近は何より重要なのは内なる自分自身への旅にでることなのだと気づき始めています。

 ボンベイにある、マハトマ・ガンディーの滞在していたところ、マニ・バワンに行ってみました。マハトマ・ガンディーはインド独立の父と言われ、イギリスからの独立にさいして、人間の権利を守るという真理の要求を、暴力を用いず自分を厳しくコントロールすることで貫徹するという「サティヤーグラハ(真理の把握)」理論を打ち立てました。マハトマ・ガンディーは、アヒンサー(非暴力)、ブラフマチャーリー(禁欲)など、ヨーガでも重要とされる姿勢を保ち、インドをイギリスからの自由の境地・独立へと導いたのです。「マハートマー」というのは、「偉大な魂」という意味です。

 マニ・バワンに行って見ると、ガンディーが滞在して居たその部屋がそのまま残されていて、ほとんど何も無い空間です。そこにあるのは、糸を紡いでいた糸車と、小さな机、本は3冊、インドの聖典・バガヴァト・ギーターとムスリムの聖典・コーラン、そしてキリスト教の聖典・聖書です。そのシンプルさに私は感動してしまいました。修行者のような痩せた体、簡素な衣服、素足にサンダル。どこまでも歩き、人々に「非暴力・不服従」を説いて廻りました。
 インドでは今でも各地に、マハトマ・ガンディーのアシュラム(隠遁所)があって、断食や質素な生活をして、マハトマ・ガンディーの意志を受け継いでいます。
 私の今回のインドの旅も終わりを告げようとしていました。南インドを旅する予定が、あきらめていた留学先へと導かれ、そして私の今後の予定も大きく変えようとしていました。
「それでもいい旅だった。馬にも乗れたし・・・」
 エアー・インディアに乗り込むと、周りは全部日本人。『わぁー、こんなにインドに来る日本人ているのかぁー』としばし、唖然。よくよく聞いて見ると、その人達は100人のツアーで、全員がサイババのアシュラムに滞在した帰りだったのです。何がどうしたのかはわかりませんが、私一人がそのサイババツアーの100人の乗客の真ん中に座ってしまい、まわりは『サイババ』色、一色。興奮に包まれていました。

 サイババとは、南インドにいる聖者で、奇跡を起こし病を癒すと言われている人です。私はまだ会ったことはないのですが、私のまわりには、サイババの信奉者も少なくなく、私が友人にもらったサイババのビブーティー(聖なる灰)をあげて、ガンだった人が何人か治っていました。不思議なこともあるものだと、思ってはいたのです。私の両隣に座った女性2人もサイババの話でいっぱいでした。そして1人の女性がサイババのアシュラムで買った本を私に見せてくれました。私が「あぁ、これは人との調和について書かれている本なのですね」と言うと、その人は急に「わあー」と大声をあげたので私はびっくりして跳ね上がってしまいまったのです。

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19 サイババさまがあなたを隣に座らせた

 エアー・インディアの帰りの飛行機の中で突然大声をあげたその人は、私に向かって興奮した口調で話し始めました。
 「わぁ、サイババさまが、この本を私のために訳してくださるためにあなたを隣に座らせて下さったんだわ。この本をサイババさまのアシュラムで買うとき、迷ったんです。私は英語が出来ないから買っても読めないと。でも今あなたが『この本は人との調和について書いてある』とおっしゃたのをきいて、ドキンとしました。今、一番私に欠けていて、一番重要で必要なのが、その調和なのです。内容もわからずこれを選んだんですが、やはりサイババさまは、私に一番必要な本を与えて下さったのですね。だってその本屋には、たくさんの数え切れないほどの本が並んでいたのですから。そしてその内容を読むことが出来ない私に、その本を訳して下さる人としてあなたを隣に座らせてくださったんですね。嬉しいです。それではお願いします」
 と、その人はノートを出して開き、ペンを握り締め、その本の1ページ目をめくって、私が訳すのを書き留める用意をして待っています。
 「はぁ」
私は訳も分からず、1ページ目の1行目から訳し始めました。
 「あぁ、とてもわかりやすいです。そうなのですね。んんん、そうですね」
 と、深くうなずいています。でも私も少し不思議でした。なぜなら、スラスラ訳せるし、なんかどこかで聞いたような内容なのです。それで思い出しました。その場所はサイババの生涯とどういう人かを説明している箇所だったのですが、それはロナワラのヨーガ病院に滞在していたとき、オーストラリアに住んでいるインド人が、やはり滞在していて、私の部屋を尋ねて来て日本のことなど色々聞いていたのです。それで私の日本語のインドについての本を開けると、そのページがたまたまサイババの写真が出ている、サイババの紹介のページで、その人は突然
「オオー」
と叫んで手を合わせ祈るしぐさをしました。
「アレーババ、サイババは私を呼んでいるのか」
と言うのです。聞くところでは彼はサイババの信奉者で、一度サイババのアシュラムに行きたいと思っていると。彼はそのページに書いてある日本語の内容を英語に訳してくれるように私にそのとき頼んだのでした。英語で説明すると
「んんんーーーそうだ。そうだ」
とうなずいて納得している様子でした。そのときの内容が今、日本人の女性に英語から日本語に訳してあげているのと同じ内容だった訳です。
『あぁ、そんなこともあるのか』
と偶然と言うか、必然と言うのか、インドではそんな偶然の一致がよく起こるのです。それで私は飛行機に乗っている間、彼女のためにサイババの本を訳し、まわりの人達の
「わぁーーきれいな朝日よ。サイババさまが見せてくれているのねぇー」などと言う言葉や驚きの歓声の中で、「あのねぇー」と心の中でつぶやくのでした。

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20 留学の準備

 日本に無事に戻った私は、その年の8月から留学するための準備を始めました。まぁ、始めると言っても英語とヒンディー語の勉強ぐらいなのですが。
 問題は留学の間、私が受け持っているヨーガのクラスをどうするかということでした。それでも焦ることもせず、春は終わろうとしていました。その頃、電話が鳴って懐かしいサンジェさんからでした。サンジェさんは、インド人でアーユルヴェーダ(インド伝承医学)のドクターでした。
 「ハァーイ。ナマステェー、ナマステェー(ヒンディー語の挨拶)」
といつもの調子で、元気な声を出しています。
「おおー。サンジェさん元気ですか?」
「んんんーー。元気、元気」
しばらく近況など話して、インドに行っていたことなど話すとインドに帰りたい様子でした。サンジェさんは日本人と結婚し、子供も一人います。彼はインドで子供を教育したいようでしたが、奥さんは日本で育てたいのです。
「インド、どうだった?」
と聞いたので、ヨーガの大学に留学したいと言う話をすると、とても喜びました。でも彼は本当は私に彼の出身大学に留学して欲しいのです。それは知り合った当初から勧められていました。彼はインドの名門、バナシー・ヒンドゥー大学で、そこで博士号をとっています。彼の家はおじいさんがヨーガを教えていてアシュラム(道場)をもっていて、お父さんはバナラシー・ヒンドゥー大学の教授です。
「留学するのに何か問題ある?」
と彼が聞くので
「問題ないのだけれど、日本の私のヨーガクラスをどうするかが問題」
と言うと
「んん、問題ないない。僕がそのクラスを教えて  あげますよ」
と簡単に言うのでした。サンジェさんは東大の研究員でしたが、3月でそれも終わり、仕事を捜していたのです。現在はインドについての講義をしたり、ヨーガを単発で教えていたりするそうで、私の持っていたクラス全部をもってくれる、問題ないないと言うのです。私は
『はぁ、彼はアーユルヴェーダの医者だし、生徒さんが直接インド人から習うことも一生のうちチャンスはないかもしれない。良い機会かもしれない』
と思いました。サンジェさんはめげない明るいいい人ですし、なかなかのハンサムです。いつもニコニコしていて、私もよく勇気づけられました。私がインドに留学する運命だとすれば、代行の先生も現れるはず、と心のどこかでのんびり期待していたのです。
「ノープロブレム(問題ないよ)」
サンジェさんは言いました。それが後になって大問題を引き起こすとは誰もそのときは予測していませんでした。ただ、そのときはそのタイミングのよさに、目に見えないものに感謝したい気持ちの私だったのでした。
「とりあえず、会いましょう」
と言うことで、電話を切ったのでした。

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21 解剖学の本

 留学の準備として、ヨーガ大学のテキストの予習をはじめた私は、まるっきり歯が立たないことに気づくのに時間はかかりませんでした。テキストは哲学書だったり、解剖学や生理学の本で、それがサンスクリット語と英語で書かれているのですから『あぁ、どうしましょう』となるのです。それで、ヨーガ大学に留学していた韓国人の言葉を思い出しました。
「解剖学と生理学は難解だ。英語と日本語でからだ の器官の名称が出ている本を用意して来るべきだ」
それで本屋さんで解剖学の本を見ますが、両方で説明している本は見つけられませんでした。ヨーガ大学のテキストを訳してみますが、単語が医学用語なので、普通の英和辞典には載ってない単語がたくさんあります。医学英和辞典も見つけなければならない状態でした。

 そんな事を考えているうちに、時はあっと言う間に過ぎ、健康診断書やエイズチェックの英語での診断書を用意しなければならない時期に来て、区役所の保健課で英語で診断書を作成出来る先生を捜しました。それで診断してもらい、そのときに
「英語と日本語両方で説明している、解剖学と生理学の本がありますか」
と先生に聞いてみました。
「えぇ?」
 と先生は一瞬驚いた様子でしたが、横浜市立医大の生協の本屋に行けばあるはずです。と教えてくれました。
 「で、市立医大というのはどこにあるのですか?」
  と聞くと先生はまたもや
「えぇ?」
 と驚いて、
「このシーサイドラインに市立医大前という駅がありますから、すぐですよ」
と教えてくれました。
 それでさっそくその帰りにそこに行き、本屋さんでその本を買いました。でも医学英和辞典は、びっくりするほど高価でしかも重く大きいため、とてもインドまで持って行けそうにありません。それはすぐにあきらめました。けれどその後すぐに医学英和辞典は手に入ることになります。

 インド音楽の関係でその頃知り合いになった人が、家に遊びに来て、話しているうちにその人は薬剤師で、薬科大卒だったのです。それでそういう辞典で小さいものがあるかと聞くと、その人は持っていると言うのです。買ったけれど日本語で勉強したから、ほとんど開いたこともないと言い、「どうぞインドに持って行って下さい」と貸してくれることになりました。
 その辞書で調べると解剖学の本も訳すことができます。だんだん準備も整いつつあり、後はヨーガクラスの担当の人に留学する事を伝え、許可をもらう必要がありました。心配していましたが、拍子抜けするほどすんなりと「どうぞ、そういうことなら勉強して来て下さい。代行の先生をたてて下さればいいですから」
と言われました。
 「代行の先生はインド人でもいいでしょうか?」と聞くと
「えぇーー!い・いいですよ。でも日本語が通じるでしょうね」という反応で
 「はい、通じます」
と言うと安心してくれたようでした。

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22 史上最悪の飛行機

 サンジェさんとの打ち合わせも無事すんで、あとは飛行機の予約と入学願書の書類を送り入学許可を受け取って、インド大使館に学生ヴィザを申請することが必要でした。インド政府から学生ヴィザがおりなければ留学は出来ません。州立の大学ですからその辺は厳しいのです。
サンジェさんは
「あと僕の助けは何か必要ないか?」
と聞きました。それで
「ない、ない」
と答えると
「飛行機はどうした?」
と言うので
「今聞いているのだけれど、エアーインディアは一年オープンで20万近くする。出発が丁度お盆の休みにかかってしまうから」
と答えると
「20万は高いでしょう。僕の友人が旅行代理店しているから、これから彼の所へ一緒に行って安い飛行機を捜しましょう。彼は僕の友達だから問題ないない」
と言いました。それで池袋にある旅行代理店に行くと、そこは外国人のスタッフばかりでお客さんも外人ばかりでした。サンジェさんの友達はそこのオーナーでパキスタン人でした。ハンサムで人相もよく、信用出来そうに見えました。
「彼は僕の兄弟みたいなものだから、心配ないない」
とサンジェさんは上機嫌。私は『さっきは友達と言ったのに今度は兄弟と言っている。調子いいんだから』と思いながらも、その人にインド行きのチケットを検索してもらいました。それで彼は安いチケットを見つけました。
「ビーマンはどうですか」
と言いました。私は
「ピーマン?」
と聞き返すと2人は大笑い。
「ピーマンじゃなくてビーマン、バングラデッシュ航空です」
サンジェさんは
「きゃーーー、ビーマンかぁーーー」
と何か異常反応しています。いやな予感。
「どうですかと言われても、知らないし」
「1年オープンで10万です」
そして突然2人はヒンディー語で話し始め、余計いやな予感。話を想像するに、ビーマンはきつ過ぎないか、良くないのではないかと言っている様子。インド人がきついと言うのは、日本人にしたら死ぬぐらいきついということ、でも旅行代理店の人は
「大丈夫。5月にエアバスがすべて新しくなったから」と説明しました。
「ほーー。エアバスが新しくなったなら全然問題ない。決まり決まり。2分の1ですんだのだから、あなたは僕たちにご飯をおごるべきだねぇーー」
とサンジェさんは明るく上機嫌。
「よかった。よかった」
と満足げです。それが史上最悪な苛酷な旅になることを、そのときは誰も知る由もなかったのでした。

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23 後悔、先に立たず

 ビーマン(バングラデッシュ航空)に決めたことを、少しずつ後悔していました。と言うのもよく聞けば、その飛行機は成田を出発し、まずはシンガポールに向かい、それからタイのバンコクに飛び、そしてバングラデッシュのダッカに向かいます。そこでバングラデッシュに一泊して、次の日、ボンベイに飛ぶのです。そのときは、
「色々な国に寄れて楽しそう。シンガポールも行ったことがないし、バングラデッシュも初めて。しかもそこに一泊できる。その宿泊代も含まれているなんてなんて親切」
と無邪気にかまえていたのです。そこで安いのには訳があると言うところまで深読みはしませんでした。
しかしインドに行くと言うことを友達に言うと必ず
「何航空で行くの」
と聞かれます。で、まあほとんどの人は、ビーマンなど知らないのですが、知ってる人は異常反応します。
「きゃーーー。ビーマンかぁ」
と。その含みを帯びたため息まじりの、聞いただけで疲れてしまったよ、と言う反応に、私は徐々に不安を感じ始めていました。
 それでもそれまでは私は飛行機が好きだったので、「まぁ、いいかぁ」
ともう投げやり。あとは入学許可を待つのみでした。

 その頃、アメリカ人の知り合いが、インドに行く前にアメリカで瞑想キャンプに行かないかと誘ってくれました。アメリカの砂漠でキャンプして瞑想すると言うものでした。私は「砂漠」と聞くとクラクラしてしまうのです。「砂漠」と聞くと断れないのです。どうしても断れないのです。それは理性では判断出来ない、どうしてなのか自分でもわからない「砂漠」の引力です。それで8月から留学するので7月からサンジェさんにクラスを代わってもらうことにして、アメリカに行くことにしました。けれどそれに行くには、足の筋肉と腕の筋肉を鍛えてこければだめだからと言われ、すぐにジムでトレーニングを始めるように言い渡されました。問題は6月に入学許可を受け取らないといけなくなったということです。でも催促しても一向に来ません。そこがインドなのです。すぐ来るなどインドではあり得ないことです。

『どうしたものかと』

考えあぐねていると、丁度ロナワラのスワミ(精神的指導者)が来日することになり、私はスワミに会いに行きました。スワミは講演して日本をまわり、横浜にもいらしたのです。それで6月に入学許可をもらいたいのだけどと話すと、では校長に話してあげるからと言って下さいました。校長先生はスワミの言うことはすぐに聞くのです。そこの場所で一番偉い人は、スワミなのですから。

 それで6月中に入学許可を受け取り、ヴィザも取れました。それで安心してアメリカの砂漠に瞑想キャンプに出掛けました。それは想像を絶する旅でしたが、今となっては貴重な体験でした。しかしその苛酷な旅の途中で1度だけ涙をこぼしてしまいました。その旅の話もいつか出来るときが来るかも知れません。その苛酷な旅を終え、私はいよいよインド・ヨーガ大学に留学するために出発することになります。

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24 さあ、インドに出発!

 それは8月でした。留学はアメリカの苛酷な砂漠の旅を終え、その後、すぐに支度に取り掛かり、家族にしばしの別れを告げて出掛けることとなりました。今は便利なシステムがあって、留学に持って行く大きなリュックは、宅配で前日に取りに来て、その当日成田で受け取れるのです。だから出発の朝は、ほとんど手ぶら状態で、飛行場に行けるという気安さ、ほとんど緊張のない出発。けれど、不安はビーマン(バングラデッシュ航空)の行く先、バングラデッシュの首都ダッカでの一泊でした。行ったことも見たこともない国、しかもガイドブックも本屋にないのです。
 
 ビーマンはエアバスが新しくなっていて、なかなか快適、私は「いいじゃない。問題なし」と喜んでいました。周りは全部日本人。シンガポールで半数の日本人が降り、どこの人か分からない人達が乗って来ました。私の隣には、おそらくタイ人らしきおじさん。彼は英語もしゃべれず、スチュワーデスさんの言うことも分からず、飛行機は初めてという感じで、緊張の面持ち。シートベルトをすることもわからず、ただ堅くなって座っているのです。でも英語が通じないので、私はジェスチャーで示すほかはありません。でも素朴なよいおじさんでした。私はヴェジタリアンミールを頼んでいるので、特別メニューで、そのおじさんは食事のとき、なぜ私のだけが違うのか気になっているようでした。でも嬉しそうに機内食を食べていました。

 タイのバンコックに着くと、おじさんは『ほっ』としたように、嬉しそうに降りて行きました。そこでほとんどの日本人は降りてしまい、見渡す限りでは日本人は誰もいません。突然、乗って来た人達の顔ががらっと変わり、どうやらバングラデッシュ人のようです。私の隣に乗って来たバングラデッシュ人は、若いお兄さんで、まだ10代か20代前半といった感じ。こちらの様子を伺っています。私は日本人が居なくなったことで少し不安になってきました。留学するのですから日本人が居ない生活は当たり前なはずなのに、直面するとすこし緊張します。バングラデッシュ人のお兄さんは、先程までのタイ人の素朴なおじさんとは違い、すれた感じで、片言の英語でも執拗に話しかけてきます。

「どこへ行くのか。何人だ。どこに泊まるのか。ダッカは初めてか。何日ダッカに滞在するのか。ダ ッカを案内してあげるよ」
と言いたいらしく、それを聞き取るだけでも疲れます。

「私はダッカには一晩しか泊まらないし、ダッカを見物するつもりもないから」
と断りましたが、果たしてそれが通じたのか、同じことを繰り返し聞くので『まいったなぁ』と言う感じ。それでも映画が始まると、見始めたので、私は眠りにつくことが出来ました。

 結局その飛行機は、シンガポールでとまり一時間のトランジット、私は空港内の免税店などをうろうろし、タイ、バンコックで1時間機内待機、そしてやっとバングラデッシュのダッカに着いたのでした。なんて遠回りなこと。ダッカに着いたのは夜遅く、降り立った飛行場はさすがにイスラム圏、そのロビーには女性の姿はなく、男の人ばかりが不気味な洋装でたくさん座っているのでした。

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25 ダッカは不気味じゃ

 バングラデッシュの首都ダッカにたった一人降り立った日本人のこの私。人々は白い小さな帽子をかぶり、白い長いローブのような服を身にまとい、髭を蓄えギョロッとした目で、飛行場のロビーに座って居ます。飛行場だというのに、そこは薄暗く、しかも規模があまりにも小さく、一目で飛行場全体が見渡せてしまうといった感じ。外は真っ暗で何も見えず、ここに座って居る人達は、こんなに夜遅く、これからどこに行くというのでしょうか。なんだか不気味な見知らぬ国に一人降りたってしまい、「ここはどこ、私は誰」状態で、しばし唖然。イスラム教圏なので女の人があまり出歩かず、そこに居ないこともあって、皆の服装が白か黒で、そのとき私はピンクのスエット地のパンツをはいていて、とても居心地の悪い思いをしていました。

 飛行場のカウンターで、今日泊まることになっているホテルはどこかと尋ねると、バスで行くことになっているから、しばらくロビーで待つようにと言われました。その「しばらく」というのが、もうインドに近い訳で、もう「待つ」ことの忍耐を学ばなければならないのです。本当にしばらく待っていました。やがて夜もすっかり更けたころ、ビーマン(バングラデッシュ航空)のおじさんの先導で、何人かのインド人と小さいバスに乗り、ホテルに向かいました。真っ暗闇の中に浮かび上がるダッカの街は、不気味なオレンジ色のほの暗い電灯の明かりに、ところどころ目をこらせば、やっと何かが見える程度で、ほとんど何もないと言う風で、私のダッカの印象はと言うと

「ダッカは不気味じゃ」
でありました。まあインドと似たようなものだろうと、汚れたバスの窓から、外の風景を眺めていると、インドでよく見る露店が道にあって、やはり独特のスパイスのような匂いが漂って来るようでした。

 ホテルは中級といったところで、期待して居なかったわりには、広い部屋とホットシャワーがついていて、とりあえずは満足。けれどホテルのボーイが引っ切りなしにやって来ては、何かと世話をやき、狙いはどうやらチップをもらうことのようでした。けれど残念ながら、私はトランジットだけなので、バングラデッシュの入国審査は受けて居ないため、パスポートはビーマンが飛行場で預かったので、両替が出来ず、バングラデッシュのお金を持っていないので、チップはあげられないのでした。さんざん世話をやいて愛想をふりまいたボーイ達も私がお金を持っていないことを知ると、がっくりうなだれて部屋から出て行きました。その後は誰も部屋に来ませんでした。静かになって、ホットシャワーを浴び、ヨーガをして疲れをとって眠りに着きました。

 翌朝起きて外を見ると、ごちゃごちゃしている街の風景が目に飛び込んで来ました。車も行き交い、人々はもう活動を始めていました。ホットシャワーを再び浴びて、ヨーガをしてホテルのレストランで朝食を食べました。ホテルの人達はベンガル語を話していました。彼らはイスラム教徒です。昼食はバングラデッシュカレー。ルーがスープのようなドロドロしていないカレーです。ボンベイ行きの飛行機は午後の便で、ホテルでゆったりした後、バスにインド人二人と乗り込み、飛行場に向かいました。

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26 異教徒のインド人2人と

 バングラデッシュの首都ダッカの飛行場に向かう小さなバスの中で、2人のインド人のおじさんたちは「僕たちもボンベイまで行くから心配ないよ」と話しかけて来ました。それからは質問攻め。インド人からの質問はいつも決まっているので、もう慣れっこですが、まずは「結婚しているのか?」で始まり、「日本のどこに住んでいるのか」「職業は何か」「親の職業は何か」「宗教は何か」「一カ月どのくらい稼ぐのか」など、全くもってプライバシーを無視している質問ばかりなのです。彼らにとっては、カーストと宗教は非常に重要な人を判断する手段なので、職業を聞くことで、カーストを察するというやり方を使うのです。もちろん日本人の私にはカーストなどないのですが、私の父が大学の哲学の先生で、今は引退し、本を書いたり、宗教的な講演をしたりしていると言うと、彼らは、最上位カーストであるバラモンだと見なし、一応尊敬の念を抱くのです。つまり、インドの社会では、僧侶階級が一番上で、文化的な事に携わる人や教育者、研究家などは、上位に位置付けるのです。

 その二人の職業は、ビジネスマンで、向こうで言うとクシャトリア階級を指し、彼らはインドでは中流以上の暮らしをしている恵まれた人達と言えるでしょう。大都会ボンベイ(ムンバイ)に暮らし、飛行機を使って、ビジネス上の出張をしているのですから。
 
 私がヨーガ教師だと言うと「ホー、ヨーガは体に良いのか?」などと質問されます。彼らは流暢に英語を話し、内輪の話しになると、マラティ語を使います。もちろんヒンディ語も話すのです。彼らは一人はヒンドゥ教徒で一人はキリスト教徒でした。ヒンドゥ教徒の方は菜食主義で、キリスト教徒の方は非菜食主義でした。ヨーガの事を色々質問され、私としては「あなたたちの国のことじゃないの」と言いたくもなるのですが、二人ともヨーガ